121 :パスティス:2014/07/03(木) 23:19:24
1947年の事だ。
ぼくことアーチー・グッドウィンはまだ日本にいた。
昨年に雇い主である所のネロ・ウルフから命じられた日本の黒幕、夢幻会を調査しろという命令を私自身は果たしおおせたと思う。
正直な所、家に踏み込まれて日本では中々手に入らないステーキを台無しにされた時には半ダースほど旧米海軍に負けず劣らずの罵り言葉を叫んだものだが
それに関しては仕方のない事だろう。
いつの日かあの村中という男を右ストレートでのしてしまえば気が済む話で、そこは気のいいカリフォルニア人の大人の態度を見せるべきだと思う。
ウルフも知っているように、ぼくはナイトクラブで三時間も女性とダンスを踊れば奥底に潜んだ隠し事も詳らかに出来るという特技がある。
勿論ネロはそんな事は信じていないし、そうやって言っておけばぼくが発奮と発情を伴って有意義な捜査が出来ると考えているだけだ。
話がそれたが、現在の状況を説明するとしよう。
今現在ぼくは帝都である東京の料亭にいる。
といっても離れで待ちぼうけているだけで、隣にはウルフもいる。
座椅子というやつに居心地悪そうにしている姿は滑稽だが、むっつりとした顔には少しばかり戸惑いがあった。
やがて暫くしてから複数の足音が聞こえてきて、ようやく離れの扉――障子といったか――が開かれた。
そこにいたのは帝国の魔王と呼ばれる辻という男と、米国に対して完全勝利を決めた総理大臣、嶋田繁太郎がいた。
だがもう一人、その横で杖をつきながらやってきた老人がいる。
「お待たせしました、ミスターネロ・ウルフ」
「せめて安楽椅子は欲しかったもんだ」
日本政府の人間なら誰もが恐れるという辻の言葉にも、我らがウルフは全く動じていない。
というよりもこの男が動じるというのは生半な事ではないのだ。
だがちらりちらりとその横にいる老人を見遣っている所に、ぼくは驚きを覚えている。
「元より私らはあんたらと血みどろの戦争を起こそうなんて考えても居ない。
個人と組織じゃ個人が最終的に押し負けるもんだからな」
「さて……」
ウルフの皮肉――要するにダーティーな手を使えば幾らでも黙らせられるだろうという言葉に
辻はアルカイックスマイルで返してきた。
ぼくは日本人のほほえみというのがどうにも苦手だった。
何せこの間声をかけた大和撫子はぼくの酒場での誘いをこのほほ笑みで返して三千円の奢りに成功しているのだから。
「私達とて米国に名高い探偵を敵に回したくもないのですよ。
勝利を得られるとしても、そこに至るまでの代償が高過ぎる」
私立探偵を敵に回す、というのは厄介なものだ。
ウルフを殺すのは訳もないことだろうが、殺すまでにどれだけの情報が流出するかわかったものじゃないし
ウルフの持つコネクション全てに敵対的意識を植え付けることになる。
それらを意に介さない超帝国ならば話は別だが。
「まあ尤も、たかだか半年で夢幻会メンバーの過半数を割り出されるとは夢にも思いませんでしたが」
魔王辻や嶋田元帥も、ぼく達に苦々しげな顔を浮かべている。
これは当然だろう。
日本政府は実に厳重な捜査網を張り巡らせていた。
だけれども、どうしてもシャーロック・ホームズというネームバリューに負けたらしく
ぼく事アーチー・グッドウィンのような無名の人物に向ける注意力は私立探偵を相手にするにはいささか少なすぎた。
結果、ぼくが彼ら夢幻会の知る所となるまでには、実に三ヶ月。
村中という男率いる特殊部隊じみた連中がぼくらに差し向けられるにはそこからおよそ十五時間。
ぼくが逃げきれなくなるまでには更に二ヶ月を要する結果となった訳だ。
そして半年後に、ネロ・ウルフがカリフォルニアからやってくるにあたって、夢幻会も敵対ではなく絡めとることを決定した。
その代償が五日ほどのホームレス暮らしと、せっかくのオーダースーツがボロ雑巾というのはどうかと思うが、そこはウルフの交渉に期待するとしよう。
122 :パスティス:2014/07/03(木) 23:20:03
「グッドウィン君は優秀でね。
……ああ、ああ、バカバカしい。
腹の探り合いはよそうじゃないか。
私達は英国政府からの依頼を受けて、夢幻会の調査を頼まれた。
だけども別に私らは政府の人間じゃぁないんだ」
「よく承知していますとも」
辻ではなく嶋田が頷く。
その眼光と威圧はウルフをもってしても少しばかり唇をすぼめさせるものだった。
しかしウルフはフーヴァーが直接事務所に訪ねてきても放置した男だし、ぼくもお茶を一杯すすれば自分に直接向けられていない視線なら避ける事が出来た。
「どちらにせよ夢幻会メンバーがいずれはばれると覚悟していた。
それが数年以上早まったのは恐るべきことだが……これ以上の事を調査する気もないのだろう?」
「そのとおりだ」
もしかしたらテキサスで出版されている日本陰謀論に類するような秘密を夢幻会は抱えているのかもしれない。
しかしそれを探りだした所で、ぼく達には益がない。
そんなものを探りだしたら、それこそ二度と私立探偵としては生きて行けず、英国かカリフォルニアの専任スパイとなるしかないだろう。
「……そんな所に、ここのご老人から提案が出された。
いや、実に素晴らしいタイミングのストレートパンチだったよ」
苦く笑う様子で嶋田元帥が五人目の存在に目をやる。
――先日、嶋田総理が自宅へ帰ると、一人のふくよかな福建人が見事な正座をして帰りを待っていた。
家人に聞けば、イギリス大使館からの客だというので帰す訳にもいかず、待っていてもらったとのこと。
嶋田がそれはそれはと客人の素性を正すと、実に楽しげな笑みを浮かべて自分の名前を伝えた。
「シャーロック・ホームズさん……そういえば変装の名人でしたね。
福建人になりすますくらいはお手の物でしたか」
「いやいや、失礼した。
ワトスン君の書物でご存知かも知れないが、私はこういう類の悪戯が好きでね」
嶋田の邸宅で帰りを待っていたのは、ものの見事に夢幻会の監視網をかいくぐったホームズであったのだ。
如何にイギリスの至宝とはいえ、政府にいた兄マイクロフトもおらず、90を超えた老人を政府が縛り付けている訳にもいかない。
ホームズはウルフに調査依頼の手紙を出すと同時に、自分もイギリスを抜けだして日本へとやってきていたのだ。
夢幻会がホームズの存在に気付いたのと、英国政府が曲がりなりにも夢幻会の存在を知り、ホームズへ調査依頼を出すことに決定した時期がかぶったのは偶然という奴なのだろう。
これは後ほどぼくがウルフから説明を受けたことだが、ホームズ自身は日本政府に対して何の隔意も抱いていなかったそうだ。
英国政府からの依頼というのも、夢幻会のメンバーを正確に割り出して欲しいというところまでだったらしい。
汚れ仕事をさせられない、というのが大きな理由だというから、名士というのは保護されていると思う。
――さて、ここからは特に記述する必要はないだろう。
ビジネス上の会食というのは幾ら料理がウルフを満足させうるものだったとしても、百パーセント堪能出来るものではないし
そこでかわされた会話を、少なくとも後五十年は表に出すわけには行かない。
この原稿も、ワトスン博士よろしく日本銀行の貸し金庫に預けておくことにした。
それでは五十年後、この述懐を読んだ読者諸兄には、是非ともロンドンのベイカー街、カリフォルニアの、恐らくビーチ沿いのビル。
そして日本は横浜を尋ねるとよいだろう。
きっとネロ・ウルフとシャーロック・ホームズの薫陶を受けた探偵の弟子たちがいるはずだから――
123 :パスティス:2014/07/03(木) 23:20:35
「……ホームズを取り込んでしまいましょう」
そういって夢幻会が新たな決定を下したのは、嶋田の家にホームズが急襲をかけた晩の事だった。
恐ろしいまでの変装技術は、空港の職員や、詰めていた情報部員程度では足止めにもならず、ホームズを素通りさせてしまった。
幸いだったのは、ホームズが受けていた依頼はあくまで夢幻会の人員を調べろ、というだけの話。
白洲次郎や吉田茂、それに近衛や嶋田、辻以外のメンバーを調べ、パイプを太くしようというのが目的だった。
ダーティな部分を探られるというのならなんとしても阻止せねばならぬが、そうでないというのならば逆に取り込んでしまったほうがよい。
シャーロック・ホームズという偉大な探偵にしてスパイがいるのだ。
逆にその技術を吸い取り、今後の糧とすればいい。
「世界から富を吸い上げるのはお手のものですからね」
そういって辻がニヤリと笑うのに、嶋田は苦い笑いを隠せなかった。
――考えてみれば、ホームズは自身の技術、知識を後世に残したがっていたのだ。
聖典――つまり原作でも、彼は幾度と無く自身の技術を記した本、『探偵学』についてを書こうとしていた。
結果がどうなったのかは聖典では書かれていないが、一説によれば結局出版されることなく終わったとされている。
ならばそれを日本で大々的にバックアップするのだ。
日本が富める国であり、他国から犯罪者が流入してくる恐れがある以上、捜査技術はどちらにしろ向上させねばならない。
「……ま、英国にもう一個貸しを作るのも悪くないでしょう」
いやしくも女王陛下から直々に感謝の品を渡されるほどの男だ。
日本が無碍に扱うのではなく、丁重に客人としてもてなすのに真っ向から文句はつけられまい。
そしてやることが、イギリスでは成し得なかった事だとしたら、尚更。
「とはいえ東京に拠点を置かせるのも面倒です。
そこそこ離れていて、しかし利便性の悪くない所……横浜にでもしますか?」
「……偵都ヨコハマとか言われそうですね、転生者の連中から」
ともあれ、こうして夢幻会はホームズの知識を吸収する方針に舵を取った。
嶋田の懸念通り、偵都ヨコハマだなどと名付けようと動いた連中もいたものの
日本は探偵学という存在を警察学校に取り入れ、日本の捜査技術を一段上におし上げる事を目標に、動いていくのであった。
『探偵の系譜』 終了
最終更新:2014年07月09日 21:39