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【ネタ】ジャパニーズコロニアル様式の変遷とその背景について

ジャパニーズコロニアル様式とは、文字通り日本が海外の植民地での、日本建築の様式の1つである。
しかし今日、建築関係の辞典をひくと大抵は、海外の植民地で建設された日本建築の1形態、というありきたりの説明の他に、古今東西の建築様式を取り入れた19世紀の日本独自の折衷様式、という説明が有る。
今回は、後者について説明する。

まず、始まりは第1次世界大戦終結にまで遡る。
第1次世界大戦後に、徳川幕府が打ち出した欧州の封じ込め政策、西洋の歴史家が言うところの、「ヒトツバシ・プラン」によって、アジア・太平洋に平和が訪れると、人々は勃興しつつあった豪商を中心に、文化方面に大きな関心を寄せるようになった。
同じ頃、新たなる同盟国となった、イスラム圏や太平洋側の南米諸国の文化が流入し、日本国内で大きなブームになっていた。
勿論建築も例外ではなかったが、大鎖国時のインフラ整備によって、既存の日本勢力圏は開発され尽くされていた為、建築家たちは、大戦後に生まれた新たなる勢力圏へ向かい、そこで自らの才能を開花させていった。
これが、この様式がジャパニーズコロニアル様式と呼ばれる所以である。

しかし、彼らの建築は、純正の建築ではなくある程度咀嚼され、消化されたものだったので、元の建築ではありえないようなものが多かった。
例えば、ペルー・ボリビア連合の首都タクナにある、護民官宮殿は、典型的なジャパニーズコロニアル様式とよく解説されているが、正確には、ゴシックリヴァイヴァル様式とブルーモスクをモデルにしたオスマン様式との混合を基本にしつつ、瓦屋根や鬼瓦などの日本建築の要素の他、チューダー様式の特徴であるチューダー・アーチを、取り入れるなど、まさにカオスである。
現地でPalacio del caosと呼ばれるのも納得である。
しかしこの混沌はそう長くは続かなかった、なぜなら、昭南会議によって回避されたはずだった戦争が、口を開けて、こちらを飲み込もうとしていたからだ。即ち、第2次世界大戦の勃発である。


580 :475:2014/01/17(金) 16:50:35

上の方で、New氏に趣味に走れと言われたので、趣味に走ってみましたw
(こんな、建築史の教科書みたいの私以外に面白いって思える人いるんだろうか…)
因みに、建築例がペルー・ボリビア連合の建物なのも趣味ですし、色々、カオスになってるのも、私の妄想力が暴走してしまった結果です。
ここまで趣味に走りすぎると、自分以外はわけがわからなくなるかな?
とは思ったんですが、結局欲望には抗えませんでしたw

尚、作中の大まかな時代背景は、大鎖国ルートの、私が勝手に考えた派生、である497のアフリカ発の第二次世界大戦ネタに、準拠しており、本作はその戦間期における建築分野の解説です。

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最終更新:2014年07月27日 23:13