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  戦後夢幻会ネタSS――前史「彼らは来た」

3 ハルゼー台風

1944年10月26日。フィリピンは季節外れの暴風雨に襲われることになった。
正規空母7隻、軽空母5隻、護衛空母25隻から繰り出される航空戦力は、警戒態勢をとっていた第四航空軍を嘲笑うように猛烈なまでの爆撃を仕掛け、彼らの戦力を一瞬のうちに半減してしまった。
第四航空軍司令官である富永中将は、アメリカ空母機動艦隊の攻撃から損耗を避けるべく、戦力の分散を図っていたのだが、マリアナの南雲とは違い、部隊間の連携について二重三重のラインを構築することを怠り、結果的に各個撃破されることになった。
そしてこの事態に焦った富永は、幕僚の反対意見を押し切って全力での反撃を命ずるのだが、前日の爆撃による基地運営能力の低下や、部隊間進撃の調整失敗などにより、小部隊が五月雨式に襲来するという最悪のパターンになって
しまい「フィリピンの七面鳥撃ち」という、最大級の侮辱と共に戦力が壊滅することになる。
徹底的な基地防空に徹することで、じり貧になりつつも戦力を崩壊させなかった第二航空艦隊司令官大西瀧治郎中将とは好対照であったが、それよりも大問題だったのは、この状況に完全にパニックに陥った富永中将が、殆ど独断で台湾に脱出し、指揮を完全に放棄してしまったのである。
これにより、第四航空軍の立て直しは完全に不可能になり、日本側が策定していた「基地航空艦隊と空母機動艦隊による敵空母機動艦隊の封殺」は、画餅になることになってしまった。
この富永のあまりの情けなさは、第四航空軍の士気をどん底にまで落としこんでしまい、第七飛行師団長の須藤栄之助中将が暫定的に第四航空軍を掌握するもどうにもならず、激怒した木村兵太郎が、第四航空軍を一方的に解体して、100番台師団に編入する騒ぎにまでなった。

697 :yukikaze:2014/07/13(日) 01:11:50
もっとも、富永に対して激怒した木村であったが、彼もまた失態を重ね続けていた。
その最大の原因は、米軍のフィリピン侵攻に際して、反日ゲリラ部隊が各地で一斉に蜂起。
当初この事態を軽く見ていた木村は、百番台の師団の一部で対処しようとしたが、戦力の見込みの甘さから初期鎮火に失敗してしまい、遂には主力部隊をばらけさせて投入するという泥縄な対策しかできなかった。
特に、マニラ近郊で大規模なテロ事件が勃発した時には、決戦部隊であった第二戦車師団をマニラに留め防御を固めるという、東条の構想とは完全に正反対の行動をとり、捷号作戦はアメリカ軍が上陸しないうちから完全に崩壊することになった。
なお、決戦部隊である第二戦車師団長花谷はどうしていたかというと、アメリカ軍の空爆にすっかり意気を消沈し、強固な防空壕に籠ったまま、マニラ防衛のために師団の戦力を分散配置するという行動に終始している。
この状況に海軍士官が「陸軍さんは勝つ気があるんでしょうか?」と呆れたように言うと、陸軍士官が「無敵皇軍なんて恥ずかしくて名乗れませんよ」と自嘲するのだが、彼らのこの無責任すぎる行動は東条に対するストレートな批判に繋がり、彼の心身を損耗する要因に繋がっていく。

さて、ゲリラの蜂起と母艦航空隊全力の一撃によって、フィリピンの日本航空部隊を半身不随に叩き込んだアメリカ軍は、第七艦隊の護衛の元、レイテ湾のスルアン島に上陸。
フィリピン奪還作戦の第一歩を踏み出すことになる。
この時、マッカーサーが「私はフィリピンに帰ってきた」と高らかに宣言した訳だが、正にこの時こそマッカーサーの得意の絶頂というべき時であっただろう。

一方、得意の絶頂であるマッカーサーとは対照的に、アメリカ第3艦隊においては激論が繰り返されていた。彼らにとってみれば、現状は何から何まで陸軍の黒子であり、とてもではないが我慢できる状況ではなかったからだ。
故に、第三艦隊の幕僚の中では、フィリピンの航空部隊は壊滅したのだから、今度はこちらがフィリピン北部まで北上して、来援すること確実の日本空母機動艦隊を叩き潰すべきであると主張しだしたのである。
作戦案の中にも、フィリピンの制空権確保の後、敵機動部隊が襲来したらこれを撃滅せよとあることから、彼らはそれを盾に取り、この作戦を海軍の戦いに取り戻そうとしたのである。
この主張は多くの幕僚達から好意的に受け止められていたのだが、一部の幕僚からは
「ブルネイの日本水上部隊がレイテに突入したらどうするのか?」という懸念から反対を受けることになる。
何しろブルネイには、アメリカ海軍が「巨龍」とあだ名する大和級戦艦2隻と長門級2隻が中核となる有力な水上艦隊がいるのである。
仮にこの部隊が脇目も振らずにレイテに突入した場合、明らかにレイテは壊滅の危機に瀕するのである。ただでさえ陸軍との協調関係が悪くなっている以上、これ以上の亀裂は何としても阻止したいというのが彼らの意見であり、そしてそれもまた筋は通っていた。

この両者の議論に対し、ハルゼーが下した決断は、ある意味妥協の産物であった。
彼は旗下機動艦隊をフィリピン中央に布陣させ、陸軍には「フィリピン中央部から北部にかけての制空権確保」を理由にし、更に水上打撃任務部隊を編成し、万が一の際にレイテ湾に急行できるよう布陣を整えてつつ、来るべき小沢機動艦隊との決戦に備えていた。
猛将ハルゼーにしてはやや中途半端ともいえる決定ではあるが、実の所ハルゼーは、大艦隊を実際に指揮してぶつけ合う海戦は今回が初めてであり、親友のスプルーアンスの失敗に過度に意識していた節があった。
彼がフィリピンの日本航空部隊に撃滅戦を挑んだのも、マリアナの二の舞をさせない為であり、更に彼が布陣した海域は、台湾からの航空攻撃が届かない場所であった。
後に『愚将』と酷評されるハルゼーであるが、その指揮は堅実と言ってもよく、少なくともこの時点で日本艦隊を舐めているようなそぶりは一切なかった。

こうした中、10月28日。日本並びにブルネイを哨戒していた潜水艦部隊から至急電が発せられることになる。

―――我、日本海軍ノ全力出撃ヲ確認セリ

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最終更新:2017年10月06日 09:50