279 :ひゅうが:2014/07/25(金) 17:39:01

戦後夢幻会ネタSS――その1.3「ごはんの時間」



「メシ、プリーズ!」

朝鮮戦争に従軍した米陸海軍将兵にとってこの言葉はもはや合言葉といってもいい。
前半が日本語の「めし」であり、後半が当時の一般的な日本人にもよく知られている英単語であったことはその相手がおもに日本人であったことを示している。
そしてこれを受けた日本人はといえば

「OKガイズ。カモン!」

とブロークンな発音で答えるのが通例だった。
こうした言葉が交わされていたのは、おもに当時の警察予備隊の調理班であった。
そこでは、太平洋戦争では敵味方に分かれていた兵士たちが机を共にしており、よく士官や将帥までもがこれに同道していた。
この奇妙な光景はなぜ出現したのか?
それは、警察予備隊時代からの日本側独特の事情と、アメリカ側の事情が存在していた。



敗戦後、組織されたばかりの警察予備隊はアメリカの州兵と、大陸法型の軍警察に範をとっていた。
これはGHQを統べるパットン元帥が欧州戦線での経験を積んでいたことが影響しているが、いかに敵性勢力排除という至上命題が存在していたからといって日本国民はこれをあまり歓迎しなかった。
せいぜいがイタリアにおけるマフィア程度の扱いであったといっていい。
それだけ、勝手に戦争をはじめておいて頼りになる海軍さんをすりつぶし、挙句国土を焼かれた恨みは深かったのである。
戦後復興のために断行された強引なまでの経済再編成と、ヒトラーの経済政策とすら揶揄されたのちの護送船団方式の手厚い復興金融公庫を中心とした資金供給は必然的にインフレーションを誘発しそのために生じていた生活苦もまたそれに拍車をかけていた。

こうした状況にあって、市街戦とも称された大陸勢力の「摘発」においては意図的なサボタージュや妨害行為が続発。
食糧管理を行っていた政府当局内部でも警察予備隊向けの食糧物資は意図的に遅配が横行するなど、戦後のモラルハザードは極まっていた。
こうした情勢に鑑み、日本政府は早いうちから警察予備隊の兵站をGHQに頼ることになる。
だが、これが現場にとっては大不評であったのだ。

当時の米陸軍の食糧供給は、おもに以下のような区分によっている。

Aレーション(準戦時食)基地やキャンプで食べるもの。
Bレーション(温食)戦地のフィールド・キッチンで纏めて調理されたり、後方より運搬された食事のこと。
Cレーション(缶詰)戦地で温食の配給が出来ない事を前提として配給される携帯食料。(一般兵士向けの食事)
Kレーション(野戦携行食糧)空挺部隊用に開発された小型軽量の携帯食料。
Dレーション(非常食)高カロリー携帯性重視の非常食

これらのうちAやBレーションの一部を除けば、日本人の口にはこれらははっきりいって「くそまずい」代物であったのだ。
おまけに、野戦食糧はともかくとして大半が「冷たい」食事である。
量が多いために何とか不満を抑え込めていたものの、これは極めてゆゆしい事態であった。
古来、軍隊の反乱要因の上位三指に食糧問題があることは、戦艦ポチョムキンを見るまでもなく明らかなことを、予備隊上層部は先の大戦において文字通り実感していたのである。


この問題に対する回答は、意外なところからもたらされた。
海上警備隊船舶警備隊。
かつての海軍陸戦隊の後身であり、日本周辺の船舶に対する立ち入り検査や港湾警備を担っていた人々である。
彼らは、ある意味では腫物のように、よくいえば崇拝交じりに米海軍やその上層部によって組織を温存されており、必然的に旧軍時代の装備を大量に保有していた。
その中には、かつての日本陸軍も忘れかけていた装備が存在していたのである。

九七式炊事自動車。

第一線部隊に随伴して暖かい糧食を供給することを目的とした自走式自動車である。
主として関東軍などの一部部隊にしかいきわたらなかったこの装備を、海軍特別陸戦隊が保有しそのまま海上警備隊は継承していたのである。
しかも、旧海軍以来の伝統として彼らは食事の味にうるさい。
そのため、海上警備隊に残されていた数少ない大型艦であった補給艦「まみや」(旧海軍給糧艦「間宮」)を現代でいえば下ごしらえ用の工場として使用することで凝ったシチューやカレーなどの「もと」を作り、それを炊事車で調理することで現場において美味な食事を提供するシステムがいつのまにか確立されていたのである。

280 :ひゅうが:2014/07/25(金) 17:39:38
なお、少ない予算の制約から、このシステムで各地の港湾警備部隊は自前で出店を出して営業を行うなど涙ぐましい努力をしていた。
一説によれば、当時の闇市で売られていた「ちょっとした一円軽食」の何割かは彼らの手によるものであったという。

警察予備隊は、このシステムに自らを組み込んでくれるように海上警備隊に要請、否、懇願した。
しかしながら海上警備隊側もこれを行うには無理があった。
何しろ人員規模が違うし、旧陸軍と同様にみられていた組織への関与は当時の社会情勢的にも政治的にもかなり無理があった。
とはいえ、彼らを見捨てるわけにはいかない。

ならば、と誰かがいった。

「こちらも海上警備隊のようなシステムを作ろう。我々だって暖かいごはんと味噌汁、半年に一度のカツ丼が食べたい。」

おそらく後半部分が本音であろう。
それならばと海上警備隊側がいう。

「うちもシステムを改編したい。さすがに古い炊事車だけではさばききれない。」

誰を、とは言わない。
おそらくは酷使された設備にガタがきはじめていたのだろう。
かくて、腹を減らした両者はある装備の共同開発を開始した。

46式野外炊具1型。

出来上がった装備はそう呼ばれた。
外見は、トラックの荷台部分に四角いタンクがいくつかついたようである。
重量もまたそれほど重くはない。
だが、その性能は――

一両で、600名分の炊飯、主食・服飾・味噌汁を200セット、汁物(煮込みもの)1500名分、全8つの釜のうち任意のものを用いて一釜あたり揚げ物や焼き物を約10名分…etc…
これを、「一度に」調理可能である。
調理の火には、米軍からうなるほど供給されるガソリンや灯油の両方を使用可能。
さらには小型エンジンに直結した発電機と具材カッター、皮むき器が付属する。

要するに、わずか20分ほどで1個大隊分の食事を賄えるという代物だった。
隊員たちは歓喜した。
これで暖かいメシが食べられる、と。
あの微妙な味のスパムやら粉から戻すポテトも、焼いたりちょっとしたソースをつければ、何より温かければたいへんおいしく食べられる。
ことによると、小麦粉からラーメンやパスタを打ったりして日本人向けのちょっとした贅沢な「外食」ができるのだ。

これは文字通り革命的だった。
まずは北海道の第一管区隊から始められた配備は、あっという間に全国に噂として伝わる。
そしてそれは、視察に訪れた首相への直訴という事態にまで発展した。

隊員たちの血判状に対し、現地を視察した吉田茂首相は感極まり、二つ返事で予算供出を約束。
1946年7月までに全国の隊本部(当時は管区隊は師団としての役割を負ってはおらず、あくまでも自治体警察の不足を補うという建前で各地に分散配置されていた)に配備が完了するに至った。

本車が威力を発揮したのは、同年12月に発生した昭和南海地震においてであった。
初の大規模災害派遣となったこの災害において、関西地方の各管区隊は総勢50両あまりの野外炊具を現地へ持ち込んだ。
それによる炊き出しの光景は、敗戦後に打ちひしがれた人々の前に「彼らは旧軍とは少し違う」という印象を強く残すことになる。

このとき、あれほど忌避されていた警察予備隊へのイメージは一挙に好転。
食糧事情の改善とあわせて野外炊具をわざわざ持ち込んで米軍糧食を再調理するという面倒なことは行われずともよくなっていた。
だが、この頃までに作られた多くのメニュー、たとえば「チキンの照り焼き」「焼きスパムむすび」「ナポリタン」などは警察予備隊の伝統となって各地に普及していく。
さらには、のちに生物学的進化ともいわれる「カレーライス」のご当地レシピが次々に開発されていくのも、米軍から供給される食肉を用いた「和風ステーキ」もこの段階である。

282 :ひゅうが:2014/07/25(金) 17:40:14

年はくだって1950年。
パットン元帥の強い要望が国連安保理にかけられ、国連警察軍の一翼として警察予備隊と海上警備隊は朝鮮半島へと展開。
いまだに日本統治時代を色濃く記憶に残していた韓国軍とともに、現地における治安維持にあたっていた。
(これには、警察組織や中央政府組織が一度は瓦解してしまった南側の「背に腹は代えられない」事情もあった)
このとき、米本土から派遣された米陸軍部隊は、当初は警察予備隊に銃口を突きつけるなど物々しい雰囲気であったという。
だが、その態度は日本本土から転出した「警察予備隊の演習相手」である第8軍将兵とともに彼らが食堂に入るまでであった。

「ジャップめ、なんてうまいもんを食ってやがる!」

大戦中に海軍によって10万名あまりがこの世から消滅させられていた陸軍は、「ジャップをひいきしすぎる」パットンへ矢のような苦情をあびせたという。
だが返ってきた答えは、

「材料は一般的な米軍と同じである」

というものだった。
この当時の米軍は、戦後の軍縮路線に従って「レーションの統一化」、悪く言えばオール缶詰化が進行していた。
予算上はその方が安く済むのだが、あの米軍ですら「くそまずい」というようなものを連日食べさせられてはたまらない。
しかもこのときの警察予備隊部隊は、太平洋戦争時の悲惨な状況を教訓として海上警備隊とともに二重三重の食糧輸送態勢をとっている。
補給艦「まみや」「いらこ」「しらさき」「あらさき」…そして無数のLST。
これらは対馬海峡から黄海をピストン輸送した食糧を船上で調理し、そして陸上へ届け続けていた。
そのため、冬の近づく朝鮮半島で米軍が冷えた食事をとっている隣で警察予備隊員がホカホカの定食を食べているという現象が生じてしまったのである。

現地の空気は緊迫した。
「日本軍からあのマジック・キッチンを奪取してやる」
そんな言葉がささやかれたほどだった。
だが。

「一緒に食べられますか?」

おそらくは、社交辞令。
警察予備隊の上級隊員(士官)がいったその一言は、米軍士官の即答で報いられた。

「ぜひ!」

そして、一度食べてしまえばもう元には戻れない。
士官の次は下士官、続いて激戦の末に後送された兵士たち。
どんどん数は増えていった。
もちろん、「過度なトラブルを避ける」ために相互交流は制限されていた。
太平洋戦争末期の燦々たるありさまを考えれば当然だが、それがこの「マジック・キッチン」の価値を大いに上げた。

「ジャパニーズ・コックとマジック・キッチンを大至急送れ!グロス単位で!」

恐るべきことに、これは現地司令部から東京のGHQへ向けた最上級の「要請」である。
笑うしかないが、パットン元帥までもが現地においては当然のように警察予備隊の食堂で日米両将兵やその他国連軍将兵とカレーを食べるのが習慣となっている。
日本人らしく、難民と化してしまった人々への炊き出しに米軍兵士が同行し、おこぼれにあずかるなどという状況まで出てきてしまった。

こうして、1951年の停戦までに日本本土からは約400両もの野外炊具とその倍近い日本人のコックが簡単な訓練の後で海を渡った。
アメリカ本国の「プライド」とやらのためについに制式化されることがなかった本車だが、その存在が日米両軍の間に文字通り「同じ釜の飯を食った連帯感」を生んだといえるだろう。

――現代、国防陸軍の基地祭や、国防海軍の催し物においては在日米軍の将兵がよく見受けられる。
だが遠慮したり怖がる必要はない。彼らはたいていはあなたと同じく、ただ「おいしいものが食べたい」ためにやってきているのだから。

283 :ひゅうが:2014/07/25(金) 17:41:42
【あとがき】――夢幻会員「カレーが食べたかった。だから野外炊具1号を作ってみた」
        米軍「カレー!!」
        というお話でしたw

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最終更新:2014年09月26日 03:16