597 :yukikaze:2014/06/30(月) 01:22:06
つい調子に乗って作った。悪かったと思う。反省はしない。

「いいねえ・・・うん、実にいい」

双眼鏡を片手に、富士の裾野で繰り広げられている演習を見ながら、この無類の戦好きである老人は、心底満足げな表情を浮かべていた。
彼の視線の先には、それぞれ1個中隊規模の戦車部隊が、東西に分かれ所狭しと走り回っていた。
一見無秩序そうに見えつつ、その実、いかに相手の裏をかいて、敵の脆弱な部分に食らいつこうとする。
「機甲戦とは運動戦である」ことを持論にしている彼にとって、目の前の部隊の動きは、機甲戦の本質を的確に費やしたものであった。

「どうだウォル。連中の動き。ありゃあ生まれた時からの戦車乗りだぜ。
 ロンメルやグデーリアン直轄部隊と言われても俺は信じるね」
「確かに。ここが奴らのホームグラウンドであることを差し引いても、奴らが馬鹿ではないことは確かですな」

ウォルと呼ばれた男が、やや憮然とした表情で老人の言葉に賛同する。
彼にしてみれば、自らが直々に選んだ部隊であったにも拘らず、相手方の巧みな機動に翻弄され、押し切ることが出来ないのである。
如何に連中の車両が、低姿勢であり、視認しがたい代物であったにしてもこちらの最新鋭車両が、8年前に配備されたロートルに勝てないというのは腹だたしいにも程があった。

「まあそう怒るなウォル。ありゃあ確かに大平原での戦車戦には向かないかもしれねえが、こういう起伏にとんだ地形や待ち伏せ戦闘には最適と言っていい代物だ。うちも最後まで悩まされ続けていたからなあ」

フィリピンで、ガタルカナルで、サイパンで、硫黄島で、沖縄で、眼下の車両は、最初から最後までアメリカ軍を悩ませ続けた。
スチュアートはブリキの棺桶でしかなく、自信を持って繰り出したシャーマンも舐めてかかった瞬間、あの世への強制的な転属を強いられた。
無論、ナチのキングタイガーのような無敵な存在という訳ではない。
正面以外の防御は皆無に等しく、そしてその独特の形状から、急激な反応にどうしても隙が生じ、それが故に討ち取られもしていた。
だが、彼らは産まれ持ったハンデを熟練の技によって補い、戦い続けた。

599 :yukikaze:2014/06/30(月) 01:26:07
「俺達は確かに戦争に負けた。それは認める。だが・・・機甲戦では負けなかった。
 最後の最後まで相手の喉笛を食いちぎっていった」

沖縄戦で負傷し捕虜となった機甲部隊指揮官が発した言葉を、老人は今でも鮮明に覚えている。
全く以てその通りであった。沖縄戦では、海軍のアホどもが日本人の艦隊相手に醜態をさらして制空カバーを一時的に喪失した結果、機甲部隊による浸透作戦の成功を許してしまい、バックナーが戦死するという大打撃を受けてしまったのである。
最終的には、日本陸軍虎の子の機甲部隊は全滅したのだが、この時に日本軍が得た時間は大きく、宜野湾市付近で戦線は完全に膠着してしまう。
このお蔭で、ソ連がステイツに恩義せがましく火事場泥棒をしてのけたりもしたのだが、それでも老人は、自分達に最後まで煮え湯を飲ませた彼ら戦車乗りたちに純粋に敬意を覚えていた。
老人にとって勇者は敬すべきものであり、卑怯者は唾棄すべきものであるからだ。
故に、老人は日本陸軍の指導者層には「国際常識もわきまえぬ馬鹿者」と批判する一方で、兵士達には「勇敢で恐るべき戦士たち」と褒め称えることは何ら矛盾していなかった。

「それにしても・・・何だってあいつらはあれを「戦車」と称しているんですかねえ。
 ありゃあどう見ても駆逐戦車の類でしょうに」
「その疑問はもっともだ。俺も最初は「ジャップは戦車も知らんのか」と思ったんだが、事情を聴くとそんな単純な話じゃなかった」

そして老人は、自分が知った事を愛弟子に語る。
元々日本人は、30t級の戦車を次期主力戦車と考えていた。
だが、技術的問題やインフラの問題、予算の問題等が重なってしまいモックアップまで作ったその戦車はお蔵入り。
しかも参謀本部の機甲戦を理解していないものは、歩兵戦車であることを求めると共に、軽量安価であることを求める始末。
そしてその無茶をひっくり返すために作ったのが、この無砲塔戦車(史実SU-76対戦車自走砲相当ただしエンジンは1基で、正面装甲も増圧)であった。
砲塔をなくすことで砲塔重量とターレット機構の重量を削減し、正面装甲を傾斜装甲且つ45mm程度にすることで大戦全般までは必要十分な装甲を確保。
(改型では60mmにまで増圧)
短砲身57ミリを推す人間には「トーチカを確実に潰すには75ミリが必要」と、新型ボフォース高射砲導入により時代遅れとなりつつあった八八式七糎野戦高射砲を改修して作った戦車砲を搭載。
路外機動力を高める為に履帯の幅を広げるなど、徹底的に機動運用に注意を払ったこの車両は、参謀本部の一部将校の怒りを買いながら、日中戦争の予算増額の流れによって細々とながら生産。
ノモンハン事変で、九五式軽戦車が無残にやられる中、1個中隊のこの部隊の奮戦により、ソ連機甲部隊は射的の的のごとく打ち据えられ、ソ連軍の反攻作戦を頓挫させることに成功する。
この大戦果と、大陸派遣軍からの「九五式ではなく九七式を寄越せ」という凄まじいクレームが押し寄せ最終的には「主力戦車は九七式」「九五式は生産を中止し、代わりに牽引車を充実させる」
ことになる。
以降、九七式戦車は、時には歩兵の友として、時には機甲戦力として最後まで戦場を走り抜けた。
敵からはその砲身の長さから「サムライサーベル」と畏怖される存在として。

「どこの国でも同じですな。最終的にそのツケを払うのは兵士達だ」
「全くだ。日本人が当初配備しようと設計したのが、T-34を洗練させた代物といえる戦車だったのだから猶更だ。そんなもんが量産されてみろ。今頃はパンサーの強化型タイプモドキが配備されていたかもよ」
「そりゃ悪夢ですな・・・」

老人とウィルは、日本の戦車開発の系譜がそうならなかったことを心底感謝した。
仮に彼らの予想通りの系譜を辿ったら、日本人の戦車乗りは更に攻撃的な運用をしたかもしれない。
アメリカ陸軍にとっては実に悪夢である。

そうこう話している内に演習時間は終わりを告げようとしていた。
戦況は五分と五分。いや・・・機材の差を考えると、日本陸軍機甲部隊の生き残りたちの方が上かもしれない。だが・・・それが許されるような何かを彼らは放っていた。

600 :yukikaze:2014/06/30(月) 01:27:56
「さて・・・いいもの見せてもらった。兵達をねぎらう。勿論旧日本兵もだ。国務省から来た頭でっかちのガキどもは無視しろ。アメリカ人なのにコミーのような言動をしやがる。
 いつからここはクレムリンになった」
「まあグルー民政局長官がきっちり抑えているんで大丈夫でしょう。所で閣下。やはり旧日本軍の戦車乗りを集めて演習をされたのは・・・」

アメリカ第八軍司令官にして、日本占領軍のトップであるウォーカーの問いに、彼の敬愛する総大将にして連合国軍最高司令官であるパットン元帥は楽しげにこう答えた。

「決まっているだろ。連中が使えるか使えないかのテストだ。アホな上層部をパージし、こちらの鎖でつなぐ必要はあるが、俺と一緒にモスクワまで行く資格はあるな。
 腕がなるな。アメリカにとって最良の戦友と呼べるだけの軍を作ってやるぜ」

後に、歴史上パットンはこう呼ばれることになる。

「日本国防軍の父であり母であり兄であり教師であり戦友であった」と。
パットンが(彼にとっては不本意なことに)病院のベットで臨終を迎えた時、彼の葬式には彼と共に戦った日本兵が第一種礼装で敬礼をして彼の棺を見送り、そして彼の胸には勲一等旭日桐花大綬章のみが誇らしげに飾られていた。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2021年04月05日 01:12