315 :ひゅうが:2014/11/01(土) 07:55:47
※ 本作はフィクションです。実在の人物・団体には一切関係ありません。




 戦後夢幻会ネタ―――閑話「その時歴史が動いた~日本放送機構のある番組から~ その3」




昭和20年1月、最高戦争指導会議は本土決戦と、それを可能な限り避けることを目的として日本本土沖合において米侵攻軍の撃滅を図るという二つの方針を決定。
その方法として夜間航空攻撃と潜水艦隊による攻撃、そして水上艦隊による決戦をとることを決定します。
このとき、降伏をも許容する方針が公然とささやかれ、「講和追求」の一文が国防方針に追加されたのが和平派最大の成果となりました。

このとき、どこからともなくささやかれ始めた言葉があります。

「海軍に、もう船はないのか。国民を守ることはできないのか。」

この言葉は、昭和天皇が海軍の不甲斐なさを嘆いていったとされ、陸軍は瞬時に沸騰。海軍もこの言葉に押されて最後の決戦を考え始めます。
ですが、それに疑問符をつけた人物がいました。
宮内省侍従 徳川義寛。
阿部たちの一派と宮中とのつながりを作っていた人物です。
また、彼の縁戚に水戸徳川家の徳川圀順がいたことから彼は政界にも顔が利く人物でした。
そんな彼だからこそ、議会や軍内部でささやかれる噂を気にしていたのです。
彼は、まったくそのようなことを聞いた覚えがなく、入江侍従や藤田尚徳侍従長もまた同様であったのです。
ならば、それはどこで?

答えは意外なところから出ました。
都内の料亭。
あえて阿部たち一派が会合の場所としていたあの場所です。
そこでくだを巻いていたある近衛師団の士官一派が大声で「こういっているに違いない!」と言っていた事柄が伝言ゲームのように隣りの別の士官に伝わり、それがさらに誇張されて広まっていったのです。

陸軍の強硬派の一派はここぞとばかりにこれをあげつらい、海軍が不甲斐ないために苦境に陥っていると宣伝します。
陸軍の多くも、これには口をつぐみました。
事実かどうかを確かめずに。

昭和20年2月のある日、陸相東条英機大将のもとを、阿部は訪ねました。
このときのことを、阿部は記録に残していません。
ですが家人の回顧録によると、彼は憲兵隊の所属らしい士官と民間人を連れて東条宅を訪ね、しばらく誰も通すなと念を押したといいます。
お茶を持って行く前に数分間怒鳴り声が続き、やがて、それから長く一行は話し合ったといいます。
彼らが帰った後、東条は青ざめた顔で考え込んでいたといいます。

この翌日、東条大将は即座に宮中へ参内。
数刻のちに近衛師団長を訪ね、すさまじい剣幕で彼を叱責しました。


「おそれ多くも主上の言葉を捏造し、統帥権を壟断しようとするは何事か!
主上の言葉を借りて外野からはやし立てるとは何事か!!」


東条大将は、陸軍のおさえとしての役割を期待され、その高い忠誠心を評価されて首相となった人物です。
そんな彼にとり、このようなことを利用して政治闘争に使おうとする動きは許せるものではなかったのです。
彼を激怒させたのは、彼が自分の腹心と考えていた人々がこの動きに積極的にかかわっていたことでした。
東条は、決意を固めます。

昭和20年3月31日、憲兵隊は日本全国はもとより占領地においても、強硬派とされた士官や不穏分子の一斉検挙を断行。
同日、この騒動の責任を取り、小磯国昭内閣は総辞職します。

かわって首相となったのは、枢密院議長であった退役海軍大将 鈴木貫太郎。
日露戦争においては海軍随一といわれた武勲を上げた人物です。
陸軍大臣に経戦派ではありながらも政治色が極めて薄い阿南惟幾大将を、引き続き海相兼副総理として米内光正を、そして外相に東郷茂徳、無任所の国務大臣として宇垣一成退役陸軍大将を起用するという陣容は明らかに和平を意図したものでした。

しかし、海軍による最後の米艦隊迎撃計画と陸軍による「本土決戦作戦」を統合した天号作戦はこのときまでにほぼ完成。
さらに、4月4日に米海軍が泊地を抜錨したとの報告は和平を言い出すには極めて不都合なものとなりました。

316 :ひゅうが:2014/11/01(土) 07:57:01
ここで時間を少しさかのぼります。
昭和20年初頭時点で、アメリカ海軍は二つの作戦計画をたてていました。
ひとつは、失敗したフィリピン諸島への再侵攻作戦。
そしてもうひとつは、野心的な沖縄方面への侵攻による日本側抗戦能力の破壊です。
すでに、レイテ沖海戦とほぼ同時に実施されたマリアナ諸島攻略作戦、そしてフィリピン攻略の前線基地となるパラオ攻略作戦はアメリカ側の成功に終わっていました。
撤退を完了したトラック環礁もすでにアメリカの手に落ちています。

この点からすれば、フィリピン諸島を攻略することが定石です。

ですが、日本海軍がいまだ有力な艦隊を有し、さらには台湾の航空隊に加えて後方に日本本土という兵站基地を擁するフィリピン、そして10万名近い犠牲を払ったという事実は再度の侵攻に否定的な意見を特に陸軍に抱かせています。
そのため、アメリカ陸海軍は、マリアナ諸島からさらに北上して小笠原諸島を攻略。長距離護衛戦闘機を戦略爆撃隊に随伴させて日本本土へ爆撃と機雷投下を行うという順当な作戦をたてようとしていました。

しかしここで彼らにとっての誤算が起きます。

アメリカ議会の一部がこの悠長な作戦に疑問符をつけたのです。
なるほど確かにこの作戦を継続すれば、7月までには日本海軍の作戦行動能力は大きく阻害され、日本列島は海上封鎖状態となる。
そこで一気に沖縄を攻略し、返す刀で9月には日本本土に上陸するとなると、必ずやソ連の存在がネックとなるだろうと。
確かにその通りでした。
ソ連がこのとき対日宣戦布告の準備を整えていたことをアメリカ側は知らず、その参戦の可能性について大きな疑問符をつけていたのです。

「下手をすれば、日本軍と死闘を演じる中で単独で友好条約を締結し一気に日本列島を赤化してしまうかもしれない…」

それが、アメリカ国務省の一部や議会の与党民主党の懸念となっていました。
これは野党共和党も同様です。
彼らは逆に、ソ連が日本本土に対し火事場泥棒を働くのではないかと危惧していました。
すでにこのとき、末期症状を呈しつつある欧州戦線において、ソ連は共産党による自治委員会を次々に設立。
ポーランド亡命政府をはじめとする諸国の厳重な抗議を受けていました。
ことにフランス共産党が自由フランスを否認する方針をとったこと、それは反共的なでマッカーサー元帥率いる欧州戦線主力軍の後背を脅かす深刻な事態でした。

このため、海軍の一部では戦争の決着を一気につけるべく、南西諸島から東シナ海を封鎖できる「沖縄侵攻」が俎上に上がります。
いまだに日本本土周辺における通商破壊戦は目立った成果を上げておらず、南方からの輸送船団を直接機動部隊によって航空攻撃することを彼らは考えていたのです。

これを大いに後押ししたのは、合衆国艦隊司令長官 アーネスト・キング元帥。
彼は、「本来海軍の戦争である」この戦争を主導しようとしていたマッカーサー元帥がフィリピン戦の敗北により欧州へ転出することになったことを機会に、一気にこれまでの海軍の敗北を挽回しようとしたのです。

陸軍にとっても、この沖縄作戦は来るべき日本本土上陸作戦の前哨戦となり、また対日戦での失点を回復する機会にもなります。
沖縄本島は小笠原諸島のような海兵隊の戦場と比べて広大で、陸軍の活躍の余地がありました。
台湾という案もありましたが、ここはフィリピンに加えて大陸に近く、日本側が大陸に展開する部隊を増援として送り込んでくることを彼らは警戒します。
この時点でも中国大陸沿岸部はほぼ完全に日本側の手に落ちており、そこへの侵攻は躊躇われたのです。
かといって、素直に海軍に賛同するのも腹立たしい。
そこで、陸軍は護衛戦闘機隊の基地となる硫黄島と沖縄の同時攻略を提案。
キング長官はこれに賛同しました。

ところが、今度はアメリカ海軍がこれに反対します。

「あまりにも日本本土に近すぎる」

というのがその理由です。
確かに、作戦は投機的となります。まだ日本本土の封鎖も万全ではありません。
せめて7月に、というのが彼らの意見でした。
ですが、そうなると日本周辺は台風の通り道となります。
それに9月以降となる日本本土侵攻を前提とすれば、これでは間に合いません。
結局、政治的・軍事的な理由によって作戦発動時期は4月とされました。
さらには、キング元帥はこの一撃により戦争を終結させることができると議会秘密会で力説。
さらには、日本本土において重大な震災が発生し生産力に著しい障害が発生したことが計画を後押しします。
陸軍もこれを支持したことから、作戦案にはゴーサインが出されました。

317 :ひゅうが:2014/11/01(土) 07:57:48

作戦名は「アイスバーグ」。


発動準備段階となった3月、さらにこれを後押しするしらせが入ります。
小磯内閣が崩壊、穏健派といわれた人々が主導権を握る鈴木内閣が成立したのです。
アメリカは、日本国内の戦争継続能力がついに失われたと判断しました。

「1か月後には戦争は終わっている」

南太平洋のウルシー環礁から出撃していった兵士たちはそうささやきあったといいます。





一方、阿部俊雄大佐は意外なことに東京にはいませんでした。
彼は、前年末から、横須賀で建造が進んでいた航空母艦「信濃」の艤装委員長としてその建造に責任を負い、艦長を拝命していました。
6月に予定されていた艦隊への編入を目指して訓練に励む阿部は、4月に予想された小笠原諸島侵攻には間に合わないと覚悟を決めていました。
昭和20年初頭に就役したばかりの「信濃」はいまだ錬成の途上であり、艦隊とともに行動することはできなかったのです。
そして同時に、彼が予想していたように連合艦隊丸ごとが壊滅するような事態となった後で停戦が成立したとしても、それがすんなりいくとは考えていませんでした。
そのため、航空母艦「信濃」とその航空隊は残存艦隊とともに国内の不穏分子やソ連海軍への抑止力となり逆クーデターなどの事態を阻止すべきであると考えていたのです。

そのため、阿部は3月3日付で「信濃」の次期作戦への投入は不可能とする報告書をもって軍令部を訪問。
これを認めさせています。

阿部は「死ぬのが惜しいか」と罵声を浴びせられました。

「ならば、私を第2艦隊参謀に任じてください。小笠原沖で断じて勝利を掴み、立派に武蔵の後を追ってみせましょう。」

このとき、阿部は懐に忍ばせていた信濃艦長解任願いを、軍令部の福留繁少将に叩きつけています。
これには福留少将も目を見張り、「貴官の覚悟を見誤った。御見事である。この上は私もそろって大和艦上にあり、ともに勝利を掴もう」と答えたと、のちの首相であり当時阿部の副官をつとめていた田中角栄中尉は日記に記しています。

このとき、すでに阿部とその一派は公然と上層部の支持を得て終戦の最後の一手を打っており、もはや彼自身がやることは残っていなかったのです。


ですが、米内海相はそれを許しませんでした。

「勝利を得るのはよいだろう。だが、それで責任をとったことにはならぬ。
君は生きて終戦後の日本に責任を持たねばならぬ。
生きて国民からの罵声を浴びつつ、将来の海軍の再建につとめてもらわねばならぬのだ。」

米内は手元の紙をとると、こう書き記します。

「命令 自決を許さず。」

阿部は、それを米内の遺言のようだと考えたといいます。


このやりとりは、米内流の気遣いであったのではないかと田中角栄は述べています。
米内が記したという人物評にはこうあります。

「阿部俊雄 かの者、性極めて狷介孤高。しかして賢友を集む。故、死するに惜しむ。」

極めて頑固であるが賢明な友人が多く、そういう人間が周囲に集まる。
ゆえに、死なせるには惜しい。
米内は、同様の評価をかの山本五十六にも下しています。
そのため、陸軍強硬派の暗殺を恐れて山本を連合艦隊司令長官に親補したという過去をもっていました。
戦前と、終戦前夜、彼は同じ判断を下したのでした。


一方、陸上へ上がった連合艦隊はその司令部を横須賀鎮守府内に置きました。
東京に近い三田の地下壕への移転が取りざたされても、司令長官の南雲忠一大将はそれを容れずに、密かに進行中であった大本営機能の長野県や奈良県への移転構想へ注力させるかわりにこの施設を使い続けたのです。
そのため、訓練中であった空母信濃艦長は、同僚となった源田実や同じく和平派グループを構成していた高田利種連合艦隊参謀長とともに迎撃作戦を練り上げていきます。

作戦は、可能な限りの打撃を米艦隊に与え、かつ陸軍の本土決戦派に自由にこれを使わせないという副次的な目的をもって立案されました。
陸海軍首脳部からどこからともなく出たこの目的に、参謀たちは眉をひそめたものの可能な限りの戦力投入を目指して作戦を煮詰めていきます。
その名目として、海軍が立案中であった本土決戦作戦の名称をとり作戦名は「天号」とされました。
南北朝時代の名将楠正成の旗印からとられたその名称は、作戦の本質を極めて如実に表していたといえるでしょう。
しかしこの名目上、陸軍航空隊をはじめとする人々は全力で海軍に協力する義務が生じます。
とりわけ本土決戦派であった士官たちは、ついに海軍が本土決戦に腹を決めたと考えて無邪気に歓迎し、協力の目くらましとなったといいます。

318 :ひゅうが:2014/11/01(土) 07:58:34

ですが、彼らは米海軍の攻勢正面を絞りきることができませんでした。
なんとなれば、アメリカ海軍の戦力はこの時点ですでに日本海軍を圧倒しつつあり、予想された小笠原方面と沖縄・台湾方面と同時進行すら可能であるのです。

そのため、「天号作戦」は4つの方面について立案が行われました。
このうち、沖縄方面を「天1号」、小笠原方面を「天2号」、台湾・フィリピン方面を「天3号」、本土・北方方面を「天4号」と区分しています。
中でも力が入れられたのが、天1号と天2号作戦でした。
作戦は単純明快。
本土や島嶼の航空隊による全力支援下で、囮艦隊となる空母機動部隊の残存艦隊を出撃。
これの挟撃により一時的に米空母機動部隊の作戦能力を麻痺させ、その間に全力で主力となる戦艦部隊は上陸橋頭保に対して突入。
その過程で水上艦隊を、可能なら輸送船団と敵の陸軍部隊を壊滅させる。
また、後方に潜水艦隊を展開させ、補給・修理能力を奪う支作戦「剣号作戦」も同時に立案されました。

このうち、沖縄方面への天1号作戦はまだ成算がありました。
九州や奄美諸島に展開する航空部隊の攻撃圏内であるためです。
ですが、小笠原方面における天2号作戦は、伊豆諸島という狭い拠点の限界、そして距離が連繋攻撃を困難にしていました。
このことは当然ながらアメリカ側も承知しているはずで、可能性としては硫黄島・小笠原方面へ6割、沖縄方面3割、同時多方面侵攻1割と当時の連合艦隊は考えていたといいます。
今後の成算を昭和天皇の前で問われた古賀峯一大将の言葉が、当時の状況を暗示しています。

「湊川です。」


4月1日、米軍は硫黄島に対し上陸を開始。
連合艦隊は「天号作戦準備」を命令。
本土各地の航空部隊に関東集結を命令します。
呉および佐世保の連合艦隊主力は、直ちに出撃準備に入りました。
「天2号作戦」の第一段階である航空攻撃「菊水作戦」を待ち、連合艦隊は突入準備に入る…はずでした。

ですが、4月7日、思わぬ報告が連合艦隊を揺るがします。

「アメリカ海軍、沖縄に来襲。慶良間諸島に上陸を開始。機動部隊および水上艦隊主力を伴う。」

「いけるかもしれん。」

主力艦隊を率い、沖縄突入を担当する宇垣纏第2艦隊司令長官が呟いたように、日本海軍の絶望的な雰囲気にひとつの炎がともりました。
硫黄島に上陸した戦力は比較的少数であり、艦砲射撃を実施していたのは大型巡洋艦や生き残った旧式戦艦。
対して、沖縄には鉄の暴風雨ともいわれる主力機動部隊による攻撃が加えられていたためです。
この場合、攻撃正面は沖縄方面に限定されます。
困難な防衛戦に備えてマリアナ沖開戦以来延々と続けられていた島の要塞化は完了しており、物資の備蓄を完了していた硫黄島は半年以上の持久が可能と見積もられていました。
対して、疎開が進んでいたとはいえ、急きょ北部への着の身着のままでの避難を実施した沖縄は県民30万と防衛部隊4個師団8万名が救援を待っています。

「行くぞ。沖縄へ。」

宇垣長官の掛け声とともに、「天1号作戦」の発動が宣言されたのは4月10日。
連合艦隊主力の進撃を側面支援すべく、横須賀に残存していた航空母艦「信濃」は、護衛の駆逐艦とともに伊豆諸島沖へ向かい、米艦隊の目を引き付ける命令を受けました。
活気づく連合艦隊司令部をあとにした阿部は、対潜戦の専門家という評価の通りにこの後5日ほどで5隻の米軍潜水艦を護衛部隊とともに撃沈することになります。

さらに関東に展開した航空部隊は九州の航空基地群へと移動を開始し、アメリカ機動部隊による九州空襲に対して防衛戦を開始します。

それは、戦艦大和が沖縄へ到達する、8日前のことでした。

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最終更新:2014年11月07日 12:59