919 :ひゅうが:2014/01/22(水) 22:39:12

※ その11に投下した大陸日本世界の民国についてです。

【ネタ】【日英独大同盟世界】――戦間期の大陸日本 断章「民国の発展と前奏」

【民国勃興~黄金の10年~】

――中華民国。
中国大陸初の民主共和政国家であり、550万平方キロの広大な国土を持つ大陸国家である。(もっとも、彼らの主張する国土は1000万平方キロを超えているのだがそれはひとまず置いておこう。)
この国が実質的に成立したのは、孫中山による北伐が完了した1918年以降である。
アメリカ合衆国民主義勇軍、のちにアメリカ陸軍東ユーラシア軍団20万の助力を得た孫文は、袁世凱暗殺後の中国大陸をまるでスチームローラーのように平定していき、ついに1918年4月24日、追いつめられた北京政府を吸収する形での大陸再統一に成功したのだった。
その過程で、抵抗する北洋軍閥の残党が立てこもる北京を陥落させて炎上させていたために、新首都は暫定首都たる南京市を「新京府」と改称したうえで使い続けられることとなったが、ともかくも民国はまずまずのスタートを切ったといってもいいだろう。
近隣の大国であった日本帝国が欧州大陸へ大規模派兵を行っていた隙に、中国大陸における地歩を確たるものにしたアメリカ合衆国という後ろ盾が存在し、かつアメリカ軍事顧問団による訓練と潤沢な装備供与にてアジア地域においては屈指の大陸軍を設置することができていた。
また、経済面でも飛ぶ鳥を落とす勢いで成長を続けているアメリカの工業資本が味方についている。
国土は広く、開発すべき大地は広大である、そして統一政権が有する軍事力は強大。
これだけを見たのならば発展は約束されているともいえるだろう。

欧州において生じた第1次世界大戦という惨事によって欧州列強諸国が介入する隙なく統一を回復できたことは民国にとって幸いであっただろう。
国際連盟主導でのジュネーヴ体制成立により米軍の駐留兵力が5万人程度に制限されるまでの間に中華民国は独自に政府直轄軍を育成することに成功し、沿岸都市部や大河川沿岸においては清国末期の混乱からいち早く立ち直ることができたためである。
さらには1929年までの間には北方に成立した国際連盟自治領「満州邦」やチベット、ウイグル、モンゴルとの領域問題はあるものの概ねこれらとの大規模戦闘は発生せずに順調な経済発展を続けることができたのであった。
都市には豊かな文化が花開き、工業生産力は近隣の日本大陸(亜大陸群)ほどではないにせよ欧州の中堅国家レベルにまで増大。
「北伐」と同時期に蔓延したインフルエンザで荒廃していた農村も戦乱の終息とともに復活を果たし農業生産力も復活を果たした。
歴史家はこの平和と繁栄の時代を「黄金の10年」と呼んでいる。・・・それ以後の悲惨と対比して。


920 :ひゅうが:2014/01/22(水) 22:39:46

【火種~連省と集権の相克~】

だが、それもこれも、「アメリカ合衆国という後ろ盾」と、良くも悪くも独裁的な「孫中山」という存在があったからこそであった。
中華民国という存在は、軍事的に制圧下におかれた大都市部や沿海部においては孫文率いる国民党が主導しての中央集権化が図られ、広西地方や雲南地方、陝西地方といった地方色の強い地域においては「中華連省政府」による連邦化によって一応の統一が図られるという二本立てによって国家が維持されていた。
これは、なるべく広大な地域に触手を伸ばしたいのではあるが列強諸国、ことに日英による対米包囲網発動を阻止したいアメリカ合衆国と日英独とそれ以外による妥協の産物であったといえよう。
この方式であるなら、実質的には統治下にはない地域、「清国以来の正当な領土」の回収という孫文が固執する目標も「先送り」するという名目が立つし、中央からの自立を図りたい地方軍閥にとっても「可能なら独立、できなくとも自治権の拡大を列強の後ろ盾で行える」チャンスが訪れる。
妥協的ではあっても現実的な提案であった。

この方式が提唱されたのは、1918年のヴェルサイユ講和会議においてであったとされる。
中華民国は当時、山東半島に利権を有していたドイツの排除を目標として宣戦布告を行っており、この問題もあわせて話し合われていたのである。
発案したのは当時、ヴェルサイユ会議に随行団の一員として参加していた海軍中佐嶋田繁太郎であったとされる。
これには、清国末期以来列強によって莫大な富が注ぎ込まれ、合衆国も少なからぬ利権を有していた満州という存在が念頭にあったといわれ、列強もこれには追随。
結果、ロシア系の極東合衆国と英国が影響力を行使していた東トルキスタン・ウイグル地区やインドとの緩衝地帯となるチベット高原、満州および極東合衆国の外郭となるモンゴル高原と内蒙古地方が中華民国中央政府の統治から離れた。
だがこれは「中央政党としての国民党以外の政党は必要なく、中華は強力な統制によってまとめられねばならない」という「信念」を抱く孫中山や国民党の主流派、中央集権派にとってはあくまで妥協の産物であった。
そのために「当面は国力を増大させ、しかる後に正当な領土を回復する」という方針がまことしやかに語られていた。
皮肉にも、最大の友好国であり力を持ってこれを制することができるアメリカ合衆国は列強の干渉によって駐留兵力を制限されており、さらには中央政府の支配領域を増大させ市場を拡大させる欲求に忠実であった辛亥革命以来の友好資本家たちは逆にこれを後押しする始末。
これに対する抵抗勢力も、世界史的な重大事件の発生によって沈黙を余儀なくされる。

世界恐慌。

1929年に発生した大恐慌はまたたくまに世界のブロック化と震源地である米国の苦境をもたらし、その莫大な資金援助を受けていた民国にも大きな影響を与えたのである。
さらには、当時権力を手中にしつつあった蒋介石と連省派であった汪兆銘の暗闘、拡大方針をとりつつあった民国軍、そして勃興しつつあった共産革命勢力によるテロルなどの様々な要因が重なり、中華民国は「黄金の10年」の後に「猖獗(しょうけつ)の20年」と呼ばれる内戦の時代に突入することになるのである。


921 :ひゅうが:2014/01/22(水) 22:41:37

【あとがき】――駄文ですが投下いたしました。1925年の孫文死去以後、連省派の汪兆銘と集権派の蒋介石の暗闘がはじまっています。
そしてその動きは1929年の世界恐慌以後に一気に活発化した…とそういうお話でした。
 

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最終更新:2014年12月23日 09:41