889 :ライスイン:2015/01/06(火) 20:49:34
1908年7月 東京 夢幻会会合場所


「接収地の運営は上々のようだな。」

「ええ、欧州の連中が相当恨まれていましたからね。わが軍が降り立った途端に熱烈な歓迎ですよ。」

今回の会合では割譲された植民地の運営について話し合われていた。

「ジブチやカナリア諸島のインフラ整備や基地、居住設備も9月には完成します。」

「ただ任那半島(※1)は禿山になっている場所が多く、植林から開始しています。」

次々と行われる報告。問題は多々あるが順調な進捗状況と言えるだろう。

「それと・・・秘密裏にウランの採掘も始めました。念の為に工夫は朝鮮人や清国人(※2)を使い、厳重な監視下で運用しています。」

「分かった、採掘したウランは舞水端里の地下貯蔵庫に厳重に保管してくれ。」

戦争終結早々に小規模ながら核開発を開始する彼ら。普通に使うにしろ最終手段に使うにしろ絶対に必要になる。
彼らはそう考えて極秘プロジェクトとして開発を指示したのだった。

「話は変わりますが清国へ侵攻した欧州各国から領内通行や港湾使用、そして物資の売却の要請がありましたが・・・」

派遣された欧州各国の軍の規模では香港やシンガポール等の英国領だけでは不足していた。
因みにアメリカはフィリピンの基地を”適正な利用料”を払わせて使用許可を出していた。

「図々しい奴らだ、港湾使用と領内通行は却下だ。ただし物資は適正な価格での売却なら応じよう。」

「それと軍縮の件ですが・・・。」




                  孤立大陸 第10話「清国の崩壊、そして大戦への道筋」


 1908年7月2日、イギリス フランス ドイツ オーストリア イタリアの5か国(※3)13個師団+支援部隊の約23万からなる欧州軍は天津に上陸を開始していた。
同時に香港からも対岸へ侵攻が開始され、ロシア軍も追加の増援部隊20万(※4)を得た上で侵攻を再開し甘粛省及び青海省へ侵入。
この時点ですでに青海省の西半分を制圧していた。
この攻撃に対して清国軍は全く歯が立たなかった。最初の頃は逮捕した反乱分子や刑務所の囚人、国内難民などを強制徴用し粗末な武器(※5)を
持たせ、場合によっては阿片を使用し恐怖心を失わせるなどして投入していた。これは一定の効果を発揮した。
倒しても倒してもゾンビのように湧き出て突入してくる清国兵に欧州兵の一部は精神を病み、同時に大量の銃弾・砲弾を消費させた。
しかし3方面から侵攻する欧州軍に対しては徐々に数が足りなくなり、結局は正規部隊を投入せざるを得なくなった。

「これで西洋の蛮族どもを打ち破っていやる。」

北京市内を誇らしげに行進する王族警護の近衛師団「禁衛軍」を始めとする「新建陸軍」を閲兵しながら光緒帝や西太后などは自分たちの勝利を確信した。
清国の方針は天津へ上陸した欧州軍に「新建陸軍」で攻撃を仕掛け勝利し、その後各地の兵力を糾合しながら南下。香港方面の欧州軍へ決戦を挑む。
そしてそれに勝利した後、国内の全兵力を結集しロシア軍を倒す・・・という物凄く希望的観測に満ちた内容であった。
しかし現実は残酷であった。

890 :ライスイン:2015/01/06(火) 20:50:07
「撃てぇ~、野蛮な土人共を皆殺しにしろっ!!」

「下等生物共が白人に勝てると思うな~」

天津の欧州軍へ攻撃を仕掛けた清国軍は多数の機関銃や野砲・・・場所によっては艦砲による熱烈な大歓迎を受けた。
しかも欧州軍兵士は日本に敗北した事により貯まりまくった鬱憤を晴らそうと士気は非常に高かった。もっとも勝利後の略奪を期待しての事もあったが。
これ等の苛烈で容赦ない攻撃に上辺だけ近代化しただけ(欧州基準では旧式)の「新建陸軍」では対抗できず、近衛師団たる「禁衛軍」は精鋭らしく
勇猛果敢に戦いそれなりの損害を欧州軍へ与え、欧州軍は補給や休息の為に1か月以上進撃停止を余儀なくされた
だが彼らの奮戦は更なる苛烈で容赦ない攻撃を誘発し、最終的に天津へ派遣された清国軍は兵力の8割以上を損失し北京へ後退した。
 更に悲惨なことに天津方面へ近代装備の精鋭部隊を根こそぎ送った為、甘粛省・青海省方面のロシア軍や広東省方面の欧州軍に対しては手薄になり、
しかも現地部隊の大半は旧式装備で効果的な反撃は行えなかった。

 それから約2か月後、9月5日になると香港方面の欧州軍は広東省全域を占領。ロシア軍も甘粛省・青海省を占領。それらの過程で50万人以上の清国人が
死亡しそれ以上の数が難民となっていた。そしてロシア軍が四川省西部に侵入した時・・・

「我々”神聖大朝鮮帝国(※6)”は貴方方ロシア帝国と共に清国打倒の為、戦う用意があります。」

神聖大朝鮮帝国皇帝高宗の使者がロシア軍先鋒部隊の前に現れて口上を述べた。しかし使者への返事は

「アゴーニ(撃て)!!」

無数の銃弾であった(※7)。挽肉状態の使者を横目にロシア軍は進撃を再開。およそ1か月で神聖大朝鮮帝国を制圧。その過程で多数の朝鮮族が死亡し、生き残った
者もロシア軍によって強制労働に就かされ殆どが死に絶えたという。ただし日本への嫌がらせの為なのか、高宗以下の王族や一部の両班は助命されてモスクワへ連行。
朝鮮王国亡命政府を立ち上げさせられた。

 1908年9月5日 ロシア軍攻勢再開とほぼ同時に補給を終えた天津の欧州軍が遂に北京に向けて進軍を開始した。
先の天津での戦闘で精鋭部隊をほぼ損失し、旧式装備の雑多な部隊しか残っていない清国軍では進撃を阻むことは出来ず、現時点で唯一「新建陸軍」多数を
擁する最後の希望ともいえる北洋軍は司令官の袁世凱が欧州軍に恭順してしまった為、彼らの進撃は極めて順調であった。
この間、清国は日本やアメリカに対し必死で救援を要請していた。アメリカに対しては

「無法かつ残虐な行いを繰り返す欧州軍から助けてほしい。清国の自由と独立は極悪非道な欧州軍に踏みにじられている。」

と自由や独立などアメリカ人が好む言葉を並び立て、そして更なる権益を提示して救援を乞うた。日本に対しては

「同じ有色人であるアジアの同胞を欧州軍の侵略から救ってほしい」

と同じ有色人であることを強調し、アメリカと同様に追加の権益を餌に救援を要請した。
しかしアメリカは金を持たない清国人には極めて冷淡でおまけに欧州から手に入れた植民地の開発で国内は未曽有の好景気であり、そんな暇はなかった。
日本も今までの経緯から清国人を酷く嫌悪していた為、両国ともに救援要請に応じる事はなかった。もっとも欧州軍と戦争してまで手に入れる価値のある物は
清国には無かったが。

欧州軍は9月18日には北京外縁部に到達した。
しかし北京一帯には雑多な部隊とはいえ10万以上の正規軍に加え多数の民兵が存在していた為、欧州軍も激しい戦いになると考えていた。しかし・・・

「な・・・なんだ、弱すぎるぞ。」   

「いや、それ以前にまともに抵抗している連中は極僅かだぜ。」

北京市内へ突入した欧州軍兵士はあまりの抵抗のなさに唖然としていた。場所によっては頑強に抵抗している所もあるがそれは極僅か。
しかも一部の市民たちも無気力状態であった。

「おい、こいつら阿片をやってるみたいだ。」

欧州軍は射殺した清国兵や拘束した市民を取り調べ、その多くが阿片を使用していたことが判明した。

「やっかいですな、敵が弱いのは歓迎すべきですが・・・。」

「このままだと我々の軍にも影響が出るぞ。」

北京郊外に設けられた司令部で欧州軍の司令官たちがこの問題について対策を練っていた。
放置したままだと押収した阿片を使用する者が出てくるのは確実だからだ。
因みに北京市内に阿片が蔓延している理由は日本が嫌がらせの為に特務機関に命じ、子飼の現地組織複数を経由してばら撒いていたのが原因である。

891 :ライスイン:2015/01/06(火) 20:50:39
「よし、では阿片患者は発見次第殺処分。押収した阿片は集積した後に処分でどうですかな。」

「異議なし、それでいきましょう。」

こうして方針が決定され、進撃は再開。突入から約1週間で激しくも虚しい市街戦は終了。北京市内は欧州軍に制圧された。
そしてイザ紫禁城へ突入しようとした時、内部から政府閣僚や官僚・貴族たちが出てきて命乞いをした。

「光緒帝陛下と西太后様は自害された。」

物凄く白々しい言葉であった。城内に入った欧州軍将校は滅多刺しにされた2人の死体を確認し司令官たちに報告。
国家元首が死亡した為、やむを得ず命乞いをしてきた彼らと交渉(という名の一方的な要求)をすることにした。

1908年10月8日、以下の内容で清国と欧州軍6カ国との講和が成立した。

1:ロシア帝国に新疆、甘粛省、青海省を割譲する。

2:イギリスに広東省、福建省を割譲する。

3:フランスに広西省・雲南省を割譲する。

4:ドイツに山東省を割譲する。

5:オーストリアに江蘇省を割譲する。

6:イタリアに浙江省を割譲する。

領土割譲のみ(割譲地域内の日本権益は除く)で賠償金の要求は無しであった。
これは清国が賠償金が捻出できないほど困窮している事や有望な権益の多くが日本やアメリカ(あと自分たち)が保有していた為でもあった。
更に進軍途中や北京市内で大規模な組織的略奪を行いかなりの収入を得ていた事も大きかった。その略奪の酷さに駐清日本大使は

「欧州軍はまさに蛮族の如し。」

と表現。この言葉が日本ばかりかアメリカの新聞にも掲載され、欧州軍はその評価をさらに下げる事となった。
そして欧州軍は講和条約の締結を確認するとそれぞれの割譲地へ移動を開始した。
生き残った閣僚や貴族達は”やっと自分達の天下が来た”と次期皇帝の選出を始とした権力争いを開始した。しかし数日後、欧州軍の支援を受けた
袁世凱率いる北洋軍が北京に入城し彼らを皆殺しにした。そして欧州軍各国の後押しを受けて新国家

”中華民国”

の建国を宣言するとともに自らが初代大統領に就任した。しかし首都である北京は欧州軍の大規模な略奪によって荒廃し、戦場になった各地も同様であった。
そのせいで税収は激減していたが欧州各国及び日米は各種援助要請に応じる事はなく、孫文らとの対立もあり中華民国は常に政情不安定であった。


 1908年10月20日、大陸での戦争が一応終結していたこの日に大日本帝国は海軍の軍縮計画(笑)を発表した。
主な内容は戦艦(旧式)・装甲巡洋艦(旧式)の廃棄及び少数の代替艦建造であった。主な内容は

1:戦艦富士・八島・敷島の廃棄(搭載艦砲は要塞砲に転用)、三笠の記念艦化。

2:戦艦香取、鹿島を改装の上でタイ王国に譲渡、戦艦薩摩・安芸を改装の上でトルコ共和国に譲渡。

3:出雲型以前の装甲巡洋艦の廃棄(搭載艦砲は要塞砲に転用)、春日型2隻を練習艦に指定。

4:日清戦争以前の各種艦艇の廃棄。

5:新型巡洋戦艦6隻及び各種巡洋艦20隻及び支援艦艇の建造。

という内容であった。新型艦艇の詳細は伏せられていたものの、建造数が廃棄数より大幅に少ない為、各国は一応軍縮であると受け取った。
しかし建造予定の艦艇は各国の予想を上回る強力なもので、目玉の”航空母艦”は輸送船扱いで支援艦艇の中に潜り込ませていた為、気付かれる事はなかった。
またトルコに戦艦を譲渡することに対してはギリシアが激しく反発したが日本側は無視。イギリスに泣き付いたがイギリスも日本へ文句を言える立場にない為に
支援は得られず講義は断念。結局ギリシアはトルコに対抗する為に莫大な資金を払ってイギリスに戦艦を発注することになった。

892 :ライスイン:2015/01/06(火) 20:51:13
こうして世界は一応落ち着きを取り戻した。しかし欧州諸国間では徐々に対立が広まっていった。
義勇艦隊が壊滅したとはいえ、大した損害を受けていないイギリスと清国との戦争で利益は手に入れたが海軍が壊滅し、国民の不満を抑え込みつつ軍備増強に
邁進するドイツ。これらが中東・アフリカ政策を巡って対立し始め、他の欧州諸国もそれぞれの思惑の元に行動を開始した。


※1:朝鮮半島の新しい名称。かつて半島に領有していた地域の名前から取った。

※2:密入国者や戦争及び反乱の際に捕獲した捕虜や罪人で厳重な監視下で採掘作業に従事させられている。ただし彼らは使い潰される運命にある。

※3:スペイン・ポルトガル・ベルギー・オランダ・モンテネグロは国家破産一歩手前の悲惨な状況下の為に参加する余裕がなかった。

※4:20万の内、ロシア人からなる正規兵は半数の10万で残りは強制徴募したアジア系の少数民族。

※5:後装式の小銃を装備していれば良い方で多くがマスケットや火縄銃を装備。中には弓矢が主力という前近代的な部隊も多かった。

※6:欧州軍に戦争を仕掛けられた清国が不利になったのを機に四川西部朝鮮族自治区に移住させられていた朝鮮人が新たに立ち上げた新国家。
   ただし移住開始時に居た100万人は移動中の飢餓や清国側の過酷な扱いに加え、地元・周辺住民との争いや両班の暴政で60万人まで減っていた。

※7:事前調査によって同盟又は参加に加える価値は無しと判断していた為。

おまけ

日本海軍新規建造艦艇一覧 1908年度計画(機銃は表示省略)

○早池峰型巡洋戦艦:54000t、46?45口径連装砲×4、14?50口径連装砲×10、12.7?50口径連装高角砲×14、7.6?56口径高角砲×8 速力:32kt
 01:早池峰(1911年1月) 02:大雪(1911年3月) 03:常念(1911年6月) 04:穂高(1911年8月) 
 05:白馬(1911年11月) 06:黒部(1912年1月)


○関ヶ原型巡洋艦:14700t 20.3?50口径3連装砲×3、12.7?50口径連装高角砲×8、61?4連装魚雷発射管×2 32kt
 01:関ヶ原(1910年2月) 02:三方ヶ原(1910年4月) 03:鳥羽伏見(1910年7月) 04:壇ノ浦(1910年10月) 05:桶狭間(1910年12月)
 06:白村江(1911年2月)

○阿賀野型巡洋艦:7400t 15.5?60口径3連装砲×3、7.6?56口径高角砲×8、61?3連装魚雷発射管×2 33kt 
 01:阿賀野(1909年8月) 02:能代(1909年10月) 03:矢作(1909年12月) 04:酒匂(1910年1月) 05:鶴見(1910年3月)
 06:麻生(1910年5月) 07:清津(1910年7月) 08:中津(1910年8月) 09:九頭竜(1910年10月) 10:天神(1910年12月)

○吉野型重雷装巡洋艦:9700t 12.7?50口径連装高角砲×4、7.6?56口径高角砲×8、61?5連装魚雷発射管×10 36kt 
 01:吉野(1911年5月) 02:浪速(1911年7月) 03:新高(1911年9月) 04:畝傍(1911年11月)

○龍驤型航空母艦:18300t 12.7?50口径連装高角砲×6 33kt  搭載機:50機
 01:龍驤(1911年10月) 02:翔鳳(1912年1月) 03:瑞鳳(1912年3月)

○初春型駆逐艦:2150t 12.7?50口径連装高角砲×3、61cm3連装魚雷発射管×3 37kt)
 計6隻、1910年1月~7月に就役予定

○白露型駆逐艦:2200t 他初春型と同じ。 計10隻、1910年12月~1911年5月に就役予定

○朝潮型駆逐艦:2220t 37.5kt 並走は白露型と同じ。計10隻、1911年7月~12月に就役予定。

おまけ2

譲渡艦艇

タイ王国 トンブリ型海防戦艦(旧香取型):16900t、30.5?45口径3連装砲×2、14?50口径速射砲×14、7.6?40口径高角砲×8  速力:19kt
     01:トンブリ(香取) 02:スリ・アユタヤ(鹿島)

トルコ共和国 イスタンブール級戦艦(旧薩摩型):20800t、30.5?45口径連装砲×3、14?50口径連装砲×8、7.6?40口径高角砲×8 速力:23kt
       01:イスタンブール(薩摩) 02:アンカラ(安芸)

893 :ライスイン:2015/01/06(火) 20:52:23
いかがでしょうか?
清国は寄って集ってボコボコニされて崩壊。そして新規建造計画と連動した軍縮計画(笑)が発表されました。
あと核開発も密に開始。
そして遂に欧州諸国間で対立が始まりました(殆ど描写出来てませんが)。そして哀れニダー君。
航空機については次回記載します。

~予告~

欧州では対立が加速していた。イタリアは日本と仲良くし始めたトルコを盛んに挑発し、同じくギリシアはバルカン諸国を誘って同様に
挑発行為を行う。ドイツは積極的な植民地政策を行いイギリスばかりかフランスとも対立する。

次回”燃え上がる地中海、そして大戦前夜”

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最終更新:2015年01月31日 19:35