538 :ルルブ:2015/01/30(金) 19:22:44
「第十一話 隠密」



1945年9月16日 横須賀 未明

一機の二式飛行艇が琵琶湖沿岸のゴルフ場から空に向かって飛び立っていた。
政府特務ではなく、通常の空路を辿った機体は2時間後に横須賀基地のある軍港へと向け侵入。
何事もなく「定期便」としてそのまま着水。
ある一人の乗客を機内に抱え込んだまま。

「ゴルフバック片手に着水とは、やれやれ、だな」

降りてきたのは近衛文麿元大日本帝国首相。
後任の嶋田繁太郎首相の果断さと強硬姿勢ゆえに相対的に優柔不断、ハト派閥、内政専門家と国民から評価されている彼。
確かに彼の政策や性格ではあの日米戦争を乗り切りる事は出来ない、というのが、当時の夢幻会や現在の国民らのコンセンサスである。
しかし、現実には夢幻会の対独宣戦布告と第二次世界大戦への介入のための軍備を整えたのは彼なのだ。
そう考えると彼もまた先の大戦における勝利の功労者であり、誰もが公にできないあの大作戦の準備も極秘裡に行った辣腕政治家。
見た目で損をするとはこの事で、見た目で侮ったバカはいつの間にか失脚しているという夢幻会きっての表政治家に対するバランサーである。

「本当にあのジパングそっくりの展開だ。対米戦争真っ只中でないだけまだましだが」

誰にも聞こえない機内トイレでそう呟く。
みらいから使者が来る。
既に太陽は水平線に姿を現しつつある。
さっさと用を済ませよう。
ネクタイを整えて帽子をかぶり、用意されていた水を口に含む。
使用する事など無いとは思うが一応自決用の薬も財布に入れる。
夢幻会は今や影の政府として各国に知らている。少なくとも英独ソらには。
だから「みらい」幹部との会談は急ぐ必要があった。
しかも自分たちが彼らに好意的であると言う事を理解して貰える為にも誠意を尽くしている、そう感じてもらう為に。

「久しぶりのボートに9月の太平洋か。落ちたら風邪をひく」

冗談でも言ってないとやってられない。
少しだけ見えてが、海軍第三種軍装に身を固めていた人間が見えた。
あの姿は平成の日本人ではありえない。
我が国の海軍の人間が着用する軍服だった。
恐らくあの「みらい」には全ての80年先の知識を得たであろう怪物がいる。
自分たちはおっかなびっくりで、できればなりたくなかった、使いたくなかった存在を自分の意志で明確に使用してくる男。

「そう、本当にあのジパングからここに来た男ならあれの価値を全て理解している。
我々の正体さえ知ってしまっただろう。厄介な事になっているな」

全ての敵対者に対して敬意を持ちつつも、全ての敵に対して容赦しない、容赦しなかったであろう男、草加拓海。
大日本帝国海軍中佐という枠には捕らえきれなくなった男は一体全体、我々夢幻会と大日本帝国に何を要求するのだろか。

「みらいをどうしたいのだ? 草加拓海」

呟くうちに二式飛行艇の乗組員らがみらいの高速内火艇にロープをかける。
接舷した。タラップが降りる。

「閣下、準備完了です」

「ありがとう」

「は! お気を付けて」

内火艇が接舷し、そちらに乗り移る。
やはりいた。
甲板に迎える人物の中に、野戦服というべき海軍の制服を着た男が確かに微笑みながら佇んでいる。
まるで子供のように純粋無垢な、故に恐ろしい笑みをたたえて。

「あれがあおの草加拓海。あの架空の存在。
くくく、それを言ったら我々だってそうだな。
それで、「未来」からこちらに漂流した「みらい」よ、君らは一体何者だ?」

539 :ルルブ:2015/01/30(金) 19:25:14
「約束通りなのは流石は首相閣下ですね。
嶋田総理も約束を守ってくださった。陸海軍の軋轢を全て切り捨ててあの対米戦に完勝して頂いた。
まさに我が帝国の誇る政治家、その筆頭です」

草加の軽口。
彼の監視役である角松はあの二式飛行艇以外にまわりに誰かいないか確認するために双眼鏡を向ける。
大日本帝国ではなく2025年のシャープが作った電子双眼鏡ははっきりと近衛元首相の表情までも映し出していた。
あの、平成時代、太平洋戦争を止められなかった無能な昭和の首相として記録に残っている首相。
東条英機首相の前任者として戦犯となった人間。
残っていた彼の写真とは寸分違わずに。

「さて、もうじきだぞ」

横須賀の海軍戦艦用ドックが解放される。
このドックは軍事機密保持を目的に上部が開閉できるドーム状の存在。
まだ大戦争など計画段階でしかなかった昭和の高度経済成長時代に日本の大手建設会社が政府の要請で建てた、排水量3万トンから5万トンの中型・大型空母建造用ドック。
戦後の軍備精鋭化で本来は別の軍艦で埋まるはずが、急遽、嶋田総理の命令で空白とされたドック。
ここに入港するとき草加拓海は梅津艦長らのいる艦橋で自信満々に述べている。

『ようこそ、大日本帝国へ』

だから、俺は聞いてしまった。
何故か聞かないといけない、そう感じたから。

「草加、ここはまだ日本か?」

角松の疑問。
草加は明確に答えた。

「ああ、ここは日本だ」

その顔は確信に満ちている。
或いは新城直衛ならこう言うかもしれない。

『狂信に満ちているな』

と。
無論、自覚などしてないだろう、そう付け加えるだろうが。

540 :ルルブ:2015/01/30(金) 19:26:10
そうなのだ。
誰が何と言おうとも、何を思ってもここは日本列島だ。
ここは、この目の前に広がる海と背中の山々、そして大地。
どれもこれも平成の日本国自衛官ニ佐の角松洋介も、昭和の大日本帝国海軍中佐である草加拓海も否定しない、合致する事実。
時空の漂流者である「みらい」と俺たち。
彼らを迎え入れたのは自分たちの知る大日本帝国ではない、「この世界の大日本帝国」という太平洋や東南アジア諸国、北米、南米、中国沿岸の各国の盟主として世界に君臨する海洋覇権国家。
そこに乗り込んできた彼ら「みらい」は今、誰もが帰る術を知らずに誰も来たくて来た訳ではない異世界の日本へと「帰港」した。
みらいの高速内火艇が収容されると同時にドックの正面ゲートが閉鎖されていく。

「排水が始まった」

みらいの周囲から水が抜かれる。それもかなりの勢いだ。
何を考えているのかよく分かる。
と、同時にみらいもまた固定される。
横転を防ぐ為に必要な処置だと言う。それは当たり前だと分かっている。
だが、どこかで梅津ら幹部は警戒している。

「これで陸に上がった河童だな。俺たちはもうどこにも行けない」

角松の的確な例え。
異質なものを隔離する、その為の手段。

「そうだな、燃料が軽油だったのは知らなかった。
十分な燃料を手配できなくて申し訳ない。
ただこの「みらい」は日本国という国家の軍艦であり、ここは大日本帝国という国家の領土である以上、武装解除は無理でも武器使用の禁止は確約して欲しい
あなたと梅津艦長、尾栗一佐の許可さえあれば可能なはずだが?」

そして草加は付けくわていた。心の中で。

(角松ニ佐、あなたには悪いがこの「みらい」はどこにも行かせない)

とも。
いけしゃあしゃあと良くもまあでまかせをコイツは言える。
あの日、あのシンガポールでの告白から考えるに、最初から草加は十分な燃料供給をする気はなかったのだろう。
第一、見え透いた嘘だ。東進丸には十分とは言えないが軽油が積んであった。
俺たちみらいの燃料を支配することで航路を限定させ、今もみらいの足を止めている。
事実、東進丸からの洋上給油の回数は不自然なほど多かった。

(あれも草加かその上の指示だったな。
考えてみれば当然か。独自航行している軍艦を捉えるのは平成の日本だって難しい。
こっちなら尚更。だったら最初から行ける場所を限らせる。理には適っている)

最初から全部入れればいいのに、敢えて、いや確実に小出しで給油していた。
平成のガソリンスタンドで学生が1000円札一枚単位で自動車に給油するのと同じだ。
それを知っているくせに。大した役者だな。

「見ただろうか。先ほど私が話していたのが近衛元首相閣下だ。
宮中にも政府上層部にも影響力がある。
決して無下にはできないし頭を下げておいて損はないと思うぞ、角松中佐」

「お前よりも、か?」

彼の忠告と彼の皮肉。
全く仲が良いのか悪いのか。
気がついたらどちらもこれが普通だという。
尾栗などは航海中のこの関係に呆れていた。
桃井に至っては処置なし、という感じで去っていっている。

「さてな、私は一介の中佐に過ぎない。その様な判断は分を超える」

「ふん、タヌキが」

いいや、どちらかと言うと顔つきから見て狐かな?
まあ良い。
梅津艦長と尾栗三佐(菊池がみらいを離れた為に急遽昇進させた。ただし、先任は菊池のまま)が改めて挨拶している。
先に草加を呼び、彼を与えられた士官室へ、自分はその後に甲板から艦橋に戻る。
こいつと近衛元首相を今会わせるのは何か不味い気がしたから。

「うん? 会わずに行くのか?」

「ああ、お前を向こうからの新しい客人と合わせると何だか嫌な化学変化をしそうで、な」

「人を化学兵器みたいに言う、流石に私でも傷つくよ」

草加の背に角松は聞く。
どうしても聞きたことを。

「歴史を知ってしまったお前は、人間から神にでもなったのか?」

苦悩するその声と表情に草加は何も答えない。
ただ微笑んだだけ。
この日の密談は数時間の長きに及ぶ。
その内容がもたらしたものは後日改めてお伝えしよう。
いまはただ征くのみ。
道なき道を。
暗闇に照らされている矛盾に満ちた「みらい」とともに。

541 :ルルブ:2015/01/30(金) 19:27:54
1945年9月17日 大阪 伊丹空港

「当機は無事着陸しました。皆様ようこそ日本へ。長旅お疲れ様でした。
伊丹空港へようこそ」

藤堂貴子は研修生として最後のフライト研修を終える。
これで晴れて日本航空という会社の客室乗務員だ。
いろいろあったが何とか一人前に空を飛べるようになった。
嬉しいと純粋に思う。

「それではファーストクラスの方から先にご案内します、どうぞ」

何故か英語が主流の航空業界。
やはり戦前の名残なのだろうか。
守兄さんに聞いてみるかな。
と、埒のないこと思っている。
それでもサービスは完璧だ。
徹底的に扱かれたのだ。教官に、先輩たちに、上司に言われた。

「完璧になれ、と。貴女達は大日本帝国の看板を背負うのですよ」

と。
耳にタコができるくらいに。軍隊だったら鉄拳制裁というやつがきたかもしれない。
そしてここで彼女が失敗したら1000名近い後輩や落選した選抜者らに泥を塗る。

(は大日本帝国に今のところ二社しかない航空会社、つまり国家の顔、後に言われるナショナル・フラッグ・エアーライン=国旗掲揚航空会社の顔なんだ
しっかりしなさい、貴子!!)

と、最後の乗客がタラップに向かってくる。
確か、彼は香港空港で乗り継ぎをしたイギリス人。
兄が海軍軍人だからあまり偏見はなかったがそれでも何故この時期にイギリスの人間が香港から態々伊丹空港に来たのだろう?
成田や羽田ならまだ分かるのだけれど。
そう思いつつも頭を下げる。彼の持っていた英字新聞を受け取る。
大和撫子らしく礼儀正しいお辞儀をして。

「どうもありがとう、お嬢さん。
失礼ですが・・・・・藤堂さん、と、言うのですね?」

え、なんなのこの人?
いきなり名前を読んだ。
それは確かにネームプレートには漢字表記の下に小さくローマ字表記で姓名が明記されているけど。

「はい、そうですけど?」

こちらは困惑、となりの同僚は興味津々。
男はすこしはにかみながら、だが、私の好みじゃないけど、笑顔で言った。

「いえね、昔日本に交換留学していた頃に藤堂明という帝国海軍軍人にお世話になりまして。
向こうは講師だったから覚えてないでしょうが、同じ名前に同じ漢字のスペルでしたのでどことなく懐かしい気がした、それだけです」

「え? 父のお知り合いですか?」

思わず私語が出て、何事かとこちらに近づいていた先輩が咳払いする。
いけない、仕事に戻らないと。

「あなたの様な美人があの藤堂明先生のご息女?
ほう、運命とは面白いですな。
もしかしたらまたお会いする機会があるかもしれませんね。
ボンド、私の名前はジェームズ・ボンドです。短い飛行でしたがありがとう」

そう言って青いシャツと黒いスラックスに黒のジャケットを着た伊達男は洒落た後ろ姿のまま去っていく。
まるで彼こそ英国紳士の鏡と言わんばかりの姿で。
彼女も藤堂貴子も仕事に戻る。
彼女はすぐにその日のことを忘れたし、誰も注目しなかった。
せいぜい同僚の一人が良い男がいないかと絡み酒してきた程度。
彼女は今日の出来事を忘れてしまった。
いつもの事だと思って。
この職業、何故か食事に誘われることが多い。
それを素直に喜べないのは私が大和撫子だからか、単に性格の問題か。

542 :ルルブ:2015/01/30(金) 19:29:34
一方で、神戸行きの高速バス。一番後ろの席で英語で話している007。
隣に座っているのはMが用意した日本国内の情報分析官でコードネームはQ。

「ドイツ人に先を越されるとはMI6も落ちたものだね」

年若い部下、いや、同僚かな?
彼は接触してきたそうそう愚痴った。

「向こうは独裁国だ、仕方ない」

「言えてる。あ、荷物は領事館にあるし香港問題に関する資料も用意してあるから3日以内に読み切っておいてね」

男は日本の漫画に視線を戻す。
なんだ、この漫画?
凄く興味があるんだが。

「面白ろそうだな・・・・どういう漫画だ?」

「ある二つの大国に挟まれた小国のお姫様が主人公なんだ。
今度フルカラーで映画化もされるから・・・・絶対観に行くぞ!!」

思わず叫ぶQ。
こいつは大丈夫かと思ったが、しかし、貸してもらった第一巻を読んだ。
日本語だから少し苦戦したが内容は面白い。下手な小説など歯牙にもかけないだろう程に練り込まれた内容が素晴らしい。
こいつは最高傑作になるな。
ほう、舞台の地形はトルコに近い。で、文明は一度滅びている、か。
銃と剣で武装した騎馬部隊に、飛行機と諸部族をまとめ上げる地方分権の諸侯の上に立つ皇帝と絶対君主制を引く王の対立、小さな部族。
翻弄される少女に、王権奪取を目論む王女、弟に追い抜かれてしまった屈辱を晴らしたい皇兄殿下。
彼らに付き従う人々。
これは確かに一読の価値がある。あとでまったくつまらない資料など読まずにこれを買いに本屋まで行くか。

「で、取り敢えず寝なよ。時差ボケはキツいだろ?」

「そうさせてもらおう。
ああ、神戸についたら起こしてくれ。ではお休み」

到着。
Qオススメの漫画を購入。
日本の新聞を数枚、1月分チェック。
アフタヌーンティーを飲む。
それらを全て終えたボンドは荷物を神戸領事館へ置くとすぐにレンタカーという日本列島にしか今のところ普及してない車を使って高速道路を疾走する。
目的地は京都市。
定刻通りに例の場所に着くだろう。

「さてと、何が出るかな?」

ボンドの呟きは虚空に消えた。
その前にあのやり取りを思い出す。
神戸領事館に着いた時だ。
まずは挨拶。
続いて地下室に案内される。
そこには一人と大佐が優雅にお茶を飲んでいた。
スコーンにバターもある。
なるほど、この大日本帝国では食糧難は本当に少ないと聞いたが嘘ではないようだ。

『君が007だな、歓迎するとは言わんよ。理由は察してくれ』

『ええ、私がロスチャイルド大佐の立場であれば同じことを言います
香港返還、あるいは譲渡問題に関しても。例のMIRAIに関しても、ですか』

『結構。流石はMI6に9人しかいない最良のスパイだ。この国の内情はよく調べている。
既に大日本帝国は政府も国民も軍部も経済界も決して親英国家ではない。
せいぜいよく見て中立だ。
それも嫌わているが利用価値がある、ほかに同盟相手がいないからという嫌々ながらの消極的な好意による中立関係に過ぎん』

『付け加えるならば我が国はそれに甘んじるしかない、だが、なんとかしたい、と』

『でなければ黒い制服を率いる東方の蛮族でしかない伍長閣下に栄光あるユニオン・ジャックと国王陛下の00機関が頭を下げるものか』

『大佐、それは二人きりだから本音をいうのですね?』

『当たり前だ。ここは地下室で盗聴も盗撮の可能性もないから言える。
公の場では言えん。君も気をつけろ・・・・特にベッドの上でな』

『ご忠告痛み入ります。それで、渡したいものがあるとか?』

543 :ルルブ:2015/01/30(金) 19:30:38
案内されるのは領事館の別の地下室。
開けられるケースは二つ。
ひとつは書類と現金。
三菱銀行のマークが入っている通帳にも300円分の貯金がある。
この国では同じ銀行ならその通帳というものでどこでも資金を引き落とせる。
そう言う意味ではこの国は個人レベルでも世界最先端国家だ。サービスの質も大英帝国王室御用達の看板を掲げてもなんら問題にならないほど素晴らしい技術と質を誇る。
それと君の為に偽造した英国政府発行の正式な身分証明の書類に、この国の最新情報の概要。
電場番号と一緒に書かれている名前はこの国にいる協力者のコードネーム』

『祖国を売る卑しい売国奴、ですか?』

『そうだ、007。
当たり前の事だが二重スパイやハニートラップかもしれん。信じるな。利用はしても、な』

『了解しました』

『それと、これを使え』

もう一個のケースにあるのは消音器と7発入りの拳銃マガジンの予備弾倉二つ。
そして弾倉が装填されているひとつの拳銃。

『ワルサーPPK、最近ドイツの一般親衛隊主導で開発された銃で、日独の技術協定で三菱ら日本の財閥が入手した。
正規の販売ルートでジャパーニーズ・マフィア、ヤクザというのだが、彼らが購入した。
購入先の名前は知らんが、性能は保証されている。
あの伍長閣下率いるナチス・ドイツ、彼らが世界に誇れる唯一の存在だ』

黒光りする鋼鉄の塊は何故かよく手に馴染む。

(ふむ、良い相棒になりそうだな)

『同盟国日本国内でで生粋のイギリス人紳士が両国共通の敵対国であるドイツ人の拳銃を使う。
皮肉が効きすぎていると思いますが?』

『文句を言うな、私とて好きでやっている訳ではない』

『でしょうね』

『それと、このカタログから好きな車を一台選べ。それを君の専用車にする』

日本車のカタログ集だ。たしか先ほどの本屋にも同じものがあり、空港の近くのショールームには目を惹かれた車があったな。

『なんでも良いのですね?』

『必要経費だ、文句は言わん』

『では・・・・・・・』

そして、007ことジェームズ・ボンドは選ぶ。
あの車を。

『この国に来てから最初に出会った車です。
実はこれだ、と決めていました。大佐、私の愛車はこれにしてください』

『・・・・・・・・・・・・・・・・・・007、本気か?』

『ええ、本気です』

『しかし、これは・・・・・いくらなんでも』

『どれでも良いと仰言たのは大佐ですよ?』

『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・君は馬鹿か?』

『何故です?』

『本国でMあたりに言われた事を聞いてなかったのか?
こんな目立つ車でどうする気だ?
政府の役人どころか一般人にさえ一目で覚えられる車だぞ・・・・理由はなんだ、これを選ぶ理由は?』

『ひとつは加速性能。これは譲れません。
追うにせよ逃げるにせよ、この国の警察を振り切るのは必須です』

『無茶をしたら切り捨てる事を忘れるな。
まあいい、で、残りは?』

544 :ルルブ:2015/01/30(金) 19:32:23
『格好良いですから』

『はぁ?』

『君というやつは・・・・007、今なんといった?』

『ですから格好良い、そう感じたからと申し上げます』

『格好良い!?』

『ええ、格好良いです』

『いや、格好良いとかは関係ないだろう007』

『関係あります』

『どんな時に?』

『淑女を乗せるときに』

『・・・・・・・・・』

『それに』

『それに?』

『似合ってませんか?』

『え?』

『似合っているでしょ?』

『ええ、と、その、諜報員がそんな目立つ車を使うことが・・・・だいたい』

『でも私らしい車でしょ?』

『ま、まあ、そう言われれば・・・・その』

『似合ってません?』

『うう・・・・・・』

『似合ってますね?』

『ま、まあ、それはそうだが』

『私も似合っていると思いますし』

『・・・・・ああ』

『大佐?』

『勝手にしろ!!』

『では、問題ないですな』

問題大アリだろ。この男馬鹿か?

(007の馬鹿は命懸けか?)

そう思いつつもトヨタ自動車の2シートの高速機動車である86式自動車、通称でもある「86」は漆黒のカラーリングで納車される。
僅か6時間後に。

(ちゃんと他にも目的はあります。美女を助手席に乗せるだけ以外にも考えていますよ、大佐)

545 :ルルブ:2015/01/30(金) 19:33:42
1945年9月17日 イージス護衛艦みらい 迎賓室。

梅津、角松、尾栗の三人は近衛、草加を交えてこの国の歴史を聞いていた。
そしてより明確になる戦争の過程。

『ソビエト連邦軍、フィンランド侵攻作戦頓挫。和平交渉へ』

『英独開戦。大日本帝国軍欧州へ再度軍を派遣』

『フランス・スペイン艦隊、『日本領』カナリア沖にて壊滅せり』

『英独停戦、米国が中国と共謀。
フィリピン沖貨客船沈没事件と第二次満州事変へ』

『大西洋大津波発生。
南北アメリカ大陸、アフリカ大陸の大西洋沿岸部、欧州全域に大災害。
死者行方不明者は二次災害、三次災害を含める場合数億人規模と推定するが未だ集計不可能なり』

『対米戦争、対中戦争勃発。日本軍、大陸侵攻を開始、英国中立を宣言する
事実上、日本単独の日米戦争、日中戦争へ突入。国家総動員体制』

『アジア艦隊撃滅ならびフィリピン海上封鎖作戦決行。
大陸派遣の日本軍、技術力と軍事力の質により在中米軍、在満米軍に完勝。
中国大陸展開中の米軍並び中国軍の日本本土攻撃能力を消失させる』

『太平洋反攻作戦開始、軍機につき詳細は不明なれどアジア艦隊殲滅、各地の米軍へ出血を強いる』

『ハワイ沖海戦、米軍太平洋艦隊消滅。第二次日本海海戦とも呼ばれる完全なる勝利。
太平洋の制海権を掌握』

『米本土にて暴動発生、反政府デモが反政府武力闘争へ。
原因はさまざなれど、疫病封じ込めと飢饉対策に失敗した事が理由と政府は判断』

『米国崩壊、国際秩序を維持するために日英独は米国への治安維持部隊の派遣を決定。
欧州連合艦隊、アメリカ合衆国フロリダ半島へと無血上陸。
アメリカ全土で内戦へ突入。戒厳令効果なし。各地に謎の疫病が蔓延。バイオ・ハザードと位置づける。
米国西海岸、南部、中部は東部全域を放棄。各地で事実上の独立国建国へ』

『メキシコ戦争勃発。革命政府の恫喝に屈しないと嶋田総理の決断により、帝国軍、メヒカリに原爆を投下』

『サンタモニカ会談。戦争終結』

全てを語られた。
この世界の誰もが知っている、そしてみらいの誰もが知らなかった全く異なる太平洋戦争。
知りたくなかった。
知ってどうする。
しかし知らぬばならい。
だが、知った以上は後には引けない。
それはみらいの三人も、言った二人も同じ。

「梅津艦長」

何とか口にできたのはそれだけ。
尾栗はまだ信じられない、違うな、信じたくないと首を横に振っている。
そしてそれは自分も一緒。
だが、この前提を受け入れて初めてみらいは先に進めるのだ。
この世界のこの前提を拒絶しては何もできない。何も起こせない。
だが、角松の言葉に我に返った梅津。
彼は職務を果たす。

「お聞きしたいことがあります」

梅津は背筋を伸ばして、喉が渇いているのを堪えて聞く。
ある重要な、そう、昭和の戦後を知り、平成を生きている人間には重要な出来事を。

「この国は・・・・・核兵器をまだ持っているのですね」

それは否定して欲しい現実。
しかし、理性が告げる。
否定はありえない。
米ソ冷戦期と冷戦崩壊前後に米ソ英仏中、インド、パキスタンが核兵器を所有した事を考えると楽観は最悪の敵だ。
あの時代は他にもイスラエルやイラン、崩壊したフセイン政権のイラク、北朝鮮が核兵器保有する為に動いていた。

(彼らもそうだ、我々の世界の指導者や国家と同じ。
意思は関係ない、その国の内部に核技術があれば。
技術は関係ない、その国の指導者に意思があれば。
角松はそれを危惧していた。私も全く同感だ)

かの国々はアメリカを中心とした国際批判を浴びながらも核実験を強行する。
非核三原則を宣言している日本でさえ、IAEAの監視リストでは毎度危険国家として上位にいた。
現実味のある報告では、平成30年代の朝鮮半島北部の国家は確実にウランを使用した大量破壊兵器を数発所有していたという。
そして、これに対抗すべく韓国や日本でも理論面の研究は大きく進んでいた。その投射手段も含めて。
だから、あの当時の極東アジア情勢は火薬庫だった。
ここはどうだろうか?

「近衛閣下、大日本帝国は北米で政治的にドイツと対立してる。
今のところ軍事的には同盟国どうしの対立だがそれが本格化しないとは限らない。むしろとエスカレートする可能性は極めて高いと思います。
その際に貴国はまたあの悪魔の兵器を、原子力兵器を戦争に投入するつもりですか?
メキシコで何万人も消滅させた、あの神の炎をまだ使う気がありますか?
お答え願いたい。日本の未来のためにも、このみらい乗組員の為にも」

547 :ルルブ:2015/01/30(金) 19:34:38
穏やかな、しかし梅津の懸念。
だが、返ってきた声は素っ気ない。
そんな事には興味はないのだ、と。

「お答えできません」

それは肯定ではない。
だが、否定でもない。
つまりは、肯定だろう。
事実、自分たちが読んでいた新聞欄では理化学研究所らが核技術関連への研究資金の増額を求め、三菱や日立など、平成日本でも大日本帝国でも、どちらの世界でも戦後に世界規模の企業になった企業が多額の投資を行っている。
梅津は当然の如く知らなかったが、大英帝国諜報部も日本が原子力兵器以外に核技術を転用した原子力発電を実用化しつつあるのを察知していた。
それを辻大臣に伝えている事も。
だからこそ、カナダ政府とオーストラリア政府を恫喝させてまでウラン鉱山の採掘権を渡しているのだろう。

「我々はあなたの世界に介入したくない。
歴史を知った以上、ここは我々の平成に繋がるとは思えない。
だから、我々みらい一同は大日本帝国には帰属できない。
草加中佐、中佐の申し出はありがたいが軍人が他国の軍服を着て他国の命令系統に服従する意味を聡明な君なら理解してくれるだろう」

「なるほど・・・・他の方も同意見ですか?」

肯定する三名。

(あの漫画でも思ったんだが、彼らは現実が見えてないのだろうか?
それとも見たくないのだろうか?
いいや、自分たちだってこの世界に最初に来た時はそうだった。認められなかったか。
そう考えると仕方ない気もする。個人的には同情する。
が、公人としてはその様な反応や玉虫色の要求を認められない・・・・・やはりとなりの男の案を通すしかないか)

近衛の思惑。
そして草加の失望。

(みらい、ここまできて今もなお拒絶、か。
だがそれがどれだけ危険な事か全く理解していないように思えるのだが、どうだろうか?
この軍艦の能力を欲する為にこの帝国が何をするか分かっているのだろうか?
今は戦後なのだ。戦中ではない。遠慮はするが躊躇はしないだろうに)

まあ、ここまでは彼らの予想通り。
怖いくらいに反応するな。
原作を読んでなければ俺もどう反応したかわからない。
と、近衛は内心で思っている。
その間もみらいの立場を語る。

「我々の故郷である日本。
その広島、長崎では原爆が投下され20万人が一瞬で死にました。
それから80年。冷戦という米ソ両大国が地球を何度も滅ぼせるだけの核兵器を所有し、今なお核兵器拡散の脅威と恐怖に怯えている。
あの神の火を巡ってその後80年以上も世界中で紛争や流血が続いている。
近衛閣下、嶋田総理に伝えて欲しい。
あの兵器はあってはならない、存在するだけで人を魅了し破滅へと導く傾国の美姫・・・・いいや、魔女なのです」

確かに彼らの歴史、史実ではそうだ。
恐らくこの世界でもそうなるだろう。
現に英独ソ加仏伊などの生き残った列強や列強候補は躍起になって原子力の実用化、兵器への転用を目論んでいる。
いいや、実行している。
だからこそ、だ。

「しかし梅津大佐。我々は既に使用している。核兵器を実戦投入しています。
列強各国は生き残りをかけ民族浄化、植民地支配、奴隷制度の採用を行っている。
先ほど貴方が言った人権は我が国くらいしか認めてない。
加えて、平成という日本とは違い、我々には世界中に散らばる友好国も戦時下で守ってくれる世界最強の同盟国であろうアメリカ合衆国も貴方の言う在日米軍もないのです。
切迫した危機に対応し、我が身を守るのは帝国軍のみ。つい先日に薄氷の上を歩ききって勝利した日米戦争や日中戦争の様に。
故に梅津艦長、既に現実問題として、核兵器なき大日本帝国はもうありえないのです」

近衛の反論。
梅津の想い。

「梅津艦長、角松中佐から聞きました。
平成日本の軍人、いいえ、角松中佐の言葉では自衛官は銃を持つが抜かないことが誇りだと。80年間国内以外で一度も発砲した事がない、宣戦布告しない平和な国。
それは素晴らしい事だと思います。
しかし、この惑星で日本人が日本人として最低限の生活を保障されて生きられるのは大日本帝国本土と大日本帝国の統治下、影響下にある場所のみです。
これは「みらい」の生きた世界とは大きな違いではありませんか?」

沈黙する残りの男たち。
言葉の駆け引きだけが続いている。

「・・・・・みらいの所属する日本は・・・・・本当に平和だったのですね」

548 :ルルブ:2015/01/30(金) 19:35:13
そんな中、近衛が何かを思い出すような、遠い目で梅津に答えたのを梅津は不思議に思う。
まるでそれは長く帰れなかった人間が故郷に漸く帰った、そんな雰囲気を醸し出していた。
が、あくまでもそれは一瞬のこと。

「梅津大佐、角松中佐。
現時点で我が帝国政府が開示できる情報は全て開示しました。
その上で更に譲歩しましょう」

譲歩?
不安な顔をする三人に近衛はゆっくりと伝える。

「貴方達みらい乗組員の中で、直にこの大日本帝国を見たいという人間がいれば最大10名まではこちらで上陸と帝都見学を許可しましょう。
ただし、ここは世界の覇権国家である大日本帝国の本土。
重要拠点も多々あります。
梅津艦長が懸念する人工太陽を研究する場所もその一つに過ぎない。
故に、です。
どこに外国のスパイや売国奴がいるか分かりませんので護衛と監視は付けます。
そして、みらいはあくまで海軍が建造していた新型の次世代防空迎撃システム実験艦。
そうですね、艦種は護衛艦という通称で海軍の記録に載せておきます。
堀提督と古賀提督、それに嶋田総理の盟友である山本海軍大臣らに協力してもらいましょう」

草加が付け足す。

「政府直轄の軍官民問わない日本の総力を結集した初の実験母艦とそれに従事する特務部隊という軍歴証明書を「みらい」乗組員全員分を用意します。
それ以上のことはまた後ほどで、よろしいか?」

これ以上の厚遇は無理だろう。
梅津も角松も悟るしかない。
既にカードは配られていた。
そして、自分たちの手札とチップはそう多くなく、向こうは沢山だ。
後は見返りに何を求めらるか。

「それでは、みらいに対して必要最低限の電力供給を行う為の軽油、そして生活と艦内の士気を維持する為の日用品に食料と飲料水。
ああ、我が国の調味料などに加えて映画や小説、新聞、チェスや将棋、トランプなどゲームに・・・・上限はありますが大日本帝国の日本円も用意します」

外部との買い物も大きな相互理解と相互交流になりますから。
ただし、未来情報だけは秘匿してもらう。
それは言外に、しかし確実に伝わった。

「これらの見返りにこの軍艦に派遣する技術者、文官、武官らを今からお伝えします。
もちろん、最低限の人数です。
それと見知った顔を人物もいるでしょう」

伝える。
つまり、決定事項の伝達。
この世の力関係で、君たちの「みらい」と我らの「帝国」そのどちらが上かハッキリさせよう、そう言う草加の声は実に低く腹の中に響いている。

「草加中佐、その派遣大使らの代表は誰だ?」

角松が問う。

「角松中佐、大使という言葉が適当かどうかわからないが人選は決まっている、そうだろう?」

なんとなくだが分かっていた。
だからあくまで冗談半分の確認でしかない。
頷く角松を見て草加は重ねて言う。

「ああ、角松ニ佐の思う通り、みらいの担当責任者はこの私だ」

そう、計画は彼が立案していた。予想通り。

(やはりお前だったか。
まあ、あんだけ意味ありげに話して動いてれば見習い自衛官でも想像がつくぜ)

彼は確実に動く。彼の持っていた横の繋がりがそれを補強し、彼を任命している縦の繋がりが補完する。
まず間違いなく、夢幻会全体のバックアップがある現実。
それが草加拓海の能力と権限強めていた。

「では、いよいよ詳細に入りましょうか」

横須賀基地の陸海軍駐屯地には今日も平常通りの命令が下される。
基地の警備、新しい建物の建設、軍用列車と軍属に移動、遣印艦隊の帰還とその整備作業。
人々の日常。時間通りに起きて、時間通りに仕事場へと向かう彼ら彼女ら。
それは全てを覆い隠すための、欺瞞。

549 :ルルブ:2015/01/30(金) 19:37:13
1945年9月18日 夕刻 神戸市

神戸市には巨大銭湯がある。
名前を「テルマエ・ロマエ」。
古代ローマ時代の風呂をモチーフにした新しい総合銭湯だった。
多くの人間、特に外国人が利用する。
神戸港に入港した客船、貨物船、国内外の軍艦の乗組員や客が一番に行くのはここだという。
体育館、ジム、夏限定の屋外プール、22種類の巨大浴場、檜風呂、海に面した露天風呂、温泉、日本食からイタリアン、フレンチ、今ではカルフォルニア風という旧アメリカ料理など多種多様な専門食堂、理髪店、買い物店、占い、シガーバー、カクテルバー、ビリヤード施設など多彩なアミューズメント施設がここにある。
そこに訪れるのは国際色豊かな人々。
何よりこれで一日料金が50銭と安い。
兵庫県と神戸市が補助金を出しているからだ。
また、イタリア政府も非公式な支援をしている。日伊友好の架け橋という名目で。
特にイラン演習による大敗。
それはドイツの誇る空軍力と国家元帥の影響力低下=ドイツの国内政治権力闘争勃発となり、結果として日独融和に繋がりつつある。
現実面から見て、あのアドルフ・ヒトラーが手をあげたと言えよう。
だからイタリアの統領も大手を振って、とはまだ無理でも、こっそりと支援することで日伊外交に役立てる事ができた。
結果的に親イタリア神戸市民が増えてきているのだが、それはそれ。
ドイツが欧州全域の影響力を低下させた事はこんな些細なことにも影響を与えている。
その女風呂。
特別料金を支払って入浴できるエリアの更に奥にある個室の露天風呂。

(部屋の名前は・・・・・薔薇水晶、ここね)

一人の女性が先に入浴していた。
そこに別の女性が入る。

「いいお風呂です、流石はあのローマ帝国。
そう思いません?」

「ええ」

二人だけ。
周りは誰もおらず、目の前は海。しかも周囲は壁で遮られている。
屋根もある。
加え、海からの風が湯気を払うがお互いの顔は良く見えない。
これだけ水分があるとカメラも使えない。
もちろん、メモもないだろう。

「ところで真紅の金糸雀はご覧になりました?」

「水銀燈に照らさている蒼星石と翠星石のオブジェがある作品ですか?」

「ええ、そうです」

「雛苺さんの作品ですね、見ましたよ」

しばらく無言。
暑いなと思うが我慢だ。私のために。
女は風呂から上がる。
そして持っていロッカーの鍵を手首から外す。

「それでは先に失礼します。
飼育している兎に餌をやりませんと、ね」

「そう、ラプラスは元気ですか。良かった」

合言葉。
立ち止まり、また浴槽に戻る女。
無言がしばらく続く。

550 :ルルブ:2015/01/30(金) 19:37:45
「貴女の要望は聞いておいたわ。
あなたがしっかりと彼を監視するならばあなたの希望通りに事を運びます、よろしいかしら?」

女は前を向きながら語り続ける。

「よろしくお願いします、自分の望みを果たすためならば何でもすると言う言葉に嘘はないと我々は考えているのですよ?」

顔が見えない。
だが、問うた女は問われた女が確かに頷いたのを確認した。
水面にうつる影を見て。

「はい」

か細いがはっきりとした返答に満足する。
そこには覚悟がある。
この世界を変える覚悟と自らの運命を自ら切り開くという覚悟が。

「私のように、あるのね」

「え?」

「何でもない・・・・・それで」

いよいよだ、と言葉を区切った。
密会は続く。

「毎日とは言わない。ただ、不定期でいいから、この時間にこの個室に来なさい。
私がいるかどうかを問わず、渡す鍵のロッカーを開けなさい。
そして怪しまれない程度の時間、この施設に滞在すること。
そこに指令書を置いておきます。そしてそこに報告書を書いて放置しなさい」

怪しまれないか?
という視線に気がついたのか、どうか。

「ここは会員制の部屋なの。私の従姉妹という事になるから怪しまれないわ。
貴女のコードネームを先に伝えます」

その名は『ラプラス』、忘れないように。
ついでに。

「この個室の会員は複数いますが、一つのサークルが貸し切っていることになります」

「サークル?」

「お遊び仲間。単に女友達で夜の生活や自分の男の愚痴を言い合うおしゃべりをするだけの存在よ。
それを認識した?」

お湯を叩くことで同意を示す。
水が飛んだ。

「では私の事はアルトリア・ペンドラゴン。この場所で会ったときはアルトリアと呼ぶように」

「分かりました、アルトリアお姉さま」

追加する言葉。
禁じられた言葉。

「そしてあなたは今からアンネローゼ・フォン・グリューネワルト。
私はアンネローゼと呼びましょう。それから・・・・・・・」

確認した女は相手に鍵を渡した。

「それ以外の場所では私はあなたを知らない、あなたも私を知らない。たとえどんな状況でも。
よろしいかな? よければ私の右肩を叩きなさい。断るならば左肩を叩きなさい」

女は黙って背中の右肩を叩いた。
己の欲望のために。
己の世界を変えるために。
交換は成立。
アルトリアという女は黙って鍵を外し、アンネローゼという女に渡した。

「何か質問は?」

「よろしいでしょうか、アルトリアお姉さま」

「どうぞ、アンネローゼ」

人生最後の言葉になるかもしれないと覚悟する。
そして聞く。

「サークル名はなんと?」

ああ、言ってなかったなぁと思う相手、アルトリア。
聞いておこうと思うアンネローゼ。
ついでに釘も刺さなければ。

「サークル名はローゼンメイデン。
それで鍵はもらえます。
そしてここに入室する前は必ずノックしなさい。
誰かいて入る場合の合言葉はイゼルローン、よ
それでも開かないときは黙って立ち去る事。ほかに質問は?」

首を横に振ることで否定。
女はそれを見たのか、これ以上何も言わずに湯船から上がる。
漸く彼女が白人らしいというのだけ分かった。
白のブラウスを着て、青いロングスカートを身にまとった金髪の女性は優雅に着替えを終える。
一人で髪を結びこの場を、浴室を、ホテルのようなプライベートルームを立ち去っていく。
一方で。
残った黒い髪の女は暫くの間じっと空を見つめ、半刻したくらいで隣の水風呂に入り、そのまま交換した鍵を持って浴場を去る。
入館した時とは異なる衣服に着替えた後で、会員証が入った小さなブランドバックを片手に。

551 :ルルブ:2015/01/30(金) 19:39:05
同日・同じ場所で

そこには本多家の人間がいた。
宴会もたけなわ。

「なあ、芳男」

父が何か言ってくる。
俺は日本酒を飲む。

「お前、警察を受験しないか?」

「警察?」

父親は穏やかだった。
戦争も終わり漸く暇が出来た、息子の進路を考えてやれると心から喜んでいるようだった。
そう、父はあの有名な村中少将という中央情報局大陸情報部部長と同期。
ついでに憲兵隊大佐であり、東条大将指揮下で先の戦争を戦い抜いたエリート情報参謀。
だから警察にもコネがある。

「お前が軍を嫌っていたのは読み違えた、わしがお前に間違った道を強要していた、わしの過ちだった。それは認めよう。
だが、本多の家は明治の御維新から御国の為に戦ってきた大和魂を持つ家だ。
その本家嫡男がぶらぶらと社会主義思想に傾倒するのはいかん」

父の目は鋭く、しかしどこか優しい。

「別に傾倒してません。ただ理解できるなと思うだけです」

俺はお代わりを母に頼んだ。
母は興味津々、いいや、はらはらした状態で俺たちを見ていたが父親の言う大和撫子らしく黙って下がる。
魚をつまむ。

「それがいかんのだ。あれは害毒だ。それも病原菌の如く宿主で繁殖する。
陛下の為にもお国のためにもならんのだぞ?
お前は帝国の現状を理解しておるのだろうな?
ナチス・ドイツや裏切り者のイギリス、北のソビエト連邦の脅威は分かるだろう?
外敵しかおらぬ現実で国賊らの危険思想は力づくでも弾圧せぬばならん。それが分からんか?」

「はい、わかろうとしております、父さん。
で、それが僕の警察入隊と何が関係するんですか?」

そう、一体何が?

「お前が警察に入ればきっとお前のためになる。酔っ払いの見ているような幻想から目を醒ませる契機となるだろう。
わしが推薦状を書く。この間有馬のカーディナルホテルでお前に紹介した碇玄道という男はわしと些か縁があってな。
やつは信用はできんが信頼できる。
そして、やつの知り合いは公安委員会の有力者、冬月幸三だ。
あの二人とわし、それに軍学校同期の村中の推薦状があれば落ちる事はまずない」

だから何です?
一体何が言いたいのですか?

「芳男、わしはお前が心配だ。大学に入ってからますます心配になった。
嫁ももらわず、専攻する学問も御国の為とは思えぬ急進的共産主義や過激な社会主義分野ばかり。
ミイラとりがミイラになるかもしれぬ、そう思っている。だから警察に入れ。
軍が嫌でも警察なら妥協できるだろう?
兵庫県警で構わん。特高に選ばれろとも言わん。お前を守るにはそれしかもう手がないのだ・・・・このとおりだ」

母が戻ってくる。
受け取る酒。
父が俺のに熱燗を注ぐ。
俺の心は何もない。
そこにアドルフ・カミルがきた。

「お世話になっております、本多大佐」

「おお、カミル君か。君も亡命ユダヤ人協会で亡命ユダヤ人評議会の秘書官と実家のパン屋を掛け持ちしておるな。
うん、君のパンは美味い。また食べに行くよ」

「お願いします」



みらいが日本に入港して数日。
日本人たちが戦勝祝いと災害に四苦八苦している中、闇の中で小さな胎動が確かに動いていた。

第十一話 完

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最終更新:2023年03月02日 23:02