364 :ham ◆sneo5SWWRw:2015/03/05(木) 12:15:02
ちょっと大陸日本で考えてみたネタ

阿波沖海戦

旧暦慶応4年1月3日(西暦1868年1月27日)

攘夷討幕派浪人を匿っていた江戸薩摩藩邸への焼討事件を機に幕府内で討薩の声が強まり、時の将軍慶喜はこれを決断。
在京の薩長軍を討つために、「慶喜公上京の御先供」の名目で幕府軍、会津・桑名両藩及び新撰組をそれぞれ鳥羽・伏見の二つの街道から北上させた。
薩長軍はこれを阻止するために、途上の関門に兵を派遣し封鎖、幕府軍を待ち受けた。
鳥羽街道にあった幕府軍の大目付滝川具挙が問答の末、薩摩軍砲兵からの返答の砲弾を受け、ついに戊辰戦争が勃発した。
滝川具挙は乗っていた蝦夷象が付近で着弾した榴弾の爆発に驚き、見方を蹴散らしながら隊列を逆走するという突発事態もあり、
狭い街道に行軍のため縦列を組んでいた幕府軍はさながらT字戦法を受けるがのごとく、一方的に攻撃され、兵力の優位を生かせずに大敗した。

開戦当時、大阪天保山沖には、先述の江戸薩摩藩邸焼討事件により薩摩藩士を乗せて江戸を脱出し、兵庫港に逃れていた「翔凰丸」を追ってきた開陽丸を旗艦とする幕府主力艦隊が兵庫港封鎖活動を行っていた。
開陽丸は、オランダで建造された当時の日本最強の新鋭蒸気フリゲート艦で、オランダ海軍軍人から「オランダ海軍にも開陽丸に勝る軍艦は無い」と言わしめるほどであった。
この当時、兵庫港の薩摩海軍の艦は、先の「翔鳳丸」の他に戦闘艦「春日丸」と輸送艦「平運丸」が停泊していた。

1月4日未明、薩摩海軍は兵庫から薩摩への脱出を開始。
「平運丸」は単艦瀬戸内海経由で、「春日丸」は足の遅い「翔鳳丸」を曳航しながら紀淡海峡を抜け、太平洋廻りでの脱出を図った。
「開陽丸」の艦長にして軍艦奉行として艦隊を指揮する榎本武揚は、艦隊行動の余裕がないため、単艦で「春日丸」「翔鳳丸」の追撃を決断。
全速力で追いかけた。
両艦隊は阿波沖で遭遇し、午後2時頃、「開陽丸」は警告射撃を開始した。
これを攻撃と受け取った「春日丸」に座乗する船将赤塚源六は「翔鳳丸」の曳航索を切断、増速して転舵、「翔鳳丸」脱出までの殿として「開陽丸」と対峙した。

ここで、各艦の性能について語ろう。
「開陽丸」は全長72.8m、排水量2,590t。
武装には、クルップ製前装式施条カノン砲18門、前装式滑腔砲8門を両舷に装備し、砲火力は当時の日本では強力であった。
最大速力は12ktである。

一方、「春日丸」は全長74m、排水量1,050t。
武装には、改良型後装式アームストロング施条砲を舷側砲として船体中央の砲列甲板に両舷8門、艦首2門の計10門を備え、最大速力は16ktであった。
史実では後装式アームストロング施条砲を両舷に6門装備していたが、転生者達の暗躍で強化されていた。

搭載しているこの改良型後装式アームストロング施条砲は、転生者によってアームストロング砲の問題点であった閉鎖機構にド・バンジュ式緊塞方式を導入して改良し、より良好な閉鎖を可能としていた。
この完成度が高い新型砲は転生者達によってネオアームストロングサイクロンジェットアームストロング砲と名付けられた。
ただし、余りにも長過ぎる名前のため、普通は改良アームストロング砲またはネオアームストロング砲と呼ばれている。
また、転生者たちによって無煙火薬B火薬(コルダイトは史実で特許問題を起こしていることから将来の英国との外交関係に影響を与えるとして断念)が開発され、春日丸の発射薬として搭載されていた。
さらに、マストの見張り台には双眼鏡と簡単な測距儀を備えて砲撃指揮所とし、伝声管で各砲座に連絡できるようにしていた。

365 :ham ◆sneo5SWWRw:2015/03/05(木) 12:15:34
さて、戦闘に戻ろう。
戦局はというと、なんと火力で勝る「開陽丸」が苦戦していた。
「春日丸」は4ktの速度差を活かし、時には太陽を背に、時には頭を抑えるなどして、優位な位置から砲撃を行った。
加えて、砲撃指揮所からの統制された射撃による高い命中率、後装式と無煙火薬の組み合わせによる素早い速射が追い打ちをかけていた。
しかし、日本最強の名は伊達ではなく、「開陽丸」もその火力で「春日丸」に命中弾を出していた。
日も暮れてきた頃、ここで「春日丸」の放った砲弾が、「開陽丸」の3本マストの中央マストに命中。
マストは折れて前に落下、そこにあった煙突や戦闘指揮所に襲い掛かった。
これにより、榎本武揚は負傷して意識不明(幸い命に別状もなく戦闘後まもなく回復した)に陥り、副長の澤太郎左衛門が指揮を引き継いだ。
だが、このマストの落下で煙突も変形及びマストが覆い被さるなどの排煙障害で速力が半分近くにまで低下。
足の遅い「翔鳳丸」すら追撃するのは難しい上、「春日丸」からの砲撃でさらに被害が増えることも予想された為、澤は撤退を決意した。
一方で、「春日丸」もこれまでの速射により弾薬を大量に消費してしまっていた。
赤塚は目的は本艦と「翔鳳丸」の脱出であり、敵艦の撃沈ではないとして追撃をせず、「翔鳳丸」を護衛しながら薩摩へと無事脱出を果たした。


被害
  • 幕府海軍
「開陽丸」:中破
  • 薩摩海軍
「春日丸」:小破
「翔鳳丸」:被害無


この戦闘で新政府軍は次の戦訓を得た。
1.強力な艦でも速力を活かし常に優位な位置から攻撃されれば、その威力を発揮出来ない。
2.観測機器を用いて指揮所により各砲の射撃を統制・一元化し、射撃修正も指揮所からの指示のみとした射撃は命中率・威力共に効果的である。
3.速射によって、多数の砲弾を相手艦に集中的に叩き込めば、強力な艦でも撃沈できずとも無力化できる。


これらの戦訓は近代海軍としてまだ日の浅い後の日本海軍にとって貴重な戦訓となった。
のちに、新政府軍が当時登場したばかりの装甲艦「東」を獲得し、旧幕府海軍がこれを奪取しようとした宮古湾海戦では、
撤退する幕府海軍を追撃した「東」が、装甲を施している故に鈍足であるために取り逃したこともあり、近代戦における艦艇の速力の重要性を強く認識するようになる。
また、この当時「春日丸」には、日清・日露戦争時の連合艦隊司令長官、伊東祐亨、東郷平八郎の両名が乗り込んでいた事もあり、
後に両名が望む黄海海戦や日本海海戦の勝因にも、この戦訓が生かされ、清国及びロシアの強力な戦艦を速力を活かして常に優位な位置から攻撃して仕留めている。

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最終更新:2015年06月14日 12:44