75 :ひゅうが:2015/03/13(金) 23:58:12
――西暦1947(昭和22)年3月 日本 アメリカ海軍横須賀海軍工廠


「お帰り。武蔵。」

牧野茂は、穏やかな表情で目の前のドックに横たわった満身創痍のフネを見上げた。
戦艦「武蔵」。大和型戦艦の2番艦。
水が抜かれたドックの上からだからこそ、片舷に5本以上の魚雷を受けた跡、そして、大量の主砲弾や爆弾を受けて半壊した甲板上の構造物はよく見える。

2年半前、この艦がレイテ沖海戦においてたたき出した戦果と引き替えにした、それがこの再起不能ともいわれる傷痕だった。
米軍の魚雷は43年頃から新型炸薬に換装されているから、実質的には航空攻撃で30発以上の魚雷を受けたことにもなる。
さすがは、「改大和型」とも仮称されるような大規模改設計を受けた艦である。
ああ、リベット打ちでなく安定した電気溶接で船体を作ったのもよかったのかもしれない。

だが――そうした造船技術の粋をもってしても、この艦を再生することはかなわない。
あまりに大きな打撃を受けた船体、そして、レイテ沖海戦という政治的にも大きな失点を作り出した存在に対するアメリカの世論。
いずれもが彼女の存在を消し去ろうとしていた。

「レイテ沖において沈めるべきだ」

そうした声がささやかれた。9万にも達する遺族にとっては、武蔵は忌むべき敵の象徴なのだ。
日本において海軍を優先しての再軍備が準備されつつあるという微妙な時期にあって、それを阻むことができる者は皆無であった。
だが、意外なところから救いの手はさしのべられる。
モンタナ級戦艦というこれまた怪物を作ろうとしていたアメリカ造船界だ。
資料こそたっぷりあったものの、宜野湾への座礁後に執拗な爆撃を受けた大和に対して、砲雷撃戦の果てに生き残ったままであった武蔵は、戦闘後の大和型戦艦を知るには最良の資料となると彼らは主張したのだ。

むろん、当事者以外であるがゆえに、あるいは生き残った者であるゆえにできる感傷もこれを後押ししている。

「解体するならば、祖国を一度見せてやりたい。」

この点、死闘といえる戦いを経た米国は寛容になっていた。
勝者ゆえの強がりともいえたが、ともあれフィリピンの名もなき島から離礁された武蔵は、こうして日本本土へと戻ってきた。
厚かましく勝者の配当を要求する他の連合国が彼女を好きにする前に。

「お帰り。武蔵。」


――横須賀海軍工廠の返還後、三笠記念公園に新たなシンボルとして「菊花紋章付き艦首」と「46センチ主砲塔」が加わるのは、この5年後のことになる。

76 :ひゅうが:2015/03/13(金) 23:59:53
武蔵帰還記念にIFをひとつでっち上げてみました。ご笑納下さい。

83 :ひゅうが:2015/03/14(土) 00:08:43
ちなみに拙作との変更点は、

  • 改大和型相当に防御構造を改正(三重底化、水密防御区画に液槽防御構造を追加、注排水ポンプ機能増大)
  • 対空火器を増設
  • 射撃盤を換装(3式相当へ)
  • 主砲を小改正(大重量徹甲弾 3式徹甲弾の採用により打撃力向上)

これらの対策を実施し、竣工時期が数ヶ月ズレ込むことに。
要するに、転生者が好き放題した結果です。
結果としてさらなる不死身っぷりを発揮し、さらには砲戦が混乱する夜戦となった結果として「武蔵」行方不明という事態が生じたとういうネタです。
それでも、解体は避けられないあたり…

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最終更新:2016年08月09日 11:16