190 :ひゅうが:2014/04/13(日) 12:34:40
鬱ネタを書いた後なので、お口直しを書いてみました。


日英独大連合(三帝同盟)ルート 単発ネタ――「ありふれた話」


――「私と日本とのかかわりの最初ですか? よくご存知ですね。
ええ。実は知られているよりも結構古いのですよ。
知ってのとおり、うち、つまりホルダーネス家はピーク地方(英国中北部)のいわゆる名家です。
出自については…まぁワトスン博士の書かれた伝記をご参照くださいといっておきましょうか。
はい。あの事件の主人公格は私です。まさにね。
ここから想像できるでしょう。
今もベーカー街に住んでおられる――いっときは養蜂に凝っていたらしいですが――あの方がそもそもの発端ですよ。
父である先代のホルダーネス公爵は大蔵大臣を2度つとめたあとでソールズベリー内閣の幕引きに関わっていました。
関税関係で少々揉めた上にソールズベリー候は高齢でしたからね。父はまだ首相をつとめるのは早いと判断したらしく、バルフォア内閣の成立に動いたのです。
その関係で、特使として日露戦争中の日本へ行くことになったわけです。
首相からの特命というやつですね。
あまり知られていませんが、バルフォア内閣の成立は1904年4月なのです。
入閣しなかったとはいえ、前第一蔵相である上首相の筆頭候補ですからね。当時の英国政府が日露戦争をいかに見ていたかがよく分かると思います。

はい。
スエズからインドをまわって、そのまま横須賀です。
交戦国への軍事援助は禁じられていましたが、建造が完了したばかりの戦艦ロード・ネルソンと共に堂々の訪問です。
まぁ日本が大量に発注した戦艦群や補助艦艇群のおかげで早期配備ができたのでその礼も兼ねてといったところですね。
それに独仏への牽制の意味もありました。
当時私は12歳でしたから、周囲に集まっている大量の軍艦に目を輝かせていた覚えがありますね。
その頃は旅順攻防戦が終わって連合艦隊がちょうど日本本土へと戻ってきている頃でしたので、あの東郷長官の艦隊を丸ごと目の前で見る幸運に預かったわけですね。
これがそのときの写真です。
あっと、きちんと許可はとっていますからご心配なく(笑)

得難い経験でした。
そこから鉄道で帝都東京へ。
多摩川を超えるとすぐに目に飛び込んでくる城郭の天守閣とその下にある砲台の類には驚きました。
当時は戦時下でしたからね。砲も俯角をつけて海上を睨んでいたのです。
さすがは東洋の帝国の首都だと父が言っていたことを覚えています。どうやら少し神経過敏過ぎるという苦笑交じりであったのですけどね。
ああ、皇居で謁見を受けた時のことですか?
私は震えて父の後ろに控えていました。
凄味のある方でしたね。陛下は私にも気をつかって下さり二言三言言葉を交わすことができたのですが、はじめての印象が強すぎてあまり覚えていないのですよ(苦笑)。
もったいないことをしましたが、それから3度ほどお目にかかる機会がありましたのでその点では幸運だったのでしょうね。

191 :ひゅうが:2014/04/13(日) 12:35:12
その後は私を現地の屋敷――今の英国会館になっているところです――に置いて父は会議会議の連続です。
日英同盟の行く末について突っ込んだ議論が行われていたようですが、当時の私はそんなことを知らずにお付きの者と一緒に東京見物に精を出していました。
本当は屋敷に閉じ込められる予定だったらしいですが、それではあんまりだと母が――おやご存知なかったですか?いやいや、あの事件からまだ2年もたっていない頃ですからね。
やっと訪れた新婚期間のようで、私なぞは母が父にとられたと思ってインド洋でふてくされていました。
あれは実のところ、バルフォア首相が新婚旅行の替りにと気を利かせてくれたものだったらしいですね。
まぁ、そうなると父が会議から帰ってくると母とは仲良くお出かけ。3日にいっぺんは昼間に出かけるといったありさまで私は少し放っておかれ気味だったのです。
それは少々退屈するだろうと、日本側から派遣された使用人のイナさんが気を利かせてくれて、護衛や警備つきとはいえ私の外出を許してくれたのですね。

そうなると悪戯をしたくなるのが、旅先で少し疎外感を感じ始めていた悪がきのやることです。
ええ、抜け出そうとしました。
それもよりにもよって赤坂で買い物中に。
今にしてみれば無謀なことをしたと思っていますよ。
東京は広いですからね。ですが、まぁ子供のすることと思ってしばらく聞いていて下さい。
お付きの目を離した隙に、私は屋敷から持ち出した東京の地図を片手に駆け出しました。
ですが、英語が書かれているとはいってもたとえば「山王」だの「見附」だのといった地名だけで全部を分かろうとするのは無理でしょう?
今なら鉄道の駅は「ステーション」、道々にあった駅は「パーキングエリア」や「ストップ」とか書いていますが当時はみんな「エキ」ですからね。
はい。当然迷いました。
いや、あとで知りましたが護衛のイネさんたちは気付かれないようにきちんとついてきていたのですが、あのときはもう見知らぬ砂漠の中で自分ひとりといった気分で絶望的にもなりました。
警察官に声をかけられそうになって走って逃げたり、感じの悪いところへ入り込みそうになってUターンしたりで3時間も歩き回ったあと、丘の上にある神社に私は迷い込みました。
もう絶望しましたよ。
その時点では知らなかったとはいえ、原生林の中まで入りこんだのですから。
意図的に森が残されていたとは露知らず…
そうしているうちに、社殿の前で私は泣き出していたのです。
意地っ張りな私としては珍しいことに。
そうしていると、いつの間にか横に同年代の女の子がいたのです。
ぱっと見て、きれいな女の子だなと思ったあたり、少々ませてたのですかね。
巫女装束というものをはじめて見てすぐに泣き止むあたり私も現金なものですが(笑)。
当時の私は日本語なんて話せませんから、身振り手振りに地図を見せて「迷った」ことを知らせました。
彼女は分かった様子で、ぽんぽんと私の背中をたたきました。
しばらく泣いたあと、彼女はどこからか周囲の友達らしい子たちを集めていろいろと遊んでくれました。
「とおりゃんせ」や「かくれんぼ」なんかであの子を見つけられたときは本当にうれしかったです。
実は一目ぼれだったのかもしれませんが。
そうしているうちに日が暮れていくと、石段を急いで駆けあがってくるお付きの人が現れて私は屋敷へ帰ることになりました。
確か事情を訊くためだったと思いますが、女の子も一緒に連れてこられたのには驚きましたが、私はその理由を問いただすことができませんでした。

192 :ひゅうが:2014/04/13(日) 12:35:45
案の定、屋敷へ帰ると両親に怒られました。
たぶん女の子の前で面罵することで反省を促そうとしたのでしょうが――
まぁ効果は高かったですね。
仕付け用の鞭が取り出されたところで私はすくみあがってしまいました。
その時です。女の子が私の前に進み出て、大声で両親に抗議しはじめたんです。
しかも訛りのないきれいな英語(クイーンズイングリッシュ)で。
『忙しいことはわかるが、子供が逃げ出すまで構ってやらぬのは何事か』
『せめて夜ぐらいは家族そろってはどうか』
しまいには涙目で。

あとで知ったのですが、彼女も同じような思いを味わっていたことがあるそうでとても他人事ではなかったのですね。
斗南宮家はワーカーホリックなきらいがあるのはまぁ血でしょうか。
最初は厳しい目をしていた両親も、全身で抗議を表現する彼女に次第にトーンダウンしていき、しまいには顔を俯かせていました。
最後は、厳しい父が私と母を抱きしめて、それで終わりです。

ええ。終わりです。
彼女は昔から怒らせるとかなり怖いんですよ。
って・・・いたいいいたい!耳を引っ張らないでくれ!

ははは。つまり、こういうことですよ。
初恋は実らないというが、『僕』の場合は違ったわけだね。
え?私が惚れたのだから当然でしょうだって?

ふふふ。そうか。」


194X年――ソルタイヤ・ホルダーネス公爵へのインタビューより書き起こし。

※ なお、彼は愛妻家で知られ、必ずしも東洋人との婚姻には寛容でないという英国上流階級においてもその評判は良い意味で語られていることを追記する。

193 :ひゅうが:2014/04/13(日) 12:38:02
【あとがき】――登場人物のお名前は、某プライオリスクールよりお借りいたしました。
たまには平和で幸せな(ただしありふれた)話もいいのではと思って駄文を投下しています。

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最終更新:2016年08月11日 16:50