390 :ひゅうが@恢復中:2014/07/05(土) 00:14:23
戦後夢幻会ネタ――設定の補足


――警察予備隊。
日本国防軍の母体としてよく知られているこの組織がいつから存在していたのかについて知るものはあまり多くはない。
実のところ、1945年10月にこの組織は設立されているのである。
とはいっても、戦後すぐに再軍備がなされたということではない。
多分に政治的な要素から、初代日本軍政長官となったマッカーサー元帥がドイツにおける軍政長官兼「欧州における連合軍総司令官」として転出したあと、8月15日に日本へ着任した「極東における連合軍総司令官」ジョージ・パットン元帥はよく知られるように熱烈な反共主義者だった。
だからこそ、ソ連に対する政治的メッセージとして下手をすれば樺太やシベリアへ逆上陸をかけかねない彼が日本に配された(逆にいえば欧州においておけばドイツで第三次世界大戦をはじめかねないともいうが)のだが、そんな彼は早々に治安維持の必要性を痛感することになる。

1945年6月から10月にかけて頻発していた、在留外国人による騒擾がその理由である。
当時の日本占領軍は、海軍については将来的に「アメリカ海軍の忠実な友として」再建を予定して艦艇のモスボール措置をとっていたが陸軍については徹底した解体を予定していた。
ワシントン宣言において旧軍部の一部指導者層の誤りを指摘しているために当然ともいえる措置だったが、問題はそうした「陸の武装解除」の一環として警察から銃火器はもとより連合国民に対する逮捕権まで取り上げていたことだった。
それに便乗した中華民国民や、立ち位置が宙に浮いていた朝鮮半島出身者が徒党を組んで日本本土におけるいわば「自治区」設立の運動を起こしていたのである。
たちが悪いことに、彼らの運動には北の寒い国の有形無形の手が伸びていた。
というのも、敗戦後の火事場泥棒的行動から当時の日本は反共というより反ソ一色に染まっており釈放された政治犯(多くが共産主義者)を通じた日本赤化など夢物語といった世相であったためである。

「あのアカどもを排除しろ!」

激怒したパットンの命のもと、武器使用基準は大幅に緩和。
水を得た魚のように日本側の警察力は取締りを強化していく。
だが当時の低下した海上警備能力はソ連からの大規模な武器密輸を可能としており、さらには横流しされた旧日本軍の武装解除後の銃火器を彼らは手にしていた。
一時は非常事態宣言が出されるほどの大規模騒擾事件が頻発するにおよび、武装解除方針を主導していたGHQの官僚たちもタガを緩めざるを得なくなった。
大戦終結後の軍縮路線の中で、いつまでも日本の治安維持のために兵力を張り付けておくわけにはいかないのだ。
こうして、設立されたばかりの国家地方警察本部のもとで国家憲兵的な役割を担う警察予備隊はその産声を上げることになったのである。


とはいえ警察予備隊はあくまでも警察的な役割が期待されていたこともあり、戦犯指定を受けていない旧軍佐官クラスはともかくとしてその上層部は内務官僚や警察官僚が占めていた。
そんな組織が変質を余儀なくされるのは、1947年12月に朝鮮半島北部が「人民政府」の設立を宣言し南北分断が決定的となったためである。
さらには大陸ではソ連軍占領下の満州に中国共産党軍主力が入り「中華ソビエト自治委員会」が設立。
国共内戦は国民党側の守勢へと転換しはじめた。
この事態に、最大の再軍備反対勢力であったアメリカ国務省と中華民国も「州軍レベルでの再軍備」に同意を示し、既存の組織を拡大する形で日本の再軍備は開始される。
海においては、保管艦状態であった旧海軍艦艇の復帰と海上警備隊への編入がなされたものの、陸においては「警備管区」方式をとり全国規模でまとまった組織規模がある警察予備隊がその担い手となったのである。
それまでが装甲車レベルであった装備も改めて進駐軍からM4中戦車やM24軽戦車が供与され、東京都赤羽倉庫において接収状態にあった旧陸軍の97式中戦車のうち27両が返還されるなど強化が進行。
1949年には6個管区隊を数えるに至っていた。

こうした状況で警察予備隊は朝鮮戦争を迎えることになるのである――

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最終更新:2016年08月13日 20:36