196 :ひゅうが:2016/02/03(水) 13:42:14
ふと思いついた小文


【吉田ドクトリン】


五次にわたる吉田内閣とその影響下にあった自由党政権下で策定された戦後日本の国家方針。
わけても、その安全保障政策を称する。
その基本は、「中防備中福祉方針」である。
戦後日本の経済状態は決してよいものとはいえず、財産税導入と共に「制御されたインフレーション」をもって戦時国債を順次償還する綱渡り的な経済政策で成り立っていた。
その中にあって最良と考えられたのが「軽防備重福祉方針」であり、占領軍である米軍に国防をほぼ丸投げし、国内治安の維持と最低限の海上交通路維持に国防を限定する方針である。
しかしながら、当時の日本は条件付き降伏を勝ち取り国内政治においてほぼフリーハンドを得たにも関わらず、国防については自らが壊滅状態に追い込んだ米海軍の代替をつとめることを宿命づけられていた。
そのため、戦後日本の国力からすれば不相応とも思われるかつての帝国海軍艦艇の稼働状態を当面は維持し、その限定的な再整備と保持、そして極東における米国戦力の一角を担うことと引き替えにして
大規模な経済援助と軍事援助を受けるというのが吉田首相の出した「次善の決断」であった。

結果としてこれは慧眼であったといえよう。
NPT体制の成立前に、国防海軍が空母機動部隊に米国報復核攻撃能力の一角としての核攻撃能力を与えたことは、その後の西独軍などとは違って自由度の高い日本の「八割核武装」を実現し、これにより極東第一列島線は確立されたのであるから。
それが、核搭載原潜や大規模戦略爆撃隊、そして弾道ミサイルを保有できないという日本の国内事情からきているとはいえ。
国家としての安保体制を半分放棄することによって手に入れた経済援助は、破綻寸前にあった日本経済の急速な再編成を生んだ。
同時に軍事力による裏付けと、旭川・函館の消滅に伴う集団ヒステリーにも似た日本国民の反応は治安の安定を生み、ここに戦後の高度経済成長への道が開かれたのである。

もっとも、1990年代に日本経済が安定成長期に入ると周辺諸国の軍拡や、相次ぐ地域危機からこの方針にも疑問符が投げかけられることも多い。
第四次ベビーブームをもってしても先進国の宿命である高齢化の進行は止めようがなく、これに対する対処を優先すべきであるとする意見。
はたまた逆に、潜水艦発射型弾道ミサイルを用いた第三段階報復核攻撃能力の整備を行うべきであるとする意見がこれらに代表される。
しかしながら2019年現在でも国防方針はこれを否定し、現行の体制をとるものとしている。

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最終更新:2016年08月21日 09:36