50 :トゥ!ヘァ!:2015/04/05(日) 18:31:13
第一次インドシナ半島紛争


2070年6月4日。
東南アジアと大漢中の国境線付近。
大漢中軍領内に向けて謎の小型ミサイルが飛来。
大漢中は解析の結果これをOCU製ミサイルと断定。大漢中OCUによる攻撃と非難。

OCU側は事実無根だと武力行使を否定。

大漢中側は聞く耳持たず武力行使に当たるとしてOCUに6日に宣戦布告。
国境線上に展開していた大漢中軍はOCUミャンマー、OCUラオス、OCUベトナムとの国境線を超えて侵攻を開始した。



OCU側はこの大漢中軍による一方的な戦争行為を非難。
同日にOCU全土に非常事態宣言を発令。同日中に宣戦布告を仕返す。

ここに大漢中とOCUによる初の本格的な戦争が勃発した。

OCU防衛軍はすぐさま行動を開始し、準備を整えた空挺部隊が一足先に戦地へ向かった。

大漢中軍は主力をベトナム国境方面へ集中させ防衛戦を突破。
OCUベトナム軍も抵抗するが2,3日のうちに支えきれなくなりを突破され国内深くへの侵入を許す。

7日にはトンキン湾にて制海権を握るべく大漢中海軍とOCUベトナム海軍が激突し、数の差で大漢中海軍が勝利。
そのまま制海権を手に入れた大漢中軍は同日中に部隊をハイフォンへ上陸。
OCU空挺部隊などが援軍に駆けつけたが焼け石に水状態であり、大漢中軍の電撃作戦により大漢中有利に進んだ。

ミャンマー戦線やラオス戦線でも不利が続き戦況は芳しくはなく、
10日にはベトナムの首都ハノイが大漢中空挺部隊の奇襲攻撃により陥落するなどOCUにとって悲報ばかりが届いた。

しかし各地のベトナム軍はジャングルなどに潜伏。
要塞化された地下陣地などに籠り粘り強く抵抗を続けていた。

51 :トゥ!ヘァ!:2015/04/05(日) 18:32:08
そして開戦より一週間たった13日頃には遅ればせながらも各地へOCU防衛軍の援軍が到来。
各戦線で大漢中軍を押し返し始めた。

15日南シナ海でOCU海軍と大漢中海軍の海戦が勃発。
OCU海軍これを撃破。

南シナ海とトンキン湾での制海権を取り戻す。


開戦より一月起つ頃には各国国軍による援軍も到着し、ベトナム、ミャンマー、ラオスの各地からほぼ大漢中軍を叩きだすことに成功した。


7月7日には日本、オーストラリア、インドネシアの艦隊の艦隊を加えたOCU連合海軍により大漢中領土海南島へ上陸。

海南島の大漢中軍は陸海空の差なく激しく抵抗したが同日に南シナ海方面から4か所に上陸は成功。

8日には一日遅れでトンキン湾方面からベトナム海軍とOCU防衛海軍を中核とした上陸部隊が上陸。

2週間掛からず瞬く間に海南島全土を制圧した。

同じころ戦力が増強されたミャンマー・ラオス方面からOCU陸軍を中心とした部隊が大漢中領内雲南省へと逆侵攻。

遅れること2日の7月10日にはベトナム方面から広西省へと侵攻を開始。

ここに来て大漢中とOCUは開戦当初とは全く逆の関係へと至った。


その後8月に入るまでにはOCU軍は雲南省の半分を切り取り、広西省のトンキン湾に面する地域と広西省の首府である南寧市をも占領。
海南島を制圧した部隊は別途で侵攻を再開し雷州半島へとその矛先を伸ばしていた。

開戦より2か月。ここにきてザーフトラ共和国とUSNの仲介により両国共停戦。

52 :トゥ!ヘァ!:2015/04/05(日) 18:33:00
講和会議の席では両国代表者とも喧々囂々の話合いだったが一週間叫び合い決まることは決まった。

  • 両国共現在の占領地を手放し国境を元に戻すこと
  • 開戦の発端となったミサイルは公平な立場を持つ国際調査団を派遣し、両国証人のもと改めて調査とする
  • 大漢中人民共和国はOCUに一定の賠償金支払いを済ませる

他幾つかの項目を定めた講和条約を結んだ。

実質大漢中の敗北であり、傍目から見ても勝手に喧嘩売って、勝手に負けただけである。

この戦争は国によって呼び名が違ってくるものの後に「第一次インドシナ半島紛争」と一般では呼ばれるようになり、当時の人々は知る由もないが20年後に第二次インドシナ半島紛争が起きることになる。

この紛争では両国ともWAW、WAPが活躍したことで有名である。
戦車や装甲車など従来の兵器では運用が困難な森林、山岳、都市部などでその効果を発揮したのである。

大漢中は原作と違いアフリカ紛争へと派遣した観戦武官からの教訓により事前に配備していたWAW部隊を。
OCUは同じくアフリカ紛争へと派遣していた観戦武官による教訓から配備を進めていたWAW、その発展形であるWAPを。

この紛争における活躍によりヴァンツァーの汎用陸戦兵器としての評価が高まり、各国での導入、開発、配備が急速に進んだ。


この後、大漢中は半ば逆恨み同然の感情から懲りずに更に軍備を増強。
しかし、これによる経済の締め付けがその後華蓮団による反政府活動を更に活発化させたのは自業自得であろう。


OCUは改めて大漢中の危険性を確認。
戦地となった国々の復興と本格的なOCU防衛軍の拡張と各種兵器の開発など大規模な軍拡を開始した。

特に前線となったラオス、ミャンマー、ベトナムからの要望。
特に一時首都まで落とされたベトナムからの意見は凄まじく、今後10年以内に今の5倍にはなるであろう軍拡を望んだという。

無論流石にそこまで急激には出来ず拒否された。
しかし一応の盟主である日本はベトナムを宥めながら、出来る限りの要望は叶えるようにOCU議会や企業への根回し、支援などは行った。

大漢中は懲りておらず、遠く無いうちに再戦を挑んでくることが目に見えていたからである。

そして今回の大漢中の横暴により改めてOCU加盟各国の緊張感が取り戻され、各国企業はヴァンツァーを始めとする兵器の研究に一層の予算を入れて取りかかったからである。

これらの備えが今後起きる様々な事件や紛争。
そしてこの備えが思う存分発揮されるのは約20年後を待たねばならない。

53 :トゥ!ヘァ!:2015/04/05(日) 18:36:16
投下終了

取り敢えず前に話していたハフマン紛争の代わりとなる戦訓を得る戦場を用意した。

なお、この紛争の3年後にはOCUはインドと組んでチベット自治区独立のための支援を決定。
途中でUSNも加わり結果チベット自治区とウイグル自治区の大半が実質独立と相成る。

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最終更新:2016年10月10日 20:57