109 :陣龍:2016/02/26(金) 13:01:24
日米蜜月(ユーラシア共産化)ルート考察擬き

大戦に置ける主要会戦記録 『第二次世界大戦~枢軸軍の大反攻~(日本帝国軍編その2)』


『南アジア電撃戦 ~地に堕ちしはユニオンジャック、天に翻りしは三色と糸車の旗~』


日本海軍航空隊によってインド洋が『掃海』された後、最高潮に士気が盛り上がった枢軸軍が南アジア全域を『解放』する事を目指し、日本軍がチッタゴンとヴィシャーカパトナムに強襲上陸しインドとビルマ間の連絡線を遮断後一路インドを目指し、国土的に密林戦に手慣れたタイ軍、フィリピン軍がビルマ方面へ進軍すると言う分断戦闘を展開。現地を守るイギリス軍と増援に来たソ連軍は、元々の戦力の少なさと昔から続けていたイギリスによるインド統治の結果インド人の大半が敵に回り、そして『自由』『解放』と言う謳い文句を掲げ、インドシナで捕虜になった後枢軸に協力する事を誓ったインド兵による宣伝や道案内による断続的な奇襲やインド人によるサボタージュ、更には大和型戦艦による沿岸部砲撃により終始一貫して徹底的に翻弄され続け、最終的には一部の部隊が幾度と無く共産軍、と言うよりも『大英帝国』の意地を見せた以外は、戦略的には枢軸軍の猛攻で『イギリスの最大の宝玉』を奪い取られ、奪還する術も無く中東方面へ叩き出される結末となった。


マスコミ通称『南アジア電撃戦』と俗称され、日本軍では『天鳳作戦』と称されたこの作戦では、初手に『御神島型強襲揚陸艦』等に搭乗した精鋭の日本陸軍がインドとビルマ沿岸部の重要拠点である『チッタゴン』と『ヴィシャーカパトナム』に強襲上陸を行い、『チッタゴン』に上陸した部隊はそのままインドへと進撃し『ヴィシャーカパトナム』に攻め込んだ部隊は砲爆撃によってビルマ方面の連合軍を誘引し、その隙にタイ王国よりタイ陸軍、フィリピン陸軍の精鋭部隊がビルマへ挟撃を仕掛け、ビルマ方面を制圧。オマケ要素として『援華ルート』と呼称されたビルマから中国領雲南への支援路も序に断ち、インドとビルマ両面に配備された連合軍を連携させる間も無く撃滅すると言うある意味投機的とも言える気宇壮大な戦略だった。

装備や連度、戦歴等で世界的にも強軍と知られている日本軍は兎も角として、今回この様な近代的大規模戦闘に関しては初陣扱いとなるタイ陸軍やフィリピン陸軍に関しては、この『天鳳作戦』が立案された時には不安視されていたのは事実では有る。だが日米から派遣されて共同訓練や錬成に両国と当っていた東条英機大将と現役復帰後ビルマ方面の総指揮に当る事になったダグラス・マッカーサー大将からは『特に湿地帯、密林戦に』自信のあると評価するレポートが提出されていた。また日本の諜報機関も泰比軍を全面サポートする上に、ビルマで戦略的な指揮をするのは名将としての誉れも高い『ジェネラル・マック』ことダグラス・マッカーサーであった。装備や補給に関しても天下の日本帝国とアメリカ合衆国がバックに就いている。必要なら輸送機だけでなくフィリピンで暇を持て余していた旧式重爆撃機の『B-17 フライング フォートレス』に加えて完全に戦力的に二線級以下の存在となっていた『B-18 ボロ』すらも動員して、各種物資を泰比軍に向けて空中投下する意気込みだった。

110 :陣龍:2016/02/26(金) 13:04:51
そうした中で始まった『天鳳作戦』の嚆矢である日本軍による『チッタゴン』『ヴィシャーカパトナム』への強襲上陸だが、当然ながら現地インドを守護する共産軍も手をこまねいて見ていただけでは無かった。本国や同盟国から調達した各種兵器の搬入、現地インド兵の徴兵と増強、各重要拠点、特に港湾地帯に対する防備の強化、等々…インドはイギリスがイギリスで有り続ける為にも絶対に確保しておかなければならない事もそうだったが、もし此処インドを突破されたら、中東には大した兵力が配備されて居ない為後は実質的にスエズ運河まで一直線である為に、イギリス陸軍の殆どがここインド防衛の為に投入されていた。因みに共産連合の同盟国たちに関してだが、丁度その頃にアメリカ海軍による『ブレスト港・ジブラルタル奇襲戦』が開始しており、また旧ポーランド兵による激しいレジスタンス活動により一時的に欧州大陸の鉄道や道路網、港湾施設が要所要所で寸断、破壊された為に大半は欧州大陸に縛り付けられている状況である。とは言え、仮にインドの地に欧州共産軍より増援がなされたとしても、戦闘経過を見るに独立に燃えて立ち上がったインド人によって極限まで消耗させられた末に敗走する末路しか無かっただろうが。


かくして日本軍上陸部隊を上陸させずに海に叩き返す為に、『チッタゴン』『ヴィシャーカパトナム』に配備されたイギリス陸空軍は行動を開始するも、彼らと初めに交戦したのは上陸部隊を乗せた船舶では無く、先の『インド洋海戦』で歴史に残る武功を世界に知らしめたばかりの空母部隊の艦載機隊と、その艦載機隊に全ての獲物を掻っ攫われた為に噴火直前の活火山の如く溜まったフラストレーションを遠慮なく叩き付けて多少なりとも発散させられる相手を見つけて、確実に万人が引くか逃げるか泣き出すであろうドス黒い満面の笑みを浮かべた大和型戦艦部隊だった。未だに『シーファイア』等の旧来の機体を主力とせざる負えなかった共産軍基地航空部隊は『烈風』によって撃砕され、厚いはずのべトンで身を包み、一部は戦艦砲を装備した沿岸砲台も大和型戦艦の46㎝50口径3連装砲の前に、射程が全く届かなかった事も有り一矢も報えずに次々と爆砕され続け、『チッタゴン』『ヴィシャーカパトナム』両地点で夜明け直前から半日以上に渡って行われた強襲上陸準備攻撃は、現地イギリス軍のモラルブレイクを誘発させた末に日本陸軍の無傷上陸を成功させると言う結果を齎した。流石に岩盤まで穿り返すかと思わせるだけの46㎝、41㎝、35,6㎝、20,3㎝砲弾その他多数の砲弾を延々と撃ち込まれ続けたら、徴兵された植民地兵は勿論の事、イギリス人将兵でも恐慌状態に陥らせるだけの破壊力は有った様子であった。

一部流れ弾が飛んで行ったのを除けば殆ど無傷な民間施設の脇で土台や建物の基盤ごと跡形も無く消滅した軍事施設跡地を占領した日本軍上陸部隊は、工兵隊が必死に自分たちが使う施設の建築活動を行い、直談判の末大和型戦艦部隊が対地爆弾なら多数残っている大鳳型装甲空母部隊や陽炎型駆逐艦らと共に二部隊に分かれてインド洋に面する連合国軍事施設を良い笑顔で襲撃しに行っている中、所定の作戦通りに行動を開始した。尚各部隊にはマレー半島やインドシナにて降伏後、枢軸国に説得され、母国独立の『夢』を現実の元とするべく立ち上がったイギリス植民地兵が配備され、現地の風習解説や軍使等での宣伝工作任務に就いており、無論の事『解放』する側である日本軍も現地の言語や風習を付け焼き刃レベルながらも可能な限り習得しており、現地住民と不用意、不本意な衝突をする事は避ける様に鋭意努力が重ねられていた。

111 :陣龍:2016/02/26(金) 13:08:07
『チッタゴン』に上陸した日本軍ビルマ方面隊は、先ずはタイ方面からの進行を防ぐ為に要塞が建築されている『インパール』は一旦放置し、一路『ダッカ』を目指し進軍を開始する。この事に主に『インパール』に重点的に配備されていた現地イギリス軍は大きく動揺した。『インド洋撃滅戦』前までの戦略想定では、イギリスインド洋艦隊の攻勢で今暫くは時間が稼げるはずだった。だが、現実はイギリス艦隊は『プリンス・オブ・ウェールズ』が多数艦載機部隊に被弾させて意地を見せた以外は大して見せ場も何もなく一方的に撃滅されて時間を稼ぐ事も出来ず、輸送や戦力配置が時間不足で追いつかなかった為に、広範囲の沿岸拠点を防護する為に兵力は薄く広く展開せざる負えず、それでも一部地域の防衛は切り捨てて特に重要拠点と諜報活動等で目された『チッタゴン』と『ヴィシャーカパトナム』に兵力を展開するも、それらは日本陸軍と戦う事無く艦砲射撃だけで一日経たずに壊乱し、戦力価値を喪失。結局一兵も喪う事無く上陸に成功した日本陸軍は其々高速で進軍を開始している状況では、イギリス軍が動揺するのは至極当然だった。何せ、各地から抽出したイギリス本国兵が多数配備された沿岸防衛部隊がズタボロにされた上に一日持たずに拠点を放棄して潰走するばかりか、二度と軍務に就けない程に精神的後遺症を負った兵士も少なからず存在していたのだから。

水際防御が完全に失敗した以上、イギリス軍に残された戦術は『後退戦術で可能な限り時間を稼ぎ、インドの広大な大地の中で長距離進撃を余儀なくされる日本軍を失血死させる』縦深防御しか残されていなかった。インド総督からはこれ以上日本軍の占領地を拡大させない様に要請と言う名の命令が飛んできて
いたが、兵力の転換再配置や集結には、幾ら今までインドに濃密な鉄道交通網を構築した居たとはいえ、一定の時間を必要とする以上、ハッキリ言って一定のインド領土を喪失するのは不可避であるとイギリス陸軍は結論付けていた。その為インド総督へは『兵力集結後の反撃で日本軍を撃退後に再占領する』とイギリス陸軍は返答したが、インド総督は当然ながら激怒した。『即座に日本軍占領地を奪還しない限り、我らの手から永遠にインドは零れ落ちる』と面会したイギリス陸軍高官に当たり散らしたが、実際の所『無い袖は振れない』物であり、インド総督の要請は最終的に無視された。


そんな敵の事情を知ってか知らずか、『九七式中戦車』や『九九式装甲輸送車』にトラックなどに分乗し『チッタゴン』から『ダッカ』へ向けて進撃する日本軍ビルマ方面隊は、事前に工作機関が扇動し、先陣の部隊は現地出身の元イギリス植民地兵と共に行動していた為に『天鳳作戦』開始前に危惧されていた現地住民と日本軍との不幸な衝突は発生してはいなかったが、代わりに土地勘のあるイギリス兵によるゲリラ戦と破壊工作に加えて、現地住民からの治安維持、物資供給要請によって進撃速度は落ち込み始めていた。日本軍がシンガポールを奪取した頃より始まったイギリス植民地への収奪の強化に加えて、一部イギリス軍部隊が焦土作戦の為に各村落を焼き払ったりする等の凶行の為に現地人の疲弊は相当な物であり、『自由』と『解放』を謳い文句に侵攻してきた日本軍の歩みは一時的とは言え落とさざる負えなかった。無視して進めばその瞬間に枢軸軍の大義名分は紙屑以下になって仕舞う上に、不安要素を自軍の後方に放置する事になるからだ。とは言え、後方では『こんな事も有ろうかと!』と言う今戦争における屈指の迷言と共に司令部が事前に手配した大量の簡易建築住宅や現地宗教に配慮した日本軍特製食料その他諸々を持ちこんでいた為、そこまで大きな問題は発生しなかったのだが。

112 :陣龍:2016/02/26(金) 13:12:43
民間人保護の為に、基本的に神速を尊ぶ日本軍にしては少しペースを落として進撃しつつ、ゲリラ活動に励むイギリス兵を砲爆撃で森林ごと吹き飛ばして早幾日、日本軍が『ダッカ』へと辿り着いた時にはイギリス陸軍が『ダッカ』市街地より離れた場所に陣地構築を完了していた。相対した日本軍はインドシナとは違って民間人を巻き込まない様に出て来たイギリス軍に感心していたが、当のイギリス軍は日本軍の進撃速度に絶句し、絶望していた。インフラ破壊活動とゲリラ戦でもう少しは時間を稼ぐ予定が、一部の馬鹿が独走して必要以上に無意味な焦土戦術を展開した為に現地住民を完全に敵に回し、ゲリラ戦で駆け回っていたイギリス兵は現地民に吊し上げられて日本軍の捕虜となるか、位置を特定されて殺害されて行った為に、想定以上に日本軍への遅滞戦術は通用せず、しかもその『一部の馬鹿』が行った所業が『ダッカ』居住住民にも伝わった為にイギリス軍の居場所が完全に無くなり、実質的に追い出されるか逃げ出す形で『ダッカ』の郊外に陣地構築していたのだった。イギリス軍『ダッカ』防衛指揮官、そしてスターリン派の現実的思想の持主だった為に前線に左遷される形で送られた政治士官は、勝手に命令外での焦土作戦を行った『一部の馬鹿』を口汚く罵った上で戦地裁判にて半分八つ当たりに近い形で公開処刑したが、現地住民の民心はイギリスへと戻る事は無かった。


その後の『ダッカ』防衛部隊は、日本軍の脅威的火力と『チッタゴン』から飛んできた『連山』に加えて『流星』の陸軍仕様機である『天龍』の爆撃の前に、補給路が断たれていると言う悪条件下にも拘らず一週間近くに渡る驚異的粘りを見せるも最後には壊滅判定の損害を受けた後、降伏。日露戦の際に開眼した日本軍御家芸の夜襲を、敢えて懐まで引き込ませてからの反撃で撃退する、改造した航空爆弾や手製爆弾による即席地雷原を作り上げて一個戦車大隊を半壊させる等の
イギリス陸軍の奮戦具合に、相対した日本軍部隊は多大な敬意と待遇を持って対応したが、余りの厚遇に捕虜となったイギリス兵は只々目を白黒させていた事が現代でも様々な資料に残っている。因みに余談だが、特にイギリス兵は日本軍から提供される食事に感涙していた姿が映像に残っている事から、良く『イギリス兵は草を噛み、泥水を啜ってまで戦い抜いたのか』と勘違いされるが、それは誤りである。単に母国との食事習慣の違いに咽び泣いただけである。

ビルマ方面隊と言いつつ実際には反対方向に進軍しイギリス植民地領を『解放』して行っている日本軍だが、インパール要塞に籠るイギリス軍にとっては、この日本軍に『インド方面との連絡、補給路の遮断』が成されていると言う非常に危険な状態だった。インパール地方の生産力では、要塞に籠るイギリス軍への補給を賄う事は出来ない、と言うよりそれ以前に自らの植民地政策により現地には工業力は皆無で有る為、航空機や戦闘車両どころかトラックや小銃火器すらも多数生産、整備出来る様な大がかりな施設は存在しなかった。その為、イギリス軍ビルマ防衛部隊は殆ど選択の余地無しに『ダッカ』を攻略した日本軍を早期に撃破する必要に迫られ、最低限の兵力をインパール要塞やビルマに残した上で足早に『ダッカ』へと進軍していった。そして『ビルマを守るイギリス軍が激減した』この瞬間を、タイ、フィリピン連合軍は見逃す事は無かった。

113 :陣龍:2016/02/26(金) 13:16:37
タイ、ビルマ国境地帯に密かに兵力を集積し、潜伏していたタイ、フィリピン連合軍は、日米からの供与並びに自国ライセンス生産したトラックや『M3 オオサカ&スプリングフィールド・アサルトライフル(一式突撃銃)』『九七式中戦車(M4 シャーマン)』等の今大戦に置ける枢軸軍の標準的陸上装備をその身に纏い『花火ハウチアゲラレリ』の作戦開始暗号を受け取った直後に、タイ、ビルマ国境線を一斉に突破しようと戦闘を開始する。当然ながら国境地帯にはコレをある程度予期していたイギリス軍による防衛網が構築されていたが、既にビルマ地方に潜り込んでいたタイ陸軍の切り札である、森林戦に特化した特殊部隊による工作により備蓄弾薬庫や防衛網の要所を戦闘開始直前に爆破解体され、後方からの予期せぬ奇襲にイギリス軍が動揺した瞬間に独立後初の『対列強戦』と言う事で、明治期の日本の様に自分たちの能力や存在感を世界に示す為に極めて高い士気と高揚感を持つフィリピン軍が突入。先手を取られた上に『所詮植民地兵』と侮っていたタイ、フィリピン軍が思いのほか精強で、イギリス本国兵とも互角に殴り合えた事は完全に誤算であり、丸三日間かけた戦闘の結果枢軸軍はタイ=ビルマ国境線を突破する事に成功。
その後は補給や補充を受けつつ各地に散らばったイギリス敗残兵を刈り取り、破壊工作等で危険水準まで兵力が低下していた『インパール要塞』目指して進軍するだけであった。


そして肝心の『ダッカ』を奪還する為に兵力を掻き集めたイギリス軍だが、早急に決着をつける為の強行軍に加えて日中は空襲、夜間は特殊部隊によるハラスメント攻撃によって精神的、体力的に多大な摩耗を強いられる行軍を強いられた上に、集結地点にて陣地構築中に日本軍による精鋭一個師団規模の夜襲を受けての同士討ちと甚大な損害が発生する始末で有り、殆ど戦略的、戦術的に何もさせて貰えないまま大敗。強行軍で通過した道を今度は日本軍の猛追を受けながら引き返す羽目に陥った上に、ビルマの大地それ自体が、武器弾薬は勿論の事医薬品も糧食も水すらも少量しか持てずに撤退するイギリス軍に対して様々な形で牙を向き、心身共に疲弊し尽くしながらも『インパール要塞』へと辿り着いた兵士は出撃時の三割にすら満たなかったと言う。そして兵が居ない要塞は古今東西ただの障害物でしか無い事は証明されており、日非泰連合軍の包囲と砲爆撃の支援を受けた上での強襲攻撃により『インパール要塞』は陥落。結果的にビルマ戦線は、枢軸軍側の大勝利と言う形で終結した。




『インパール要塞』の陥落によりビルマ戦線が片付いた頃、『ヴィシャーカパトナム』から進軍しインド方面を攻略していた日本軍はと言えば、事前想定の十数倍を軽く超えるインド人の津波を必死に波乗りしつつ『デリー』に向けて進軍していた。尚『津波』と言ってもインド人は別に日本軍に対して反抗的だった訳でなく、寧ろ『解放者』に対して極めて協力的だった。否、正直に言って日本軍に対して『協力的過ぎた』。

『チッタゴン』と同じく艦砲射撃と航空攻撃で完全に消滅した『ヴィシャーカパトナム』周辺の軍事施設を工兵隊が建築する中『いざ『デリー』そして『カルカッタ』へ!』と進軍しようとした日本軍の前には多数のインド人が押し寄せてきた。日本諜報機関からはインド人を色々な形で対英抗争の扇動を促していた事を知っていた日本軍は、イギリスインド兵の攻撃かと早とちりし『すわ敵か?!』と身構えたものの、実際には『日本軍に参加し、故国インドをイギリスから開放したい』と言う血気盛んな若者や壮年の男たちが押し寄せて来ただけだった。その為、軍事的にはただの素人集団で今戦争中に使い物になるとは到底思えないが、政治的には大きな得点となる『インド解放軍』が、日本軍の指揮のもと『ヴィシャーカパトナム』で編成された。無論本当に戦闘に投入する様に即席でインド人による軍師団を編成した訳でなく、多分に政治的要素が垣間見える『見せ札』であった。厳しい訓練を施してのちのインド軍の雛型を作りはすれど、精々後方での治安維持任務程度にしか日本軍は投入する気は無かった。その為に、教官任務に当たった日本軍人はインド人が訴える、若者特有の熱い熱意に四苦八苦していた。『インド解放軍』所属のインド人からは『他国人に故国の開放を任せて自分たちが後方でのほほんとはしていられる筈がない!』と言う誰から見ても至極全うな訴えがなされていたのだから、日本人が説得に苦労した事は想像に難くない。

114 :陣龍:2016/02/26(金) 13:19:56

問題は進軍するにつれて凄まじい勢いで増加する志願兵だけでは無かった。現地調達、と言うと聞こえは悪いが、インドにはイギリスへの食糧供給を担っていたこともあって豊富な食糧生産と豊かな水が存在した。無論、日本の河川ほど清潔では無いインドの大地に流れる水をそのまま飲んだら即座に病院送りになるために飲用水に関しては煮沸消毒は欠かせないが、少なくとも食糧に関していえば『ドル紙幣』や『円紙幣』といった外貨や工業製品によって現地で無理無く購入、調達出来るために兵站上の負担はかなり軽減される事が期待できた。インドの河川の一部は、外洋船舶もかなりの部分で
航行可能な事もあった。では何が問題だったかと言えば『インド市民が日本軍に取引の代価として置いていく紅茶の山』であった。『なんのこっちゃ』と思われるだろうが、現地日本軍は一時期割と真剣にこの紅茶の処理に頭を悩ませていた。

ご存知のように、イギリス人とは違って日本人には『紅茶』を大量に飲用する習慣は無い。後世では紅茶を好んで飲用する日本人もそれなりに存在するが、当時の日本人の殆どには『紅茶』とはあまり縁がなかった。その為、この紅茶の山を始めは現地で処理しようとするが、日本軍の消費量に対してインド人が置いていく紅茶の供給量との差が多すぎてあっさりと現地日本軍のキャパオーバーとなってしまった。取引の代価として置いていった紅茶を廃棄処分等としたら、インド人からの心証が悪くなりかねない上に、また主に『処理』している日本兵から『紅茶じゃなくて日本茶を飲ませてください』と言う痛切な訴えが有ったりした為、この紅茶は現地処理は諦めて再建の進む『ヴィシャーカパトナム』から日本本国へと送られた。結局日本本土どころか満州や大韓王国でも有り余った為にアメリカを通じて、暫くして枢軸の統治下に入ったイギリス本国へとこのインド産の紅茶を搬入する事になったが。


そんなある意味平和と言うか何というか表現し辛い問題に頭を悩ます日本軍だったが、本来の最重要問題である筈の『イギリス軍インド防衛部隊』に関しては、順調に撃滅し続けていった。インド総督が懸念し、警告した通りに、イギリス軍の絶対的劣勢を目の当たりにしたインド人は、日本諜報機関の扇動に乗り『非暴力非服従』運動やイギリス人からの命令拒否、イギリス軍の情報を日本軍に流すなどの抵抗運動が激化。全方位が敵になり、自軍の情報が敵軍に丸分かりで毎日のように日本軍による爆撃に晒され、不期遭遇戦であろうが陣地を構築して日本軍を待ち受けていようがなかろうが関係無しに、兵力戦力共に優勢な日本軍に典型的な各個撃破の形で兵力劣勢なイギリス軍は撃滅され続けた。それが余計にインド人がイギリスからの離反を促進させると言うどうしようもない悪循環だった。

今までイギリスがインドに被せて来たツケを一気に取り立てられた形になるが、イギリスのインド総督府はこの状況をどうにか打開する為に、要約すると『イギリス連邦内での独立を承認、確約する』と公文書で約束するまでに追い詰められていた。だが、この一手は『イギリスによるインド統治を瓦解させた最後の一弾』となる。独立関係はともかく、内容を精査すると『仮にイギリスが敗北に終わった場合、インドの持つイギリスの債権を、イギリスが返済する事は難しいだろう』、つまり『インドがイギリスに対して持つ借金を返してほしくば、日本軍と戦って勝て』と言う解釈ができる余計な一文が書かれていたのである。この事は、インド人の反骨心にガソリンを注いだに等しき失言であった。実際問題解釈は兎も角として『イギリスが負けたら多分借金は返せない』と言うこの一言は大体事実なのであるが。

115 :陣龍:2016/02/26(金) 13:22:37

補給物資を運搬する輜重兵が、行きは武器弾薬燃料と個人的補給物資、帰りに紅茶を山積みにしてトラックを運転している光景があちこちで見受けられ、インドの鉄道も現地鉄道員の協力を得て日本軍の補給路を太くする為に一肌脱ぎだした頃、日本陸軍はイギリスのインド統治の拠点である『カルカッタ』への空挺奇襲作戦を決行。インド人による情報提供、並びに自国諜報機関からの調査により『インド総督府の夜逃げ』の兆候を確認した為、更なるイギリス軍
インド防衛軍の混乱と弱体化、そしてあわよくばこれ以上の広大なインドでの不毛な戦闘を終える為に行われた奇襲であった。そしてその空挺部隊は、見事に『カルカッタ』から丁度脱出しようとしていたインド総督府とその護衛部隊の面々を捕捉。後にハリウッド等で映画化される大捕り物の末に、インド総督の捕縛に成功した。ユニオンジャックが引き摺り下ろされた『カルカッタ』に旭日旗が翻る写真と、インド全土に広まった『インド総督の逃走失敗と捕縛』の情報は、インドでの戦い、そしてイギリスによる植民地統治の終焉を告げるカーテンコールであった。



その後、敗北を認めずに頑迷に抵抗を続ける極一部のイギリス兵をさっくり刈り取りつつ、戦意喪失して降伏してきたイギリス兵を、インド人に襲撃されたりしないように護衛、移送させつつ、日本軍は統治を現地政府へとあっさりと譲り渡し、一部インド人が懸念していた『イギリスに代わって日本が新たな統治者に成り代わるのでは無いか』と言う不安を払拭させ、次の戦略目標である『スエズ運河』を目指しての進軍を開始した。そして後方へとなったインドでは、初めての
国家建設と言う一大事業に邁進する事になるが、ここで少々問題が発生する。一言でいえば『自国領域をどこまでとするか』と言う、下手な手を打てば今後100年に以上に渡る禍根を残す問題だった。『マハトマ・ガンジー』を代表する既存勢力はヒンドゥー教徒、イスラム教徒を一つにまとめ上げた『大インド主義』を提唱し、日本の支援で様々な知識を得た『インド解放軍』とその官僚や一党は『無理に纏めても百害あって一利無し』として、イスラム教徒が主流に住んでいるバングラデシュやパキスタンを分離独立させる『小インド主義』を唱えて、一時深刻な対立をインド国内で生んでしまうも、双方に援護を求められた日本政府は『提案』『助言』と言う形で『小インド主義』を採る様に勧めた。正論と援助の飴と鞭で『大インド主義者』を説得しつつ、政治的に重すぎる借りを持つ日本の『助言』に逆らう気は起きなかったインド政府はイスラム教徒の住む地域との分離独立を進めた。この事は、南アジアでの宗教対立等の不安定要素が発生する
要因が激減した最大級の政策であり、様々なものが不足する中インドを纏め上げた当時の政府は称賛に値するだろう。

116 :陣龍:2016/02/26(金) 13:25:56
はい、以上になりまするー。

…最後は、まあ、うん。多分余計な事だったと思います。取りあえず『インド開放』後のインドは比較的安全である事をつらつら書こうとしたらなんかこんな感じになりました。
ヒンドゥー教とかイスラム教とかあの辺の宗教とか良く分かんねぇし(日本人並感)

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最終更新:2016年10月13日 20:43