595: yukikaze :2017/02/15(水) 23:55:53
日清戦争史 第四章 混乱

黄海海戦での完全敗北は、紫禁城に激震をもたらした。
大敗の第一報を聞いた皇帝は、一瞬顔を青ざめるも、次の瞬間、戦死した丁司令官の一族を直ちに族滅するよう金切声をあげたとされる。
さすがにこれは、李や西太后が止めたものの、皇帝の丁に対する怒りは凄まじく、財産没収と官職剥奪、更には葬儀すら許さぬという苛烈ぶりであった。(なお、降伏した「鎮遠」の将兵の一族に対しては、「売国奴」「臆病者」として、直ちに官位剥奪及び流刑にしていた)
また、大敗に対する怒りからか、海軍残存部隊への扱いは冷たく、海軍基地に残留していた兵は、悉く陸戦隊として最前線に配属されることになる。
当然のことながら、彼らの士気や規律は最悪レベルであり、陸軍からは「弾除けにもならない」と罵倒され、それが更に規律の悪化につながるという悪循環振りであった。
そして、海軍の大敗と皇帝の海軍への侮蔑感は、同時に海軍推進派であった李の政治基盤を揺るがせるのに十分であった。
無論、清国内において精鋭の陸軍を有していたことから、海軍壊滅即失脚にはならなかったが、それでも彼に対する風当たりは強くなり、反対に皇帝の側近や、李の政敵と言っても良い塞防派の勢いが増すことになる。
それは、老練な政治家である李に代り、感情的な思考しかない側近と、功名心に逸る塞防派が戦略を練るということであり、このことは清国の戦争指導が、極めて近視眼的なものへと陥らせることになる。

さて、北洋水師大敗によって制海権を完全に牛耳られた清国であったが、彼らは(しぶしぶながら)日本侵攻の戦略を諦め、代わりに朝鮮半島で遅滞防御戦を行いつつ、疲労の極にある日本陸軍を、塞防派の精鋭部隊によって完膚なきまでに叩き潰すという戦略を策定する。
彼らにしてみれば、海でついたケチは、陸での大勝利によって取り戻せることができ、そして自分達にはそれだけの実力があると確信をしていたからであったが、問題は、朝鮮半島での遅滞防御は李の部隊に任せるとして、主力部隊をどこに置くかであった。

当初、塞防派が主張したのは奉天であった。
東北部有数の要衝であるこの地は、大軍を養う事も可能であり、且つ半島にも近かった。
故に迅速に行動に移すのであれば奉天に陣取るのが一番良いのだが、皇帝側近から「蛮夷どもが天津に上陸した場合どうするのだ」という意見が出るに及んで、事はそう簡単にはいかなくなる。
皇帝側近にしてみれば、まず重要なのは自分の生命財産であり、それ以外の事象は全くの無価値であった。
そして彼らは、蛮夷の総大将ともいうべき人間が、天津から一気に北京を突く策に賛同しているという事を漏れ聞いて、自らの権益を守るために、北京防衛を主張したのである。
勿論、名目上は「蛮夷どもに帝都を犯させるなどあってはならない」という、誰もが表立っては反論できない理由を押し立てていたが、 彼らの本音がどこにあるかは、自明の理であった。
塞防派は、側近たちの真意を理解し、「奴らには大軍を渡洋させるだけの力はなく、上陸させたとしても2個師団が精々である。それならば、帝都の禁軍数万で十分対応できる」として、あくまでも奉天での戦力集結を訴えたのだが、11月に日本軍が1個軍団3個師団の兵力を、旅順の付け根にあたる花園江に上陸させ、一週間もたたずに金州を制圧し、旅順司令官である葉志超から悲鳴の如き救援要請が出てからはそうも言ってられなくなる。

597: yukikaze :2017/02/15(水) 23:57:01
塞防派は、あくまで敵部隊の主力は朝鮮半島から北上してくると考えており、旅順の部隊は、直隷で決戦をする為の地ならし部隊であると判断していたのだが、日本軍は朝鮮は無視して、先に旅順を制圧しに来たのである。こうなると騒がしくなるのが、皇帝側近であり、彼らは「一日も早く帝都防衛体制を取るべし」と騒ぎ立て、しかも皇帝までもが「この上は、朕自ら精兵を率い、北京近郊での決戦を行う」などと、やる気があるのはいいのだが、戦略的には頼むから邪魔しないでくれレベルの発言をし、とどめに威海衛にも時間をおかずに日本軍1個師団が上陸したことで、彼らの目論見は完全に消滅することになる。
結果的に彼らは、奉天に置くはずだった主力部隊を、天津及び皇帝直轄部隊として北京に置き、旅順を落とした日本軍が、北京を長躯突かないよう、朝鮮に送る予定であった李の子飼いの部隊を、錦州に駐屯させることで防壁とすることに決定した。
勿論、増援軍が来ないことに、朝鮮政府は悲鳴を上げることになるのだが、清側は完全にそれを黙殺していた。
もう既に日本侵攻が実質的に不可能になった以上、朝鮮の役割は、清への物資供給および侵攻してくる日本への足止めによる消耗以外何もないのである。
彼らは、征東行省長官に対し「錦州への物資の補給と根こそぎ動員で侵攻してくる日本への肉壁としての準備をせよ。何人死のうが構わんので、成果を出せ」と厳命を下し、件の男も忠実にそれを行っていた事で、もはや朝鮮の統治は四分五裂状態に陥っていた。
如何に属国とはいえ、後先をまるで考えてないこの対応は、後々ツケとして帰ってくるのだが、皇帝とその取り巻きの思いつきとしか言えない発言に振り回されていた塞防派には、そんなことまで思い至るだけの余裕は更々なかった。

こうして清側は漸くにして戦略を確定させることになるのだが、如何せん北洋水師の壊滅により、黄海及び渤海の制海権が日本側にとられてしまったことで、日本側は好きな時に好きな場所に上陸することができるという事実に、彼らは今更ながらに事の重大さを認識することになる。
実際、度重なる命令の変更は、清軍の行動に混乱を生じさせ、紙の上では、天津付近に8万、北京に7万、錦州に5万いる形になっているのだが、実際には命令の伝達上の不備等も重なって、天津に5万、北京に5万、錦州に4万、満州に2万、その他4万人は移動中という有様であったし、錦州や天津では急ピッチで防衛ラインを作り上げていたものの、未だ完成には程遠いという有様であった。
特に錦州方面部隊は、「一月はもってくれるであろう」と、願っていた旅順の守備部隊が、2週間持たずに陥落してしまったことに慌てた北京上層部の誰かが、「今すぐ田庄台にまで進出して迎撃せよ」という命令をだし、慌てて先遣隊として5千の軍勢を出したら、今度は「田庄台進出を取り止め、錦州で防衛せよ」と命令が下り、溜息をつきながら戻す命令を下したら、更に「先遣隊及び満州に残っている部隊とで、2万の軍勢を以て、遼陽に布陣し、旅順から進行する日本軍を挟み撃ちにせよ。なお、遼陽にはイクタンガが指揮し、錦州は宋慶が指揮せよ」という命令が出されるなど、もはや「どの命令が正しいのかわからない状態」に陥っており、宋が盛大に溜息をつきながら、何とか命令通りにした瞬間、「ただちに左宝貴に兵1万を率いさせて、田庄台を固めさせよ」という命令が来た時には「皇帝陛下の取り巻き共と塞防派の連中は、紙の上だけで戦争をしているのか!!」と怒鳴りつけるのも無理はなく、しかもこの発言を問題視した取り巻きの誰かによって、宋慶が北京に召喚されたことで、錦州軍指揮官代理になった劉盛休とイクタンガそれに田庄台に急いで向かった左宝貴の内、誰が総指揮をとるのかの合意が取れておらず、この時点で指揮系統面で錦州方面部隊は崩壊したと言ってよかった。

それを示すように、旅順を落とした日本軍第二軍団(指揮官:沼間守一中将)が、錦州方面軍の混乱をついて営口まで進出したことを危険視した左宝貴は、部下の「錦州と遼陽の援軍を待って出撃すべき」という意見を振り切って出撃したのだが、既に営口を落としていた沼間守一中将は、旧幕府軍の中では屈指の名将と言われただけあって、巧妙な防衛ラインを作成することによって、左の軍勢の吶喊を悠々と受け流し、彼らが気付いた時には、砲兵部隊だけでなく機関銃部隊からのもっとも濃密な射線を受ける場所にまで誘導されていた。

「勇敢だ。だが無謀だ」

先頭をきって突撃してきた左が真っ先に肉塊になるのと共に、左が率いた清軍が壊滅的な打撃を受けたのをみた沼間は、しかしその地獄絵図にも何ら躊躇せずに敵軍の殲滅に入っている。

598: yukikaze :2017/02/15(水) 23:58:52
彼らの役目を考えるならば、ここで相手を叩けるだけ叩いておかない策はない。
無論、一部の兵は『わざと』逃がすことによって、遼陽と錦州の部隊の更なる士気の低下を図らせる予定ではあるが、これからの戦で楽をする為には、敵の兵を減らすのに越した事はない。
欲を言えば、遼陽の部隊も纏めて殲滅できればよかったのだが、こればかりは致し方がない。
そもそも、敵の先手衆が来てくれただけでも、こちらとしては十分な戦果なのだ

「遼陽の部隊は、うちに増援で来た2個旅団を海城及び牛荘に進出させることで防衛可能。残りは予定通り錦州に向かう」

掃討戦にあらかた目途が立った後、沼間は、統帥本部の作戦通り行動を開始する。
彼にしてみれば、この作戦案は少しばかり巧緻に走っている部分はあったが、それでもまあ許容範囲であった。
少なくとも、主目標は徹底しているし、それを達成するための兵站も達成されている。
どこぞの水戸の馬鹿が、主目標もあいまい、兵站も滅茶苦茶という、悪夢以外の何物でもないしでかしで散々苦杯をなめさせられた沼間にとっては、この二点は死活問題であった。
まあ戦の腕はからきしだが、軍政家としては超一流の山縣や、同じく戦略の大家である種田が目を光らせているから、そういった馬鹿が組織のトップになることはそうそうないであろうが。

「第十三師団の土方中将に田庄台を抑えるように命じろ。勿論、住民に無用な損害を与えないようにな」

まあ土方中将にはいらん訓令だろうがな、と、沼間は煙草を投げ捨てながら一人ごちた。
京都で維新志士相手に猛威を振るった新撰組の「鬼の副長」であり、一部の維新志士気取りのボンクラの暴走で、西郷元帥がせっかく話をまとめた東北諸藩の恭順があわや崩壊しそうになった時に、会津の家老と共に、呵々大笑して腹を切って戦を止めた近藤勇の後を受け継いだ男は、戦術の鬼才であると共に、今ではもう珍しくなった武士の気風を頑固に守り続けていた。
そんな男にとっては、敵兵相手に詐術を使うことなど何の呵責もないであろうが、無辜の民が戦の巻き添えになることは死んでも耐えられないだろうし、仮に部下がそんなことをしたら『士道不覚悟』と、自ら首を跳ね飛ばしかねない御人である。
『文明の戦い』に拘る東京の連中としては、住民への無用な被害など御法度であり、それを考えるならば全軍の切っ先に土方中将を置いたのは、誠に理に適っていた。

「後は時間との勝負か。攻城戦を考えると正直厳しいが、あの玩具も使うか」

作戦が発動するまでおよそ3ヵ月間しかない。
第二軍団に課せられた条件を考えるならば、厳しいと言えば厳しいのだが、それで文句を言うほど、彼も旗下の将兵達もヤワではない。
ついでに言えば、東京から「攻城戦用の新兵器」とやらも複数持ち込まれてもいた。
彼にしてみれば、威力はなかなかだが「使い所が難しいな」という代物でもあったのだが、この際そう言った問題には目をつむるつもりであった。

「まあいいか。景気のいい花火と思えば」

錦州城に籠っていた劉将軍が聞いていたら、間違いなくこの発言に激怒したであろう。
沼間の言っていた「景気のいい花火」とは、史実で言う所の九八式臼砲であり、短射程で且つ数回発射すれば発射筒が壊れる代物であったが、威力直径が200m近い化物が数十発も一度に城壁に叩きつけられれば、当時の防壁で防げというのが酷というものであった。
当初の予定より幾分速い2月上旬。日本陸軍第二軍団は万全の態勢で錦州城前面に展開。
錦州城の堅い守りを当てにしていた錦州の防衛部隊は、攻撃二日目に起きた大規模な爆発と城壁の崩壊によって大混乱に陥り、そして沼間の三個師団が、軍団規模の朝駆けをかけた事で、混乱から回復することなく防衛線が崩壊し、劉将軍は自刎して果て、錦州防衛部隊の指揮系統は完全に消滅することになる。
そして沼間はその混乱を最大限利用し、遂に3月初旬には、北京への北方からの最終防衛ラインである山海関を強行策で落とすことで、統帥本部の計画をクリアすることになる。

そして、山海関陥落を以て、統帥本部は、この戦争を終結に導くべく、『烈風』作戦の発動を命じることになる。

600: yukikaze :2017/02/16(木) 00:09:35
更新終了。清国は何とか防衛戦略を固めたかに見えましたが、指揮系統の混乱を突かれて、遂に北京北方の防衛ラインが崩壊することになりました。

勿論、日本の第二軍団もある程度の損害と、インフラの問題からくる補給の減少には苦労しますが、それでもまだ戦闘能力は保っており、この圧力が北京にいる上層部をさらに混乱させることになります。

新兵器として登場させた九八式臼砲ですが、これ原理的には簡単な代物でして、短射程と砲撃の持続性のなさ、それとこの時代の火薬を考えた場合での威力の低下に目をつぶったとしても、数の暴力を受ければ、当時の清の防壁ではどうにもならないですしそれが達成できるだけの物量と、攻城戦の経験がある日本相手だったというのが不幸の元でした。

前作では、山川でしたが、今回は沼間と土方を出すことに。
沼間は板垣が「ガチで戦術能力高いわ」と嘆いたように、当時の幕府軍では一級の指揮官ですし土方もまた同じでしたので、彼らに参加してもらおうと。
なお、山川も参戦させる予定であります。

史実第一軍が求めていた遼河平原の決戦が、豊富な物量で達成できたことで、日本陸軍の選択肢は「直隷決戦」「山海関からの北京攻略」が実現可能になってきています。
次回辺りで決戦を描こうかと考えています。

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最終更新:2017年02月20日 10:56