486: yukikaze :2017/02/19(日) 19:31:24
それでは投下します。

日清戦争史 第五章 英雄

「清国は英国の仲介案を蹴ったそうじゃ。まだ負けちゃおらんて」

居間で胡坐をかきながら、男は顎鬚を扱きつつ、外務省から伝えられた情報を盟友に伝えていた。

「そいはそうじゃろ。皇城と天津を併せて10万以上無傷の兵がおっでな、気も大きなろ」
「じゃっどん。第二軍団は山海関に迫り、後続の軍勢も合わせればこっちも8万近くおっど」
「一蔵どん。人間はおかしもんでな。自分の懐に大金があれば途端に気がおおきなっど」
「そいはわかっどんなあ・・・」

幕末のお由良騒動の余波で、散々に金の事で苦労した大久保である。
人間と言うものは、金がなければないで心を荒ませてしまうことが多いが、逆に大金が懐に入ったら気が大きくなって、後から考えるととんでもないバカなことをしがちなのである。
維新志士を気取っていた面子が、政府の役人になった瞬間、これまでの地位の低さや貧乏からの反動からか、幕府の汚職役人に勝るとも劣らない愚行をしでかしたのを、彼は嫌というほど見ていた。
無論、その手のバカは、彼が即刻叩き出し、目に余るものは有無を言わさず処断したのだが。
お蔭で彼は一時期、逆恨みを受け、幾たびか暗殺の危機にもあっていた。
幸いにも、目の前の男が気を利かしてくれて、腕利きの剣客を護衛につけてくれた事で事なきを得ていたが、政府高官の何人かは実際に暗殺をされ、以降、護衛については厳しいものになっている。

「一蔵どん。我が国も同じじゃっど」
「将軍どもとそれの尻馬に乗る馬鹿な若衆でごわんか」

やはりあの時処断しておくべきだったかと、大久保は臍を噛んでいた。
陸軍において完全に非主流派となっていた桐野や谷、三浦と言った面子は、現在では退役中将として貴族院におり、政府批判の急先鋒となっていた。
大久保にしてみれば、政府批判は我慢できるが、問題はその内容であった。
『暴清膺懲』というスローガンを掲げた彼らは、政府の弱腰を批判し、今すぐにでも北京に日章旗を掲げ、清国皇帝を捕えろといった強硬意見を連日連夜主張し、それにマスメディアや視野の狭い若手や中堅の軍の連中が煽り立てることで、一種のヒーローとなっていた。
バカどもが。講和条件が「15億両の金塊」「朝鮮半島・満州・台湾の割譲」とか、我らを泥沼の戦争にそれほどまでに引きずり込みたいのか。
特に桐野は「征韓論」の頃から、薩摩の連中と語らって馬鹿なことをしでかす傾向があったが、最近では吉之助さあの言葉すら聞かなくなってきている。

「吉之助さあ。もうあいつらはよかが。見限ろう」
「一蔵どん。そげん言うが、あんしらも維新の功労者じゃっど」
「何が功労な。半次郎はあの年になって分別がなく、谷も三浦も何も学んではおらん。そもそも谷なんざ思い込みで危うく奥羽を敵に回す粗忽もんじゃっど」

全く・・・坂本の敵だか何だか知らんが、勝手に新選組と会津を敵認定して、吉之助さあが命がけでまとめた和平案をあわやぶち壊しにした男なんざ、あそこで処断しておけばよかったと、大久保は思い出しただけでも腹が立っていた。
あの時は、会津の家老達と新撰組の近藤が、江戸明け渡しの時の家茂の態度に感銘を受けて、「死に場所は今」と、見事に腹を斬ってくれたから事なきを得たものの、あそこで戦争が起きていたらどうなっていたか。
そう言えば、坂本を襲ったのは、結局は、見廻組だったようだが、あれで重傷を負った坂本が、政治にこりごりして、郷里の岩崎と組んで財界に行ったのは良かったのか悪かったのか。
坂本が政治から足を洗い、中岡は殺され、見所のあった乾は、甲府で会津の山川に討ち取られ、残ったのが小物と言っていい後藤だけ。
佐賀の江藤や大隈は、下野してもまだ一角の政治家として名を成しているが、土佐のこの状況を見れば、「薩長藩閥政府」という谷の批判にも「お前たちが碌な能力を持っていないからだろうが」と、怒鳴り付けたい気分であった。

487: yukikaze :2017/02/19(日) 19:32:34
「若衆に灸を据えればよかろ。田中に松川、井口辺りかの」
「思いっきりやっくいやい。中央の官界の連中はおいが拳骨を食らわしもんで」
「そいは可哀想に。一蔵どんの拳骨はかてでな」

破顔大笑する西郷であったが、この親友の「拳骨」は相当なものであろう。
まあ見所があるものだと10年近い地方巡りだが、見切られたものは問答無用で首だろう。
外務省の伊藤にしろ、内務省の了介にしろ、一蔵どんの視線で睨まれれば、それこそ戦々恐々だろうて。
まあ了介が一蔵どんの一喝を食らって以来、一滴も酒を飲まない状態なので、その効果は絶大ではあるが。

「まあ国内と講和条件は一蔵どんに一任する。おいは一蔵どんがやりやすいようにうごっで」
「吉之助さあ。今更ながらじゃっどん、他の者に替えられんか? 山縣も弥助どんも七次どんもおらいよ」
「山縣は戦が平凡、弥助は一蔵どんを助けないかんし、七次は戦はうまかどん、あいはきかんぼうやっでな」

大久保は溜息を吐きたかった。
山縣は稀代の軍政家ではあるが、戦の腕前は平凡で、当人もそれを気にして武功に逸りかねない所があるし野津は戦上手であるのは確かだが、良くも悪くも武人気質で政治を理解するか不明。
大山はその点バランスが取れているが、兵部大臣の要職についている状態。仮に大山の代わりとなるとそれこそ山縣を大臣に据えないといけないが、逆に「なら自分が方面軍司令官になる」といいかねない。
なにしろ軍の位階を考えるならば、西郷を除けば最高位にあるのは山縣なのだ。

「山縣の気持ちもわかっで、おいが面倒を見る。むしろ弥助が兵部大臣としておった方がよか」
「兵部大臣の命令にあっては、例え戦地におる軍の位階が上の指揮官であっても命に服さんといかんとわからせるためか」
「七次だとそれができんでなあ。「現場の事は現場がようしっちょる」とかゆっせ、大陸の奥地にまで走りかねんど」

容易にその光景が思い浮かんだのか、2人は困った表情を浮かべる。
良くも悪くも野津は、典型的な薩摩隼人である。誰かが手綱を握っていないと、暴走しかねないのだ。

「まあ清国皇帝も主力軍が壊滅すれば目もさむっやろ。さまさんでも、西太后と李鴻章が抑えるじゃろ。
皇帝はともかく、あの2人は付き合わん。英国やうちの外務省の情報だと、はよ講和をせい。条件闘争もできんぞ、というのが李鴻章。西太后も皇帝とその取り巻きの戦の拙さに辟易としているようじゃ。
まあ西太后はアロー号事件で都から逃げ出した経験があるから、都に戦火が近づくのを嫌っているようじゃが」
「幕末そのものじゃな。李が勝先生。西太后は大奥、問題は皇帝じゃが・・・」
「水戸のタワケと同じと考えていた方が良いじゃろ。そっちの方が火傷が少なくてすむ」

大久保の辛辣な評価に、西郷は苦笑するが、色々と情報を突き合わせていくと、どうもこの皇帝は責任感はあるようにも見えるが、行動が粗忽且つ軽率で、言動も空回りしがちである。
お蔭で事態を鎮静化させるどころか、悪化させる方向に努力しているようにも見えるのだが、この性格を考えるならば「遷都しても戦う」と言った所で、どこまで周囲がついていくか甚だ疑問である。
成程。あの『夢幻会』と名乗っている連中の『誰が政権の主導権を握っているのか、そこを見極めて対策を立てないと意味がない』という指摘には、学ぶものがある。
まあ桐野達とは違い、あの者達はかなりしっかりとした国家戦略を持っているようなので、西郷としても手放しで受け入れるつもりはないが、危険視するつもりもなかった。

「まあ・・・後、3月と言った所か。情報部によると、清の防衛構想も混乱の極みだそうじゃなかか」
「せっか、天津に6万の軍勢を集めたのに、山海関を陥落されたことで、半分の兵を取り上げられて北京と山海関の間に防衛線を築こうとしちょるとか。後、錦州から逃げてきた兵達を懲罰部隊として前線に縛り付けているとも」
「むごかことじゃ。そげん扱いをすれば、兵は逃ぐっど。沼間どんな見逃さんじゃろ」
「新手の第四軍団2個師団を先鋒にし、防衛線に穴をあけような。向こうでは『鬼上官』と言われとるとか」
「清正公と同じか。沼間どんもよか気分じゃろ」

かつて太閤秀吉の先鋒として、半島を制圧してのけた英雄と同じ異名をつけられたのならば、武人としては満足できるものであろう。この手の武人が好きな明治天皇も、喜んで勅使派遣をするであろう。

488: yukikaze :2017/02/19(日) 19:33:16
「沼間どんの第二軍5個師団が山海関から北京を伺い、山縣率いる第一軍6個師団が天津から北京を伺う。
後、これに支作戦ということで、威海衛を守護していた1個師団と1個旅団で、現在台湾を攻略中。
占領しているのとしておらんとでは扱いが違うとはいえ、台湾攻略戦は兵力としては痛かなあ」
「まあ台湾を抑えれば、この国の南からの防衛線はかなり楽になっでなあ。新八どんも最後の御奉公じゃというて、きばっちょっでなあ」

西郷としては、万全を期して3個師団及び海軍主力を以て攻略をしたかったのではあるが、指揮官である村田の「直隷決戦に注力すべし」の言葉で、1個師団と1個旅団。それに筑後型4隻しか派遣できない状態であった。
前述した夢幻会が「鉄道連隊及び瘴癘の地であるため、医療部隊及び医薬品の拡充は必須」と強硬に主張しそのためのマニュアル本を急いで配布したことで、台湾での病気での被害は許容範囲に収まっているのが救いと言えば救いであり、弟分である村田も病で死ななかったことに、西郷は私人としても感謝をしていた。

「どら・・・そろそろ時間じゃな」
「吉之助さあ。くどかこというかもしれんが、身体には気をつけてたもんせ」
「そいは小兵衛にいっくいやい。あいが操艦が下手じゃったら、おいは船酔いで寝込みもんそ」
「吉之助さあ。小兵衛どんは、海軍でも有数の船乗りじゃっど。あん人を下手くそ言うたら、海軍みな下手くそじゃ」
「一蔵どんのお墨付きなら怖いもんなしじゃ。おいも鼻がたかか」

兄弟愛の強い西郷である。その中でも殊更かわいがっていた末弟が、海の武人として名を轟かせているのは、肉親として嬉しいものがあった。
強制的に隠居され、心中どれだけ悔しかったかもしれないのに、そんなことはおくびも出さず、「お前は吉之助に一番似ている」と、隠居所で小兵衛に目をかけ、海軍の道に歩かせてくれた斉彬公には何百回生まれ変わっても返し切れない恩を、西郷は感じていた。

「そいでは行ってまいりもす」
「御武運を。帰ってきたときは、吉之助さあの好きな、かるかん饅頭をずんばい用意しちょっで」
「そいはよか。2人で鹿児島に帰って墓参りにいこかい」

2時間後。明治天皇の『西郷元帥を勅命を以て征清軍総司令官に任命する。将兵は須らく元帥の命に服すべし』の言葉を受け、西郷は、眼下の将兵に短く『いっど』と、述べるや、悠々とした表情で、元帥座乗艦となった『浅間』に乗り込むことになる。
西郷の雄姿に歓声を上げながら乗り込む将兵達を見つつ、明治天皇以下文武の重臣達は皆、船が水平線から見えなくなるまで敬礼し続けたという。


――天津防衛線崩壊。日本軍は北京に向けて進撃開始

この報を受けた時、李は来るべきものが来た想いを抱いていたとされる。

正直、山海関まで落とされた時点で詰みだというのに、皇帝とその取り巻き達は、錦州陥落から山海関陥落まで碌に動くことができず、右往左往するばかり。
しかも、山海関落とされてから、山海関と北京との間の防衛強化を叫びだす後手後手もさることながらその兵力を、錦州から落ち延びてきた兵を使うだけでなく、天津の兵を転用するという大愚策をしている。
これには塞防派が本気で抗議したのだが、皇帝の取り巻きにとっては「帝都防衛の兵を一兵たりとも動かすなど利敵行為」でしかなく、しかも皇帝がこういう時に限って決断力を発揮しないために、結果的に天津の軍を半数以上動かさざるを得ない羽目になってしまった。
百戦錬磨の李にすれば「血迷ったか」と吐き捨てたい気分であったが、既に軍権を事実上剥奪されている身にとっては何もできることはなかった。

489: yukikaze :2017/02/19(日) 19:34:25
そしてなお悪いことに、天津の防衛司令部では、この兵力の減少を受けて、水際で防衛線を行うか内地に引きずり込んでの防衛戦を行うかで意見が対立してしまい(兵力引き抜き前は、それぞれに均等に兵を分けていた)、しかも双方のトップが仲が悪かったこともあって、各々が勝手に防衛線を作るという、もはや勝ちを放棄したかのような有様であった。
勿論、こうした状況下で勝てるはずもなく、水際防御は敵の輸送船団にある程度の打撃は与えたものの敵の連合艦隊の集中砲火を受けて砲台が沈黙したことで敵の上陸を許し、満を持して迎撃を行った筈の部隊は、日本陸軍の重火力の前に磨り潰される羽目になっていた。
内地防衛派の将軍は、同僚のこの不手際に激怒し、救援要請を一顧だにしない傍ら、防備を固めつつ北京に援軍要請を行ったのだが、北京においては、「山海関方面の防衛もあることから現有戦力で死守せよ」という命令しか返ってこず(これは皇帝の取り巻きが握りつぶしたことが判明している)、更に天津の防衛ラインも、第一次大戦のような本格的な塹壕戦ではなく、地形は利用しているが、漫然とした布陣であることから、日本側砲兵部隊の集中砲火を受けて、部隊が混乱している間に、敵部隊の吶喊を受けて、砂上の楼閣として崩れ去ってしまっている。

「もうこれで終わりじゃな」

皇帝などは「北京にはまだ10万近い大軍がいる」と豪語しているが、向こうは天津の軍勢だけで8万近い軍勢を有しており、山海関から進撃を開始している面子まで入れると、15万人近い大軍勢である。
しかもこちらは、近代化していた北洋軍閥系の軍は崩壊し、北京にいる部隊も、多くは旧式兵器を所有している部隊である。質も量も向こうが上なのである。
一部には、「西安辺りに遷都し、日本軍を奥地に引きずり込み、消耗戦を行うことで勝てる」と、ナポレオンの一件を先例に主張するのもいたが、李からすれば噴飯ものであった。
あれは、ナポレオンは孤立しており、ロシアには列強が同盟していたからこそ成立した策であり、仮に欧米列強が日本と組んで我が国を蚕食しようと決定したらどうなるというのか。
太平天国の乱のときに、英仏がどのような態度を取っていたかを記憶している李にとっては、彼らの『好意』とやらを馬鹿正直に信じることなどできる筈もなかったのだ。

「何としても講和にもっていかなければ。まだ北京の無傷の軍勢があるうちにな」

そう。今ならまだ条件闘争は可能であった。
本来ならば錦州陥落時にやっておけばまだマシであったのだが、ことここに至っては、案山子であろうとなんであろうと『清国正規軍10万』という看板の存在が、交渉のカードになりえた。
仮にこのカードが失われれば、条件闘争すらできなくなるのである。

「敵の総大将は西郷。道理が分かる男ではあるが」

かつて彼も一度だけ会ったことがあるが、まぎれもなく英傑であった。
武人ならば誰もが誇るであろう、江戸城攻略や奥州等の平定についても、自らの功を誇ることはなく敗将であるはずの徳川家茂や他の諸侯達を褒めるなど、決して敗者を辱めるような言動はしなかった。
営利を求めることもなく、地位にも恬淡として、道理を重んずる性格。
成程。多くの将兵が問答無用で従う訳だと、李も得心していた。

「皇太后陛下は儂の言を聞いてくれるだろう。北京まで攻め込まれた以上、あの方は徹底抗戦など望まれることはせぬ。翁同和や李鴻藻等虚け者どもにこれ以上乱されてたまるか」

強硬な正論を吐くのは結構ではあるが、実力の伴わない正論ほど始末に負えないものはない。
彼らのくだらない言説のお蔭で、皇帝の権力強化どころか首都失陥の危険性すらでているのだ。
軍事指揮権はないが、内閣学士兼総理衙門大臣ではあることから、李は戦争指導の稚拙さを以てこの両名を含む皇帝の取り巻きの排除を決意していた。

「急がねば・・・何としても奴らの旗がこの外壁から見える前に意見を纏めねば」

皇帝に対する敬意はとっくに失っていたが、国に対する忠誠はまだ失ってはいなかった。
李もまた確かに愛国者であり英雄であったのだ。
惜しむらくは、西郷には仕えるにたる君主に恵まれていたのに対し、李の場合は真逆であったことなのだが。
もっとも・・・李の行動はあまりにも遅すぎた。

490: yukikaze :2017/02/19(日) 19:35:05
「馬鹿な!! あまりにも早すぎる」

報告を聞いて3日後。李は、茫然とした表情で、外壁越しから日本軍の旗を見つめていた。
李のこれまでの経験を考えるならば、部隊の再編と補給の関係から、彼らが到着するのは1週間後と見ていたのだが、彼の予測を上回るような速さで、日本軍は進撃してきたのだ。
無論、天津に上陸した6個師団全軍という訳ではないものの、少なく見積もっても、4万以上はいると見積もっていた。

「奴ら・・・朝夕関係なく駆けてきたというのか」

李の予測は間違っていなかった。
天津の防衛ラインを撃破した山縣は、念願の武功を立てたことに大いに満足してのけたのだが、同時に『北京一番乗りを果たしたい』という欲求に耐え切れず、小川又次参謀長もそれに同意したことから予備としていた第三軍(九州中心の軍勢:軍団長は野津道貫中将)に対して、「北京まで突っ切れ』と命令。野津も『山縣どんも、ちったあ戦が分かってきちょいもすな」と、快諾してのけ、暴走に近い進撃を開始したのである。
西郷や総参謀長である奥保鞏は、この暴走に半ば呆然としたとされるが、慌てて進撃停止を命じようとする奥に「保鞏どん。あげんはやっちょる軍勢を止めようとしても無駄じゃ。おい達もはしっど。七次にはおいが来るまで防備を固めよと命じてくいやい」と、西郷はこの暴走を半ば追認すると共に、馬に乗って駆け出すことになる。(なお、山縣以下の諸将は、西郷が北京に到着した後、『第二軍との連携を考えずに功に逸るとはそれでも大軍の将か』と、大雷を落とされることになる)

「いかん・・・このままでは」

半ば呆然としていた李であったが、ある事実に気づいて今度こそ顔から血の気が消える。
そう。敵軍が予想以上に早く進撃し、同時に敵軍の数がこちらよりも少ない場合、思慮の足りない連中が何をしでかすかと言えばたった一つである。

「正門前に行くぞ。バカどもを止める」

あたふたする従卒達を尻目に、李は全力で馬を飛ばす。
これが北京の全軍による平押しならば、まだ敵軍を押しつぶせるかもしれないが、もし敵の姿を見て頭に血の昇った将帥が、三々五々出撃してしまえば、取り返しのつかないことになる。

「速まるな・・・速まるなよ」

だが、李の願いもむなしく、彼が正門前についた時には、既にいくつもの部隊が「倭の連中を追い返せ」と、叫び声を上げながら出撃し、更に他の門からも出撃している有様であった。

全ての終りに地面に座り込む李の耳には、日本軍の間断なき砲撃と射撃音。
それに清国の兵達の断末魔の叫び声がいつ終わるともなく続いたのであった。

491: yukikaze :2017/02/19(日) 19:47:41
更新終了。今回は英雄の対照的な状況を描いてみました。

山縣及び野津の独断ですが、これは日清戦争でもやらかした前科から。
相手が小出しに波状攻撃を仕掛けたのと、こちら側が機関銃を大量に用意し、敵の砲撃にもカウンターで潰せたことから、今回は勝利に持ち込めましたが、本来第二軍と共同して北京攻囲する計画を壊していますので山縣と野津は本気で西郷から絞られることになります。

実際、西郷は沼間に対して深々と詫びを入れ、山縣や野津も自分達のしでかした事の拙さを骨身に浸みることになり、少なくとも戦術面はともかく、戦略面での独断専行は日本陸軍では完全に御法度になります。

なお、北京の部隊ですが、何だかんだ言って失われたのは数千レベルであり、総兵力は天津から引き抜いた部隊も入れれば、8万近くは無傷の軍がいます。
まあ、山海関からの防衛ライン碌に作られずに、急行してきた第二軍併せて、10万人以上の日本軍に、首都を取り囲まれ、布陣直後に攻めて散々に叩かれたという事実を見て継戦意欲があるかと言えば困難ですが。

次回はいよいよ講和問題に。
しかし・・・ひゅうが氏のように派手な会戦書きたくても、どうにも政治談議に
終ってしまうなあ。

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最終更新:2017年02月23日 21:35