333: yukikaze :2017/06/17(土) 01:52:21
日露戦争史第六章が出来上がりましたので投下します。

日露戦争史 第六章 旅順要塞

旅順。
それはロシア人が、極東制圧の為の橋頭保として新たに獲得した不凍港である。
ロシアにおいて最精鋭と言える艦隊を配備したこの軍港は、同時に、大量のコンクリート製陣地と大口径砲の数々、そして無数の機関銃で武装された、極東最大最強の大要塞でもあった。
海上から接近すれば黄金山砲台と老弧山砲台という二つの砲台から放たれる大小無数の沿岸砲が待ち構え、陸上においても、203高地や大狐山を含む充分に広い防御線に、大小数百門に近い火砲が備えられるという鉄壁振りであった。
これだけでも『難攻不落』といってよい威容を誇っていたのだが、ロシア旅順総督として任命されたスミルノフ中将は『これではまだ不足』であるとして、老左山から双台溝を結ぶラインを外周防御陣地として構築することによって、要塞の防御力をさらに高めようとしていた。

この試みは、極東総督府でも是とされてはいたものの、それにかかる費用が莫大なものであったことから、それよりもコストがかからず、しかも範囲が狭いことから守りやすいとして、南山陣地の強化を優先するように命じている。
ロシア側の油断と見なされることになるこの決定ではあるが、当時のコスト等を考えれば極東総督府の判断は常識的なものであり、スミルノフ中将も、不平を言わずに従っていることを考えても、妥当な決定であったと言える。
日露戦争開戦時、ロシアの旅順方面部隊は、フォーク少将率いる1個師団が、南山陣地において外周防衛ラインを形作ると共に、旅順要塞には、海軍将兵や軍属を除いても、総兵力5万名近い軍勢が、この大要塞を守護していたのであった。

『旅順の要塞を落とすなど神の御業を以てしても不可能である』

旅順要塞の守備兵が豪語するのを裏付けるように、多くの軍事評論家たちは、旅順要塞の鉄壁振りを評価し『この要塞を攻略するためにはどれだけの兵員の犠牲を必要とするか見当もつかない。セヴァストポリ要塞戦より悲惨なことになるのは間違いない』と、結論付けており、グリッペンベルグ総司令官も『海城と旅順の要塞線によって、マカーキどもはその汚らしい死体を積み上げることになるだろう』と、嘯く状況であった。

さてこの大要塞に対し、日本側は、当初は『包囲による遊兵化』で済ませる計画であった。
満州総軍総参謀長である児玉源太郎の言葉を借りれば『満州平野での決戦に兵が一人でも欲しいのに、なんでこんなところで消耗戦をしないといけないのだ』という認識であり、南山の陣地を落として、そこに2個師団程で蓋をして以降は、旅順の部隊は黙殺するのが共通認識となっていた。

だが、この計画は2つの要因で齟齬を来すことになる。

1つは、太平洋艦隊司令部が消滅したことにより、新司令長官となったスタルク大将が、日本側の特殊潜航艇の活躍に過敏に反応し、特殊潜航艇が侵入できないように水雷網等で防備を固めた結果、逆に、艦隊の行動に支障をきたす羽目になったのである。
伝え聞いたアレクセーエフは『いつから太平洋艦隊は臆病者の巣窟になったか』と、激怒したのだが、スタルクにしてみれば『貴重な戦艦を無防備にすることで沈める馬鹿がどこにいる』と、アレクセーエフの認識こそ現実を無視していると考えており、新たに任命された太平洋艦隊のスタッフも、スタルクと同じ考えでまとまっていた。
『特殊潜航艇による戦艦の撃沈』という事実は、日本側の想定以上に、太平洋艦隊の将兵に深刻なまでのトラウマを植え付けていたのであった。

334: yukikaze :2017/06/17(土) 01:52:56
もっとも、日本側がこのロシア海軍の心境変化に気付くのは、かなりの時間がかかることになる。
日本側は、ロシアの行動を『特殊潜航艇対策』とまでは正確に理解していたものの(水雷網に機雷をくくりつけて、特殊潜航艇の侵攻を困難にさせるさまを見れば、誰もが理解した)、彼らが旅順港に引きこもるとまでは想像ができなかったのだ。
一部には『ロスケはやる気をなくしたのでは』と、推測する者もいたが、万が一、包囲網を緩めた間に、ロシア艦隊の一部が強行突破して、ウラジオ辺りに逃げ出したら、目も当てられず、更にロシア本国で、バルチック艦隊から増援が派兵されるという情報が真実味を帯びたことから、旅順要塞攻略による、太平洋艦隊撃滅を求める声が高まることになる。

これだけならば、陸軍が積極的に動いたかは定かではない。
だが、もう一つの理由は、陸軍も動かざるを得ないものであった。
それは何か? 簡単に言ってしまえば、陸軍に『武勲』がないことであった。
海軍は、何だかんだ言っても、太平洋艦隊司令長官ごと戦艦1隻を沈め、ウラジオ艦隊も壊滅させるなど、国民や世界に向けてのアピールに成功していた。
反面、陸軍は、難民爆弾への対処など『高潔なサムライ』というイメージを世界に向けて発信し、ある程度は受け入れられたものの、『武勲』という点では、何のアピールもなかった。
当初の予定では、朝鮮半島を北上する第一方面軍が、平壌か鴨緑江辺りで、ロシア陸軍を華々しく打ち破って『日本陸軍侮りがたし』という印象を与える筈だったのが、現在の状況では『非道だがロシア陸軍は世界でも有数の強さを誇り、日本陸軍では対抗できない』という固定観念を払拭することはできていなかった。

故に、ロシアが散々宣伝し、世界の軍事評論家たちも高く評価した旅順要塞を攻略することによって日本陸軍の武威を見せ、遼陽での決戦に弾みをつけるべしと言う意見が、陸軍内部から出るのは当然であったし、外債の公募に弾みをつけたい大蔵省や、講和時の交渉においてカードにしたい外務省側の要望等も強まることになった。

山縣や種田にしても、ややもすれば『政治が作戦を捻じ曲げる』行為に顔をしかめたものの、政治戦略はもとより、軍事戦略上も一理あることから、統帥本部に戦略の変更を打診。
沼間統帥本部長も『まあ戦術的理由で戦略を捻じ曲げるよりはマシか』と、今回の変更の理由があくまで戦略上の理由であるという事実と、難民爆弾対策で混乱が生じていた兵站が漸く安定したこと、そしていい加減、第一方面軍の将兵を遊兵化する理由がないことから、満州総軍の大山元帥と相談の上、第一方面軍第二軍に属する第三軍団に各種増援部隊をつけて、旅順攻略戦を行うことを正式に決定。併せて、5月から続々と揚陸を開始していた第二方面軍、第三軍に対しては南山陣地を速やかに落とすように指示していた。

沼間も大山も、第二方面軍は、あくまで遼東半島から満州へ進撃する部隊であり、主力部隊が遼東半島に集結した以上、兵力不足の為に放置せざるを得なかった南山の部隊を、これ以上野放しにする必要もなかったのである。
彼らがこの一件をどれだけ重視していたかと言う点については、突貫工事で修復が終わった、第三艦隊の『生駒』『浅間』を中心とした艦隊に、南山陣地への艦砲射撃を行うように命じ、第三軍直轄の重砲兵旅団だけでなく、第一方面軍に属する重砲兵旅団2つもこの戦闘に投入し可能な限りの重火力をぶつけることによって、早期に南山を陥落させようとしたのである。

『可及的速やかに南山を落とし、北上すべし』

という、満州総軍の命令に、第三軍司令官であり、旧幕府軍屈指の智将と謳われた山川浩大将は、『日清の時と同様、奥州の武威見せよ』と、旗下全軍を叱咤。
諜報によって、未だ工事未了である陣地に対して、火力を一点集中させると同時に、そのあまりに苛烈な砲火に、指揮官のフォーク少将が堪らず一時撤退を命じるのに乗じて、総攻めを敢行する。

これにより、ロシア軍は、南山にいた主力部隊は、2,000の損害を受けて、旅順に撤退。
金州城に籠っていたロシア軍も、圧倒的な兵力差に抗戦は不可能と判断し、降伏をすることになる。
もっとも、兵力差は6倍以上あり、且つ重砲兵旅団3個を動員し、しかも指揮官は日本軍でも名将と言っていい山川浩が直率して尚、死傷者数が3,000近いという事実に、統帥本部や満州総軍では『南山でこれなら旅順ではどうなるのだ』と、誰もが顔を青ざめることになる。
机上では分かっていたものの、永久保塁と機関銃及び鉄条網の組み合わせがいかに凶悪かを改めて理解させられる事実であったのだが、不幸にも、この戦訓をまともに読み取ることができたのが日本陸軍と観戦武官の一部(その一人にマッカーサーがいた)しかいなかったところに、第一次大戦の悲劇のフラグがたっていたのであった。

335: yukikaze :2017/06/17(土) 01:53:48
さて、多少の損害と引き換えに、南山を落とした第三軍は、ロシア軍の南下を防ぐべく、得利寺付近で防衛ラインを構築していた第四軍(指揮官:大島義昌大将)に合流し、ロシア軍と睨み合うことになるのだが、それと入れ替わるように、第一方面軍第二軍(司令官:川村景明大将)に属していた第三軍団は、第一方面軍及び第三方面軍から要塞攻略の為の支援部隊の増援を受けて、7月初旬、遂に旅順要塞の外縁部を視界に入れることになる。
基幹となる部隊は、第三軍団の3個歩兵師団及び、第一方面軍第一軍団から引き抜かれた1個歩兵師団の4個師団。これに、第一方面軍第一軍及び第二軍それに第三方面軍の第五軍及び第六軍の重砲兵旅団の4個重砲兵旅団(及び第三方面軍所属の砲兵師団2個も急遽増援)、変わった所では、各軍管区に直属し、災害時において国土交通省と緊密に連携を取る工兵司令部も、この地に降り立っていた。

総兵力8万に近い大軍。
そして現時点においては、日本でも最大級の重火力を持つこの部隊は、戦の結果いかんにおいては、戦争遂行に多大な困難を及ぼしかねない存在(何しろ日本の軍司令部直轄の重火力部隊の少なくない数が第三軍団に与えられたのである。特に第三方面軍は、軍直轄の砲兵部隊全てを召し上げられている)にもなっていた。並みの指揮官ならば、この戦力を与えられたことに、舞い上がるどころか、ストレスを覚えるのが普通であったろう。
もっとも、第三軍団を率いる男にとっては、『ストレス』だの『逡巡』だのという言葉なんぞ、犬にでも食わせておけと、鼻で笑い飛ばしていたであろうし、沼間や大山も「あの御人だったら、馬鹿な使い方は絶対にしない」と、心配するそぶりを見せようともしなかった。
当然であろう。第三軍団司令官は、あの事件がなければ、方面軍司令官の座にいても全くおかしくない程の軍才を持っていることは、陸軍の誰もが知っていたのだ。

野津道貫中将。
日露戦争において、日本陸軍で最も活躍したこの名将は、かつての汚名を返上すべく、猛る心を抑えながら、己が攻略すべき要塞をじっと見つめていた。


「あの要塞は、馬鹿正直に攻めたら何十年かかっても、何百万人繰り出しても落ちないでしょう」

布陣して三日後、幕僚たちを引き連れて、詳細に要塞外周を偵察した、第三軍団参謀長上原勇作少将から出たセリフは、作戦会議に参加しているすべての将官が感じ取っていたことでもあった。

「流石ロシアは大国よ。大陸の小田原城じゃ。あれは」

戦国の世において、難攻不落の名前をほしいままにし、遂に力攻めでは落ちなかった城の名を出す第八師団長の小川中将に対し、幕僚たちは、ある者は無言で要塞の図面を見、ある者は目を閉じて腕組みをしている。
困難であることは理解していたが、聞くのと見るのとではやはり違いがある。
どれだけの損害を受けてなお、要塞外周すら抜けない可能性すらある。

「南山の時のように火力による集中突破ではいけませんか?」
「それだけじゃ不足だ。まだ未完成な南山ですら、あれだけの兵力差と火力があっても、3,000近い兵が死傷している。旅順は南山の時とは比較にならん」

臨時的に各重砲兵旅団等を攻城砲兵集団として統括することになった、大迫尚道少将に対し、上原は、軽く頭を振って答える。
確かに重火力によって敵陣を根こそぎ吹き飛ばしてのける方が、肉弾で突撃するよりもはるかに損害を逓減することは可能であるが、防御陣地と言うのは、とにかくしぶといのである。
そして1丁でも機関銃が残っていた場合、突撃した兵がどうなるかは、南山で嫌と言うほど理解していた。

336: yukikaze :2017/06/17(土) 01:54:37
「頼みの伊地知砲も射程がなあ・・・」

重砲兵旅団長の嘆きに、何人かの砲兵部隊の人間は溜息を吐いていた。
砲兵総監となっている伊地知幸介中将が設計し、日清戦争での大威力から『伊地知砲』『国崩し』とまで言われていた23式臼砲(史実九八式臼砲。ただし威力は史実よりも劣る)は、威力直径が200m近く、この時代では大威力と言ってよいのだが、射程が1km程度しかなく、火砲はおろか、機関銃の射程範囲内という悪夢であった。
まだ連隊砲として配備された二十二年式速射砲(史実有坂砲)か、伊地知が『23式臼砲より簡便に扱える』として開発させた32式歩兵砲(史実四式二十糎噴進砲:ただし盛大に噴煙が上がるため、現場からは威力はともかくとしても、えらく嫌われた)を利用した方がマシと言うのが現場の意見であり、伊地知砲が利用できるのは防衛戦ならともかく、攻勢では困難と見なされていた。
(実際には、その火力と隠匿性と機動性の高さから、何だかんだで第二次大戦まで現役であった)

「ないも悩むことはなか。昔のように城攻めをすればよかことじゃ」

全員が悩む中、野津は『何をそんなことで悩んでおるのか』と言わんばかりの声を出す。

「いや・・・閣下」

軍団長はついにボケたか? 南山の被害を理解できていないのか? 統帥本部の連中が『被害は僅少に』と言ったのを忘れたのか? ありとあらゆる感情を浮かびながら反論しようとする面々であったが、野津はそれこそ呆れたような声をだして答える。

「大坂城の戦を忘れたのか。あの時、権現は大筒や火中車を使って、豊臣軍の動きを止めつつ仕寄り道を複数作って、城へと迫っていったではないか。真田丸の活躍ばかりに目を向けていたのか」
「あ・・・・・・」

野津の指摘に、全員がバツの悪い顔を浮かべていた。
成程。『旅順要塞』という難攻不落の存在に気を取られてばかりいたが、『城攻め』と考えれば重火力と防衛力に優れた城を落とす例はいくらでもあるのだ。

「参謀長。おはん、坑道掘削作戦の戦術研究と訓練を工兵総監時代にしちょったどが。ないを出し惜しみすっとか」
「申し訳ありません」

野津の叱責に、上原は恐懼して答える。
上原自身、出し惜しみするつもりはなく、まずは全軍に要塞戦闘の難しさを共通認識させたうえで坑道掘削作戦を受け入れてもらおうと考えていたのだが、義父にとっては「遅い」という気分であったのだろう。
いや・・・むしろ「危機感が足りない」と思われたのか。

「まあよか。そいより決めんといかんとは、どっちを主攻とするかじゃ」

その言葉に、誰もが先程以上に悩ましい表情を浮かべていた。
旅順の攻め口は大きく分けて2つあった。
1つ目は、大狐山から東鶏冠山堡塁を抜いて、ロシア軍支援砲撃の要であり、旅順港及び市街地も全てを見渡せる望台までを占領すること。
2つ目は、西方から203高地を落として、旅順港を観測できる箇所を保持。以降は砲撃を主体として、旅順艦隊を殲滅しつつ、203高地を奪回しようとする敵軍に対して消耗戦術を行うことである。

337: yukikaze :2017/06/17(土) 01:55:10
仮に旅順要塞攻略軍が、1個軍あれば、誰も迷わずに第一案を採用していたであろう。
東鶏冠山堡塁から望台までの地域は、旅順要塞にとっては大手門から二の丸を制圧されたものであり、事実上、要塞の陥落と同異義語でもあった。
実際、要塞を確実に陥落させるには、望台まで落とさないと、ロシア側の継戦意志は折れないという声が陸軍内部でも強く、要塞攻略作戦の立案でも、同案が主流となっていた。

だが、第三軍団の兵力と、南山での被害が、第一案を躊躇させることになった。
南山で圧倒的なまでの兵力差と砲兵戦力を以てしてなお、死傷者数が3,000人近いという事実は、陸軍中央の顔色を青ざめさせるのに十分であったのだが、旅順は南山よりも防御は固く、守備する兵員も多いのである。
ある程度の兵力差は大火力で補えると判断していた陸軍中央も、近代要塞の防御力の硬さの事実に『大火力があっても、正面を攻めれば、第三軍の方が一方的に消耗するのでは』という懸念が日増しに強まっていったのであった。
普通ならば『では増援を』と、言いたい所ではあったが、陸軍にとって旅順はあくまで『第二戦線』でしかない。そんな戦線に、軍勢を集中させるのは本末転倒と言ってよかった。

そうした中、注目を浴びたのが第二案であった。
統帥本部の一部が立案したこの案は、防備が固められているとはいえ、東鶏冠山堡塁よりはまだ防備が弱い(東鶏冠山堡塁は、他の保塁との相互防御態勢が緊密化されているのに対し、203高地に関しては、あくまで前進陣地という側面が強く、また地形上の問題で、203高地、老虎溝山、化頭溝山に造られた保塁は、他の保塁からの援護射撃は受けられるが、相互の側防射ができず、斜面が急であるため、射線に死角が生じていた。)ことから、万難を排して203高地とその周辺を落とすことにより観測所を設置。
これにより重砲部隊の砲撃で、湾内の旅順艦隊を殲滅すると共に、堪らず奪回に赴いたロシア陸軍要塞守備兵部隊を、こちらの防御陣に引きずり込んで火力で押しつぶすという案は、上手くはまれば被害をそれなりに抑えて、要塞を開城できる可能性はあった。

もっとも・・・上原達は、第二案には懐疑的であった。

確かに上手くいけば、比較的早期に旅順艦隊を消滅させ、相手側を損耗させることができるであろう。
何しろ、こちらの持っている砲火力は、南山に籠っていたロシア軍を軽く超えている。
ロシア側が馬鹿正直に殴り掛かってきた瞬間、南山の何倍もの地獄を現出させることも可能である。
だが・・・問題は、ロシア側にとって、203高地などはあくまで大狐山や水師営保塁と同様、あくまで要塞の外壁陣地であり、仮にそこが落とされても、要塞の中枢は無傷だということである。
ロシア側がこちらの思惑に乗らず、要塞で持久戦に出た場合、日本側は4個師団及び有力な砲兵部隊を、旅順に拘束されたままと言う状況に陥るのである。
兵力を遊ばせておく気など更々ない上原達にとっては、203高地方面への攻勢は『時間の無駄』としか見えなかったのだ。
(西方主攻を行うには展開までに敵前の開けた平地を長駆移動せねばならず危険という問題もあった。)

「やはり・・・大狐山方面からでしょうな」
「被害はでますが、要塞を落とすのであれば」
「兵の被害については、坑道戦術と砲撃である程度は抑えられましょうし」
「それしかないですな」

沈思黙考の後、上原の言葉を皮切りに、将官達は口々に、第一案を採用するべきであるという意見を出す。
彼らの役割は『旅順要塞を落とす』ことであり、それを果たす最短経路は、大狐山方面からの攻勢に他ならなかったからだ。
犠牲が多く出るのは間違いないだろうが、それはもう覚悟の上であった。

「わかった。軍団長として命令を下す」

ひとしきり意見が出そろった後、野津は静かに決定を下すことになる。

「第三軍団は203高地を主攻とする。これは軍団長命令である。直ちに準備に取り掛かれ」

338: yukikaze :2017/06/17(土) 02:01:56
これにて投下終了。次回はいよいよ旅順要塞の戦闘へと移ります。
野津中将の判断は吉と出るのか凶と出るのか。
野津がなぜあのような判断をしたのかを、次回では描く予定です。

旅順要塞ですが、史実と比べても要塞の規模が拡大しており、且つ東シベリア第四及び第七師団だけでなくシベリア第九師団も最初から配備されるなど、兵力も上がってきています。(まあ南山で第十八師団は半壊していますが)
なお第四師団の半壊も、色々と旅順攻略戦に影響を及ぼすことに。

しかしつくづく思ったのが、兵力もっとあれば、ひゅうが氏レベルの派手な
戦いできただろうなあと。

620: yukikaze :2017/11/04(土) 21:21:56
なお、第六章の訂正として、南山攻略で半壊したのは第四師団ではなく第十八師団に変更をお願いします。

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最終更新:2017年11月05日 12:07