30: yukikaze :2017/06/23(金) 00:54:29
日露戦争史 第7章投下します。

日露戦争史 第7章 旅順開城

「第三軍団は203高地を主攻とする。これは軍団長命令である。直ちに準備に取り掛かれ」

野津中将の命令に対し、部屋は一瞬のうちに凍りついた。
いや凍りつかざるを得なかったというのが正しいか。
それほどまでに、この老人の発した命令は、部屋の人間に衝撃を与えるものであった。

「閣下・・・今、なんと」

若干の震えを帯びていることを自覚しながら、上原参謀長は敢えて軍団長に聞き返す。
無論、その行為は、軍の統率上絶対にしてはならない行為(明確な法令上の違反でない限り上級司令部の意見に疑義を挟むなど、軍の根幹にかかわるため)なのだが、上原にはそんなことに構っている余裕はどこにもなかった。

「おはんは・・・軍団長の命令を否定するのか」

野津の声は極めて厳しいものであった。冷たさすらあった。
場合によっては、この時点で参謀長解任すらしかねない雰囲気であった。

「いいえ。しかし、軍団長の決定の理由が分かり申さん。分からんままでは作戦は立てられません。
分かったふりをして間違いを犯すわけにはいかんのです」

上原は、頭を下げながらも、野津の真意に対して問いただした。
今のままでは、軍団長と旗下師団長との間で溝ができかねず、そんなことになれば、攻略に掛かる以前の状況になってしまうのだ。参謀長としてそれだけは避けたかった。

「わかった。なら、おいがいっきかすっで、最後まで黙って聞きやい」

野津は、一息溜息を吐くと、上原と同様、納得していない面々の顔を見て、理由を述べ始める。

「まず、大孤山方面から攻めるには兵が足らん。こっちに後2個師団。またはロスケの兵が1個師団少なければ、違ってはおったが、あの連携した保塁群を陥落させ且つ維持するには、持ち駒がなさすぎる」

「次に、おい達の最終目的は、旅順要塞の陥落ではあるが、同時に旅順艦隊を追い出すことでもある。
あん艦隊さえいなければ、陸軍はさらに輸送船を効率的に使える。つまり、要塞よりも先に、あん艦隊をどうにかせんといかん」

「3つ目は、ロスケの総大将は、海軍提督であるということよ。艦隊が一方的に打ち据えられると言う状況に耐えられるち思うか。脱出を命じようにも、ロスケにあるのは貧弱な施設しかないウラジオのみ。つまり、203高地奪回に向けて、要塞の守備兵を動かさざるを得ないということじゃ」

「最後に、大孤山の兵は、戦意に満ちておったが、203高地方面の兵は、搦め手であるせいか、どこか気が緩んじょった。相手のよわか所をつくは戦の常道。これが軍団司令官の決心の所以である」

そう言うと、野津はじろりと参列者を見回していた。
これで理解できんような馬鹿は第三軍団には不要と言わんばかりの態度に対し、第1師団長がおずおずと挙手をし、発言を求めた。

「203高地の攻勢理由は理解できました。その上でお尋ねします。大孤山及び水師営保塁の部隊の牽制にはいかほど手当をするつもりでありましょうか」
「大孤山は、お前の第1師団を使う。3個連隊をそれぞれ、大孤山、団山子、大八里庄に布陣。第二騎兵旅団と共同して、敵部隊の浸透を防げ。砲兵師団1個を直援につくっで、大丈夫じゃろ。水師営は、小川、おはんの第8師団を総予備とするで牽制せい」
「お待ちください、閣下。我が第8師団は、総予備ではなく先陣で」
「心配せんでよか。第13師団と第22師団と言えども、203高地の攻略には損害を受け、一時的に休息が必要じゃ。その間、203高地を守るのはお前と第8師団じゃ。ロスケの軍勢相手に一番きつい戦を与えてやるから満足せい」

事もなげに言う野津に対し、小川は「それならば」と、満足した顔で引き下がった。
第13師団及び第22師団長は「こいつら正気か?」と言わんばかりの感情を内心抱いていたが、あの北京での戦以来、共に冷や飯を食らい続けていた野津や小川の間には、余人では立ち入れぬほど深い信頼関係が構築されていた。

「他に質問はあるか? なければ準備に取り掛かれ」

その声に、全員が起立し、敬礼を以て答えた。

31: yukikaze :2017/06/23(金) 00:55:09
日本側が旅順攻略に関する作戦案を纏めていた時、ロシア側も又、防衛計画の策定に余念がなかった。
もっとも、ロシア側に関しては、策定と言うより確認の度合いが強かったのではあるが。

「では当初計画通り、我々は、要塞正面である東鶏冠山堡塁及び水師営保塁を中心とした防衛線を引くことにする」

旅順総督兼要塞司令官であるスミルノフ中将の宣言に、食って掛かったのは、参加者全員の予想通りシベリア第四師団長のアレクサンドル・フォーク少将であった。

「この兵力配置で、日本軍が203高地に全軍上げて攻め込んだらどうするつもりなのですか。203高地は旅順艦隊の死命を決しかねない場所ですぞ」

そう力説するフォークであったが、会議室に集った面々は、スタルク司令長官を除いては、全員白けきった顔であった。

「ほう。では君は、我々が203高地に君が満足できるだけの兵力を配備する代わりに、東鶏冠山堡塁が落とされて、望台まで占領されて、艦隊どころか要塞全域まで、日本軍の観測を許す羽目になったらどう責任を取るのかね?」

スミルノフの指摘に対し、フォークは一瞬言葉を詰まらせるものの、すぐに声を張り上げて反論した。

「東鶏冠山堡塁及び水師営保塁は、複数の保塁が連携しあっています。つまり、少数の兵であっても充分に守れるということです。しかし203高地方面は違います。他の保塁からの援護射撃は受けられるが、相互の側防射ができません。これは工事を指揮したコンドラチェンコ少将が一番知っているでしょう」

フォークから名を出された、コンドラチェンコ少将は、一瞬嫌な顔をしたものの、フォークの意見に対して返答を始める。

「確かにフォーク少将の言葉にも一理あります。203高地の前進陣地は、地形上の問題から、相互の側防射ができない状況になっています。必然的に、東鶏冠山堡塁方面及び水師営保塁方面と比べると、保塁防衛に人員が必要なのも事実です」

その言葉にしてやったりとするフォークであるが、コンドラチェンコは、つまらなさそうな顔で言葉を続ける。

「ですが・・・一体フォーク少将は、どれだけの兵力を欲するのですか? 貴官が有している2個連隊があれば、充分に守り切れるだけの防御陣地を構築したと自負しているのですが。しかも貴官がふんばっている間に、水師営保塁方面を守備するコンドラトウイッチ少将旗下の1個旅団や東シベリア兵第5連隊同じく3個補充大隊が、大案子山保塁群から増援に向かうようになっているのです。これ以上何を望むというのですか」

最後には呆れを隠そうともしないコンドラチェンコの声に、部屋の全員が、彼の意見に同意するかのようにフォークに対して冷たい視線を向けていた。

「そもそもフォーク少将。貴官は不平ばかり言っているが、南山で貴官が油断さえしなければ、そもそもこうした事態は起きなかったのではないかね。お蔭で1個旅団喪失しているではないか」

コンドラトウイッチ少将の揶揄しきった声に、フォークは憎悪に満ちた顔でコンドラトウイッチを睨む。

「偉そうに言っているが、貴様は旅順で昼寝をしていただけではないか。南山で俺達がどれだけ地獄を見たと思っているんだ」
「ふむ。地獄とやらを見たのはナディン少将だろう。何しろ彼に防御を任せて、貴官は第一旅団とともに撤退したからな。援軍にいこうにも、司令官が逃げ出してはなあ」

肩をすくめながら揶揄するコンドラトウイッチに、フォークは顔を真っ赤にさせて掴みかかろうとするが「いい加減にせんかフォーク少将。敗戦の将が見苦しい」という、スミルノフ中将の叱責により、屈辱に満ちたまま立ち尽くしざるを得なかった。

「それほどまでに貴官が、防衛が難しいというのなら仕方がない。コンドラトウイッチ少将。すまんが貴官の旅団を203高地方面の防衛に回してくれ。その代り、フォーク少将の第一旅団並びに、東シベリア兵第5連隊、3個補充大隊については、貴官が適宜運用してくれて構わない」
「私から兵を取り上げると言われるのか!!」

そう絶叫するフォークであったが、もはや誰も彼には取り合わなかった。
もはや彼は、旅順要塞内においては『負け犬』以外の何物でもなかったからだ。
呆然とする彼を尻目に、淡々と防衛計画の細部が煮詰められているのだが、後にロシアの公刊戦史は『フォークをここで放置してしまったのが、最大の敗因となった』と、評価することになる。

32: yukikaze :2017/06/23(金) 00:56:00
1904年8月27日。
第三軍団が旅順を攻囲しておよそ2か月後のこの日。
それまで散発的な砲撃戦以外、静けさを保っていた旅順要塞全域で砲声がとどろくことになる。

「大孤山保塁。通信が途絶しました」
「東鶏冠山堡塁に猛烈な砲撃が集中しています」
「水師営保塁方面からも、要塞砲クラスの砲撃が加えられているとのことです」

各保塁から齎される報告に、スミルノフ中将は、傍らに控えている参謀長のレイス大佐に顔を向ける。

「マカーキども。意外と砲を持ってきたのだな」
「マカーキも、肉弾では落とせないと思ったのでしょう。少しは知恵があるようです」
「まあ、母なるロシアに戦いを挑んだ時点で、その知恵も程度が知れるがな」

含み笑いをしながら、スミルノフは直ちに対抗砲撃を行うように命令する。
幾らマカーキ製の低性能砲とはいえ、撃たれっぱなしであるのは、心理上問題がある。

「203高地方面はどうなっているか」
「はっ。現在のところ、敵軍に全くの動きなしとのことです」

レイスの問いかけに対し、通信担当の兵は即座に返答する。

「参謀長は気になるのかね?」
「いえ。ただ参謀長として、念の為に確認しただけです。どうやら203高地はあくまで牽制かと」
「当然だな。あんなところを攻めても要塞には影響はない。攻め口は、やはり」
「水師営保塁方面を落として、二龍山、松樹山保塁を抜き、後方から望台を狙いますか」
「大孤山から東鶏冠山堡塁の方面が一番強固だからな。望台を落とすとなると・・・」

スミルノフは、机に拡げられている地図の地点を指でなぞりながら、日本側の動きを予測する。

「まあ兵力差を考えるとそうなるか」
「ええ。そうなります」

そう言って2人は含み笑いをする。
ロシア側が予測した主な攻勢面は2つ。
1つは大孤山保塁から東鶏冠山堡塁を抜けて望台に抜ける方法。
もう1つは、水師営保塁から二龍山、松樹山保塁を抜き、後方から望台を狙う方法である。
そして、コサック騎兵を使った威力偵察から、日本軍は、水師営保塁及び二龍山保塁を主攻と考えていると見込まれていた。

「しかしマカーキどもも愚かだな。わざわざ塹壕線を掘ってくるなど、主攻部分を教えるようなものではないか」
「ええ。要塞攻略の根底は、強襲か奇襲。やつらはヴォーバンの時代から進化していないようですな」
「坑道戦術も使ってくるようだが、なにこちらが爆破してやればいい。機関銃もたんまり用意している」

盛大なる歓迎会の結果を予想し、2人は可笑しくてたまらぬと言わんかのように、笑みを浮かべる。
恐らく、今回の攻勢で、日本の攻囲軍は大打撃を受けるのは間違いなかった。
後は、その気に乗じてこちらが攻めれば、旅順の士気はさらに上がるであろう。

もっとも、彼らの甘美な夢は、2時間後に完膚なきまでに粉砕されることになる。
間断ない砲撃によって、旅順要塞守備隊の面々の意識が、東鶏冠山堡塁及び水師営保塁に完全に向いたその瞬間、第13師団及び第22師団が、重砲兵旅団2個の全力支援のもとに、203高地方面を強襲。
両師団合計で戦死者1,500、負傷者4,000と、両師団に対して無視できない損害が発生するも、日本側は203高地を完全占領することに成功したのであった。

33: yukikaze :2017/06/23(金) 00:56:55
「貴官らはは私を散々罵ってくれたが、敢えて言いましょう。貴官らは何を学んでおられたのですか、と」

203高地陥落から2日経ってから開かれた作戦会議で、フォーク少将はこれまでの憤懣を全てぶつけるかのような口ぶりで、並み居る将官を嘲っていた。

「コンドラチェンコ少将。あなたは『予備兵力があるから大丈夫だ』と、太鼓判を押しましたな。
それなのになぜ203高地にマカーキの旗が堂々と翻っているのですかな」

作戦会議をオペラ会場か何かと間違えているのか、と、不快感を覚えたコンドラチェンコであったが、ここで口を開くと、確実にフォークの思うつぼであるため、沈黙を守っていた。

「コンドラトウイッチ少将。貴官は『またも』昼寝をしていたのですか。いやはや前線指揮官とも有ろう者が、嘆かわしい」

フォークの嘲りに、コンドラトウイッチは、怒りで体を震わせていたが、自分の旗下の旅団が敗北を喫していたという事実の前では、どうにもならなかった。

「まだ要塞の外郭が落とされただけだ。要塞の中枢は問題ない」
「ええ。中枢は問題ないでしょう。中枢はね」

要塞砲兵隊司令官ベールイ少将の反論に対し、フォークは、馬鹿にしながら、彼の言葉を反復する。

「で・・・ベールイ少将は、203高地の観測点から、敵部隊の砲撃が艦隊に降り注いでいる訳ですがどう対処されるのでしょうか」

嫌らしい笑みを浮かべながらそう迫るフォークに、ベールイは顔をしかめる。
本音を言えば「そんなもん知るか。むしろ艦隊の兵力を陸戦隊として使えばいい」なのだが、そんなことを言った瞬間、フォークから『失言』として甚振られるのがオチである。

「恐れ多くも皇帝陛下の財産で有られる艦船が一方的に打ち据えられる。いやはや、これを皇帝陛下が聞けばどう思うことやら。アレクセーエフ総督もさぞや御不快に思われるでしょうな」

フォークの指摘に対し、スミルノフ以下の陸軍の面々は必死になって怒りを押し殺し、スタルク司令長官は、そんなスミルノフの姿に、親の仇を見るかのような目で睨みつけていた。

「スタルク司令長官。どうも私の言葉では響かないようです。長官から一言あれば」
「よろしい」

重々しく頷くスタルクの姿に、スミルノフ達は瞬時に悟った。こいつらできていやがる、と。

「アレクセーエフ総督は、大変不快に思われています。旅順要塞司令部は、フォーク少将の懸念に何の対策もとらずに、旅順を危機にさらしている、と。スミルノフ司令官以下の将兵は、ロシア陸軍の栄光を示せ、とも。ああ・・・この意見については、グリッペンベルグ総司令官も賛同しておりますぞ」

得意げに言うスタルクに、フォーク以外の人間は『何を偉そうに言ってやがる。お前は引きこもっているだけであろうが』と、心中、罵り声を上げていたのだが、もはや自分達が追いつめられている事を悟っていた。

「これより、防衛に必要な最小限の兵力を除いて、全軍を上げて、203高地を奪回する。指揮は儂が取る。
コンドラトウイッチ少将の軍が先鋒。コンドラチェンコ少将を予備とする」
「両将軍を引き抜いた穴はどうされるので」
「・・・・・・フォーク少将。貴官がここで采配したまえ」

歯を食いしばるような声で、スミルノフは告げた。
あくまで一時的な代理だ。これが終われば体よく飼い殺しにすればよいと、必死になって自分を納得させているスミルノフの姿に、フォークは見下したような視線を向けていたが、事実上、旅順要塞ナンバー2になったことに心からの満足を覚えていた。

数時間後、秘蔵のワインを飲みながら悦に入っているフォークに、彼の副官がおずおずと尋ねる。

「あの・・・少将閣下。203高地は奪回できますよね」

その言葉に、フォークは、ふんと鼻を鳴らす。

「さあな。別にどうでもいいことだ」
「え・・・」

予想外の発言に驚愕する副官を尻目に、フォークはワインの香りを楽しみつつ答える。

「貴様も理解しているだろう。『要塞戦』と言う消耗戦を。しかも、やつらは道具が扱えるのだ。
機関銃と言う道具をだ。大量の砲撃と機関銃の銃弾が待ち構えている場所に強襲? 自殺行為以外の何物でもない」

何でもないかのようにそう答えるフォークに、副官の顔は青ざめる。
フォークの言葉が正しいならば、203高地に攻め込んだ部隊は壊滅するということではないか。

34: yukikaze :2017/06/23(金) 00:57:37
「まあスミルノフも馬鹿ではないから、直に学習はするだろう。腐っても要塞司令官までなった男だ。コンドラチェンコもいるしな。そうだな・・・攻め込む1万5千人の内、半分以上は助かるかもしれんな。運が良ければ」

何が楽しいのか、くつくつと笑うフォークに、副官は、自分が悪魔か何かと話しているんじゃないかという錯覚を覚えていた。

「そうだ。『武運長久を祈る』と、心配の言葉でもかけてやるか。奴らも張り切るだろう」

その声音で、副官は理解せざるを得なかった。
この男は味方の『武運長久』など欠片も願っていないことを。
むしろその言葉をかけることによって、203高地攻略を指揮する3将軍の退路を断つつもりでいるのだ。

「閣下・・・恐れながら、攻略軍が消耗した場合、要塞の守備兵に不足が・・・」

フォークの企みを何とか修正しようとした副官であったが、フォークは副官の指摘を鼻で笑っていた。

「成程。俺の1個旅団と、コンドラチェンコの1個連隊、それに3個補充大隊だけでは不足すると言いたいんだな」
「はい。旅順要塞は広大です。仮に外周陣地を放棄したとしても、それだけの数では・・・」

だが、副官が言い終らないうちに、フォークは哄笑する。

「貴様、どこに目をつけている。兵員はいるではないか。それも1万人もだ」
「1万!! 閣下まさか民間・・・」
「阿呆。船を失って極潰しの海兵がいるだろうが。十分に弾除けになる」

それを聞いて、今度こそ副官は絶句した。
悪魔だこの男は。自らの栄達の為には、ありとあらゆるものを利用しようというのか。
陸戦の訓練を受けていない海兵など、それこそいい弾除けでしかない。
だが、この男にとってはそんな事実ですら『関係がない』ものなのだろう。

「スミルノフも気張ってくれよ。できればマカーキの軍勢も同じくらい消耗させてくれ。その方が次期要塞司令官の俺の手間が省けるんだ」

満足げにワインを飲むフォークを見て、副官は思わざるを得なかった。
ああ・・・難攻不落の旅順は、陥落してしまうんだ。
他ならぬ味方の手によって・・・


「終ったの・・・」

昨日までの激闘が嘘のように静まり返った203高地において、老将はポツリとつぶやいた。

「終り・・・ですか」

どこか疑問の残る声色を感じ、野津中将は、どこか呆れたような口調で、義理の息子に応える。

「勇作。おはんは本当に戦を知らんなあ」

幾分憐みの籠った目で見つめつつも、上原にしか聞こえない声で話す辺り、野津も上原の面目に気を使ってはいるようだ。

「すみません」

幾分背を縮め、恐懼して答える上原であったが、不思議と反発はなかった。
何しろ目の前の義父は、日清戦争で西郷の怒りに触れていなければ、今頃満州総軍の総大将になってもおかしくない男なのだ。
更に言えば、激怒した西郷も、野津の戦術眼を貶したことは一度足りとてない。

「よう見てめ。旅順要塞を。戦気が欠片も感じられん。どんな堅固な要塞も、守る人間のやる気がなければ張子の虎じゃ」

上原自身はどう頑張っても見えない何かを、この義父は何でもないことのように感じとれるらしい。
まあそうでもなければ、2日2夜続いた203高地の防衛戦において、自ら増援部隊を率いて、第八師団とともに敵侵攻部隊に対して壊滅的な打撃を与えるなんてことはしないだろう。
何しろ『兵隊。あそこに撃て』と、敵が突撃しそうな個所を見つけては阻止してのけるんだから、終った時には『ありゃあ軍神だ』『今楠木だ』なんて、兵達が拝みかねない程の有様だったんだから。

「敵は早晩降伏すると?」
「さあのう。そいは分からん。だが、昨日のようなしぶとい戦をすることはないじゃろ」

どこか悲しそうに、老将は203高地の斜面を見る。
大分片づけられはしていたものの、そこには無数の砲弾の跡と、機関銃の弾幕によってバタバタとなぎ倒されていたロシア兵の亡骸が横たわってた。

35: yukikaze :2017/06/23(金) 00:58:07
「よか兵児でごわした」
「はい」

全く同感であった。
攻め込んできたロシア兵は驚くほど勇敢であった。
どれだけ機関銃でなぎ倒されても、時には味方の砲撃に巻き込まれようとも、ロシア兵は恐れることなく突撃を繰り返し、2重に張り巡らした防衛線の半ばまで突き進み、消滅した。
恐らくよほど兵から信望のある将官が指揮をしていたのであろう。
少なくとも並みの将であれば、3度目の突撃位で完全に兵達の士気は打ち砕かれていたであろうし、あわや防衛網が決壊しそうになった瞬間、前線でサーベルを持って叱咤した指揮官が、こちらの機関銃で狙い撃ちにされて戦死した後は、これまでの奮戦が嘘のように敵軍は瓦解していった。

「これ以降はどうなさいますか」
「もはや旅順艦隊は壊滅をした以上、203高地を巡る戦はないじゃろう。敵軍の恐らくは1個師団以上が壊滅した以上、残っている部隊は1個旅団あればよかほうじゃろ。第1師団に坑道戦術を取らせ、望台を落とす。火砲も水師営方面への牽制を除いて、全て東に回せ。予備兵力のない要塞など、その規模故に却って負担になる」
「了解しました。できれば第八師団は再編の為に後方に下げたいのですが」
「よか。流石は奥羽の精鋭よ。援兵が来るまでの間、1個連隊で1個師団以上の敵兵の突撃を何度も防いでのけたわ。そいでもずんばい死なせてしもうた」

203高地を巡る攻防はそれだけ熾烈であった。
死者3,500人、負傷者数を併せると1万名近い数を損耗したのである。
無論これだけの大要塞を攻略するとなると、戦前の予想ではその数倍は必要になるとされていたことを考えれば、むしろ『よくぞこの程度で抑えた』と、激賞を受けるレベルなのだが、そんなことを言ってもこの老人は決して喜ばないことを、上原は理解していた。
参謀長であり婿である自分にできることは、旅順開城までの被害を少しでも減らすことに他ならなかったしそれこそが自分に与えられる役割でもあった。

「勇作・・・旅順に使者を送れ」
「どのような用件で?」
「弔いじゃ。せめてこやつらの信じる教義で弔うのが礼じゃろ。坊主を借りて来い。希望があれば代表者の参列も許すと」
「わかりました」

上原は深々と一礼をすると、すぐに野津の命令を果たすべく司令部に戻った。
この勇者達にはそれ位のことはしてやるだけの義理はあったのだ。

結論から言うと、この野津達の配慮は無駄になった。
水師営保塁に籠っていた現地指揮官はかなり好意的な反応を示し、『司令部に掛け合い高位の司祭と司令部からも代表を出すよう要請する』と請け負ったものの、数刻後、頬を腫らした顔で『貴公らの好意は有難いがお受けすることはできない』といい、何度かの説得にも、涙を流しつつ無言で拒絶をしていた。
報告を受けた野津は『よか。そいなら、あん連中もこっそりと弔いができるよう、ふとか声を出せる人間を集めて、讃美歌じゃったか。そいを歌わせ。あん兵児達も、仲間が冥福を祈ってくれりゃあ迷わず成仏でくっじゃろ』といい、小声で『むごかことを・・・。どこの誰かは知らんが、こげんことをして誰がついていくか』と、評したとされる。
恐らく野津の頭には、司令部の誰かが、今回の攻勢の失敗を突きつけられたくないために、わざと無視したという構図が浮かんでいたのであろう。
実際には、それよりもはるかに性質が悪く、作戦に参加した部隊が壊滅し、信頼する両将軍を失い絶望したスミルノフ司令官が、責任を取って自殺したことにより、要塞の実権を獲得したフォークが『そんな無駄なことをするよりも防備を固めろ』と命じたからであったのだが、仮にそのことを野津が知れば、間違いなく軽蔑していたであろう。

もっとも、フォークの行動を一番軽蔑していたのは、他ならぬロシアの兵達であった。
彼はそのツケを否と言うほど味わうことになる。

36: yukikaze :2017/06/23(金) 00:58:40
1904年10月1日。
全世界は難攻不落の大要塞と喧伝された旅順要塞の陥落のニュースに驚愕することになる。
アレクセーエフ総督は『バカな・・・あの大要塞が』と、旅順艦隊壊滅の報を聞いた時以上の衝撃を受け、グリッペンベルグは『フォークの無能が。大言壮語しておいてこのざまか』と、手に持ったグラスを床に叩きつけ、旅順要塞の面々を『ロシアの面汚しが』と、散々に罵倒することになる。
無論、それ以上に激怒したのはニコライ二世で、『アレクセーエフもグリッペンベルグも勝手に戦争を始めた挙句、ロシアの名誉を泥に沈めおって』と、凄まじい剣幕で呪いの声を上げ、両名の更迭及び後任として、ウクライナにいたクロパトキン大将を指名することを御前会議で言うほどであった。
(流石にこれは、戦争中なのに指揮官更迭はあまりにも拙いということで沙汰止みになった。)

逆に日本は、『大要塞陥落』というニュースに日本全国で提灯行列がおき、どちらかというと低迷していた内閣支持率や、外国からの国債購入希望及び株価が一気に上がるという状態を引き起こすことになる。
当然、この快挙を成し遂げた野津中将は、全国から『軍神』『中将を大将に。いやむしろ元帥に』という声が沸き起こることになり、兵部省も『もう吉之助さあも許すだろう』という大久保の意見も受け明治天皇の勅使の元、野津を大将に進級することになる。(これは野津が拒絶しないようにするためであり野津も『勅使派遣』で、『西郷元帥に許しを得ていないから』という理由で、進級を拒絶することを断念している)

もっとも、第三軍団にしてみれば、203高地攻略まではともかくそれ以降は消化試合のような気分であったとされている。
何しろ、坑道からの爆破で防壁を崩してのち突撃して見れば、守備していた兵達は、形だけの抵抗をした後あっさりと手を上げ降伏していったからだ。
最初は「何があったんだ? まさか罠か?」と、あまりの攻略の容易さに顔を見合わせていた日本の参謀達も、捕虜から事情を聞かされたことで疑問が氷解することになる。

曰く、自分達は旅順艦隊に配属された水兵であり、弾除け扱いでここに配属された。
曰く、武器弾薬も碌に用意されず、小銃は3人に1個。
曰く、食料も最低限で、この2週間は、水のようなスープとカビの生えた燻製肉だけ。

あまりの酷さに事情聴取した士官が『今すぐこいつらにまともな飯食わせろ』と叫んだ程であったが、水兵よりはマシな状況の陸軍兵においては、また違った理由があった。

『何で強固な抵抗をしないかって? バカヤロウ、お前らに説教されなくても分かっているわ。
この旅順要塞は俺達の魂だ。たとえ飢えていても、素手でも、最後の最後まで抵抗するさ。
だがなあ・・・それは、あのフォークのクソ野郎が指揮官じゃなければだ。あの野郎はなあ・・・
203高地で死んだ戦友を弔うことすら許さず、しかもモノ扱いしやがったんだ。
誰があんな野郎を一日でも長く指揮官にさせたいと思うか。あいつには汚辱を与えてやるんだ』

血の涙を流しながら訴える指揮官の姿に、日本側は要塞の陥落を確信したという。

結局、ごく僅かな抵抗を排除した第三軍団は、9月初めには望台を占領し、事実上、旅順要塞の死命を決することに成功している。
にも関わらず降伏に時間がかかったのは、フォーク司令官のぐずぐずした態度によるものであり、最終的には、要塞砲兵隊のベールイ少将が『あんな馬鹿にこれ以上要塞を好き勝手される位なら自分達で決着をつけた方がマシだ』と、独断で海岸側の保塁を一斉に爆破した後、日本側に降伏。
狼狽したフォークは、ベールイに全責任を負わせたのちに降伏しようと画策するも、彼の態度に我慢の限界を覚えていた将兵に袋叩きにされ、ボロ雑巾のように捨てられることになった。

旅順は、フォークの副官が慨嘆したように、内部の崩壊により瓦解したのであった。
かつての小田原城のように。

38: yukikaze :2017/06/23(金) 01:09:19
これにて投下終了。
おい・・・あまりにも地味すぎるじゃねえかと言う人。
だってしょうがねえだろ。ロシア軍が何度も突撃するのを機関銃でばたばたと薙ぎ倒すのがエンドレスで続く描写なんで、書いているこっちもしんどいしついでに言えば、坑道戦術も地味だしなあ。

野津の狙いは『旅順艦隊を囮にすることで、203高地を消耗戦の場に引きずり込む』こと。
史実の第一回総攻撃よりある程度は抑えましたが、それでも急造の陣地であったことと日本側の将兵の練度が日清より幾分劣ること、何より死を覚悟したロシア側の攻勢により予想以上の被害が出ることに。(ただしまともに要塞攻略するとなるとこれ以上の損害が出るのは想定されていましたが)

まあ史実でもスミルノフやコンドラチェンコは攻勢防御を好んでおり、第一回総攻撃で日本側が獲得した陣地に対して、コンドラチェンコは独断で逆襲して兵を壊滅させるなんて事していますんで、フォークの煽りもあれ何度も突撃(味方に被害受けるのを覚悟の上の支援砲撃も含む)させていたかと。

フォークは『これ銀英伝か?』と思われたかもしれませんが、史実でもこんなもんです。
まあステッセルと仲の悪かったスミルノフの証言ですので、幾分割り引かないといけませんが要塞攻防戦で、基本的に予備扱いされているわ、自分が詰めている箇所が本丸だとか言っているのを見ると自己中心的な性格と用兵の拙さが見て取れます。

今回の要塞陥落で、アレクセーエフ達に対する皇帝の心証は最悪レベルであり、彼らを精神的に追い詰めることになります。
お蔭で日本側はかなり苦労する羽目になるのですが・・・

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最終更新:2017年07月02日 14:02