227: 弥次郎@帰省中 :2016/07/21(木) 12:35:12

「まったく、学者ってのは同じ人間を実験動物のように扱えるんだから怖いもんだ」
「違いない」

大日本帝国とロシア帝国、それぞれの国章を付けた兵士が歩哨に立ちながら談笑していた。
フランスに設置された国連軍の基地の入り口は、彼らの他に小銃を抱えた歩哨や荷物を積めこんだトラック。
それ以外にはあまり人の姿はなかった。そもそも人が余り出入りする場所でもないので、彼らは割と暇であった。

「そういえば、今日また2人ここに来るらしいぞ」
「へぇ、またか」
「年の差があるが、どうやら恋人同士らしい。なかなかにロマンスじゃないか?抑圧された国で禁断の愛とか」
「アメリカでありそうだな」

笑いあう二人はとりとめもないことをしゃべり続けていた。

「ま、あの『島』での虚構もかなりガタが来てるらしいからな。お偉いさんは『延命処置』にあれこれしているらしいぞ」
「諸行無常ってのかね、あの大英帝国がここまで落ちぶれるとはな……」

グレートブリテンおよびアイルランド連合王国。嘗ては世界の海洋を支配し、広大な植民地と大海軍を擁し、
世界帝国の名をほしいままにした帝国。日が沈まぬ帝国とも呼ばれた。しかし、その栄光ももはや過去のものでしかない。
現在は傘下に収めていたインドとカナダを奪われ、海外の利権もすべて失い、残ったのはその島“だけ”となっていた。
今では欧州の単なる一地方を構成するだけになっていた。
そして、『史上最大の実験場』として世界中の注目を集めている島国でもある。


日本大陸汚英世界 -BB監視調査団- (上)



二度目の世界大戦が終結した後、大英帝国はその植民地全てを失い、ブリテン島だけとなって『放置』されていた。
もはやイギリスがパワーゲームに参加する能力は存在しておらず、『無害』と判断されたために、ブリテン島を
海域封鎖して
反抗勢力とならぬようにした。イギリスを監視する三大列強、大日本帝国 アメリカ合衆国 ロシア帝国はわざわざ軍を置くこともなく
効率的な手段を選んだのだ。どのみち国土は数百回にもおよぶ空爆で多くが焼き払われており、おおよそ文明というものは
崩壊していた。辛うじてわずかな残滓が残っている程度。

イギリス内部は責任のなすりつけ合いと内輪もめにいっぱいいっぱいとなり、やがては赤化やクーデターなどを経て、
ついには『過去の改竄』という手段を選んだのであった。エリートたちに導かれるままに、イギリスという国は過去を
改竄し、現状を歪め、未来をも変えるつもりでいた。プライドをこじらせたイギリス人に選べたのは、それしかなかったのであった。

イギリス自身としては大真面目なのだろうが、三大列強にとっては何とも馬鹿馬鹿しく、そして無意味な行為と受け取っていた。
どうやろうとも歴史が覆ることもなく、時間がさかのぼることもなく、無い物資が生えてくるわけでもない。
その気になればフランス共和国駐留の国連軍が用意している爆撃機で再びブリテン島を全て焼け野原にすることもできる。
しかし、それも面倒であるとのことから、緩やかに封鎖体制を維持している。時たま船舶が出て行こうとするならば潜水艦や
航空機による攻撃で沈めてやればよかった。

しかし、そのイギリス国内に張り巡らせた諜報網から上がってきた報告では、
そして、イギリスの運命は三大列強をはじめとした各国の学者たちが提出した一つの計画書によって歪められることになった。

228: 弥次郎@帰省中 :2016/07/21(木) 12:38:29

ウィンスントン・スミスは激しい興奮を抑えきれなかった。
飛行機というものに、彼の記憶が混同していなければだが、初めて乗っているのだから。

これまで飛行機というものは、テレスクリーンや『党』の発行する戦争に関する新聞やニュースにしか出てこないもので、
自ら乗り込んだりするものではなかった。体を襲う浮遊感とエンジンの音がなんとも言えない気持ちを生み出していた。
彼は、それを説明する言葉が自分の中に、より正確に言えば仕事で使っていた「ニュースピーク」に存在しないことに驚いた。
いや、オールドスピークだと彼が思いこんでいた言葉にも、ニュースピークが入り込んでいたのだ。

あの恐るべき愛情省から連れ出されたときは、それ以前にオブライエンにされた思い出したくもない『処置』(彼らに
言わせれば思考犯罪者にとって最も適切な処置、ということらしいが)を受け、いよいよ処刑を覚悟したのだが、
連れていかれたのはどこかの施設で、言われるままにカメラの前で台詞を読み上げながら仰々しい演技をして、
そして食事を与えられた後にこの飛行機に放り込まれたのだ。ウィンスントンの私物の多くがあり、密かに手に入れていた
日記帳とペン一式もあった。

『この記録をしている私が果たして正気であるか、疑わしいところもあるが、少なくとも、私は久しぶりに、どれほど時間が
 経っているかはわからないが、ともかくそういう状態にある』

そこで一旦ウィンスントンは手を止めて、目を横の座席に向ける。ジュリアは、離陸直後から彼の横の席で眠っている。
添乗員曰く「飛行機酔い」(ニュースピークではないために理解に時間がかかった)らしく、薬を飲まされ、そのまま
座席を横に倒して惰眠をむさぼっている。彼女が飛行機が離陸する前に言葉少なに漏らしたことによれば、彼女もまた
『処置』を受け、カメラに向かって演技をして、そして連れてこられたらしい。

『彼女も、何か恐ろしい体験をしたのだろうが、今は落ち着いている。さしあたっての問題は、オブライエンが言っていた
 「本当の世界」というものを私が確かめられるかである。良い(good)とか非良い(ungood)という言葉では言えない
 それについては、精々私が頭の中で漠然と抱くものしか今はない』

そこまで書いて、ウィンスントンは再び手を止めた。
ここまで書いた言葉が果たして、ヴィクトリーマンションにいたときのように自由な意思に基づくものかを考えてみた。
しかし、答えとはならなかった。

『2+2が4であることを言えることが自由であるが、これからそれが正しいか確かめなければならない』

抵抗のように書いてやった。

229: 弥次郎@帰省中 :2016/07/21(木) 12:39:38

『社会復帰学校』。
その言葉をオールドスピークで理解した時、ウィンスントンは非常に奇妙な感覚に襲われた。
これまでいたオセアニアが虚構の物であるとは、出発直前にオブライエンからの手紙で理解していた。
そして、説明によればオセアニア、否、ブリテン島から脱出してきた人々は皆、社会に適応できるようになるために
学校に通って本来の歴史や言語の習得に努めるという。ウィンスントンが記憶している限りのニュースピークの改訂版を
さかのぼってもなお、彼らの英語との間には明確な語彙の差が生じていた。ウィンスントンが真理省で日ごろから
ニュースピークに接していたことが、それに関係しているようだと教えられた。

学習の内容は多岐にわたっていた。
言語、歴史、数学、音楽、体育、倫理。それから、生活一般について。オセアニアの中の文明は事実上停滞しており、
『外』の世界は常に進歩と進化を続けている。それに順応するだけでも、ウィンスントンは並々ならぬ努力が必要だった。
『宿舎』として割り当てられた部屋はヴィクトリーマンションのそれとことなり、きちんと暖房が効き、エレベーターが動き、
窓ガラスが割れればきちんと修復される。水道が詰まることもないし、仰々しいポスターが睨みつけてくることもない。
何よりも、静かだった。

ウィンスントン自身も驚いていたのだが、ヴィクトリーマンションに暮らしていた時よりも、ここは静かだった。
いつもなら『2分間憎悪』であるとかテレスクリーンだとか、あるいは街角のテレスクリーン、時には『速報』を声を張り上げて発表する
『党』の『同志』がいたためだと、今さらながらに気が付いた。何時だったかジュリアが言っていたように『党』はエネルギーを
奪うことで人をコントロールしていたのだろう。常日頃から、あんな落ち着かない放送やらを聞かされれば、確かに余計なことを
考える余裕などなくなるだろう。

それと並行して、多くの学者がウィンスントンと面談し、これまでどのような仕事をしてきたか、どのような生活を送っていたか、
交友関係における仕事の内容について事細かに質問してきた。特に改訂版の作成にかかわり、そして『蒸発』したサイムの
仕事の内容については、執拗と言えるほどに質問がなされた。そのしつこさと言ったら、ウィンスントンが何度も説明し直し、
言葉1つ1つの意味をオールドスピークとニュースピークの違いを捕捉しながら、その改訂の経緯がどのようなものかを説明する羽目になった。
後にジュリアから聞いたであるが、こうした質疑応答も『ニュースピーク』からの脱却のためのトレーニングらしい。

「人間は聞いてきた言葉でしゃべっている。とするならば、君達は生まれた瞬間から『党』の言葉を吹き込まれ、ごく自然に受け入れ、
おまけにそれに違和感を感じていない。言語学的に見て、一つの言語体系からの離脱と新たな言語体系への順応プロセスは
非常に興味深いテーマなのだよ」

一人の教授が、ウィンスントンの頭にコードが多数つながったヘルメットのようなものをかぶせながらそのようなことを言った。

「赤子の状態での言語への順応性は非常に柔軟だ。人種や生まれた場所ではなく、最初にかけられた言葉から極めて理論的に
言語体系を自らの中に構築する。そしてそれが社会一般に通用する言語体系とリンクした時、初めて『コミュニケーション』
というのは成立する。では、ある言語体系αと、αと非常に酷似しながらも次々にすり替えられる言語体系βがぶつかったら
どうなるか、非常に私は興味深い」

ウィンスントンはその教授の言うことの半分も理解できなかった。彼なりの解釈なのだろうが、さっぱりだった。
ひょっとすると、彼らは彼らでニュースピークのようなものをしゃべっているのではと疑うことさえあった。

230: 弥次郎@帰省中 :2016/07/21(木) 12:40:25

音楽の教師から教えてもらった「大きな栗の木の下で」を口ずさんで、ウィンスントンは散歩に出ていた。
右足首にできていた潰瘍はすっかり治り、食事の改善によってウィンスントンの体は急速に若返ったかのような
錯覚すら感じた。それ故に、散歩というこれまでにない趣味に没頭することができた。少なくとも、テレスクリーン
越しにインストラクターに怒鳴られたりすることもなく、あるいは木に隠されているかもしれないマイクやカメラなどに
一々おびえる必要もなかった。1時間ほど歩いた後、『宿舎』の近くの公園のベンチに腰掛けたウィンスントンは
日記帳を引っ張り出して、『ボールペン』を手に取って書き出す。

『今日は「生物学」の授業があった。鳥、魚、馬、牛、羊、あるいは猫。カメラで「撮影された」物やあるいはカメラのなかった
時代に様々な手段で写し取られた動物たちの姿。あんな大きなものが空を飛んでいるとは、俄かには信じられない。
「生物学」という分類自体、いつの間にかオセアニアから存在していなかった言葉となっていた。プロール達が娯楽として
手に入れていた、そしてジュリアの元で作られていた「娯楽」にもこれらは出ていたのだが、おおよそ事実と異なるところが多い。
第一、あんな大きな怪物を「猫」と呼んでかわいがる方が恐ろしい。しかし、その感受性の誤差はどうにもならない』

そこまで書いたうえで、手を止めた。
大日本帝国から来た講師と、それ以外の国から来た講師の間でだいぶ認識の差が激しいようであった。その議論を
傍らで眺めながら、思わず笑みがこぼれる。まだ学校に通い始めて1カ月足らず。まだ『脱出者』同士の接触は認められていないが、
近いうちにジュリアに再開できるという確信のようなものを感じていた。教授たちに聞いたところによれば、『脱落者』同士が
彼ら同士だけで『党』の末端組織のようにふるまい始めるためだという。『学校』の規範を崩してしま金ないということで、
学者たち以外も意外と注意を払う必要があるらしい。

しかし、ウィンスントンは、まだ知らなかった。
『党』のおぞましい虚構体制と同様に、ある程度の人々の恐ろしい一面がこの『実験場』で行われていることを。

かの思想家ニーチェは著書でこう述べている。
『深淵をのぞき込むとき、深淵もまたお前の中をのぞき込む』と。

『党』という狂気を島国に封じ込める組織もまた、狂気をはらんで相対していることを。



(下)に続く……

231: 弥次郎@帰省中 :2016/07/21(木) 12:41:18

以上となります。wiki転載はご自由に。
『1984年』を読んで正気を失いそうな感覚に襲われながら、過去の大陸スレでひゅうが氏の投下したネタを勝手に
続けてみました。日仏世界の戦後の話を書いていたのですが、息抜きを兼ねて書いてみたのですが逆効果じゃないかな……と思ったり。
有為転変シリーズがバットエンドだったのが自分自身にも結構応えているようですね。
いや、なんというか今回もある意味バットエンドなんですが。
これがバットエンド症候群か……(違


上下二話構成になっていまして、下は夕方にでも投下します。

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最終更新:2017年08月07日 21:50