438: yukikaze :2017/08/21(月) 01:13:24
取りあえず箸休めで出来ました。

日露戦争史 第八章 諜報

東京の大井町にある帝国情報局の日常は忙しい。
彼らの役割が、国内外の情報収集業務(暗号解読業務は、省庁のセクショナリズムによって、この時期には与えられていない)であることを考えれば当然ではあるのだが、それでも果たすべき役割に対して、予算及び人員が不足しているのは否めなかった。
後世『当時の日本人は『情報』を軽視しすぎてはいなかったか』を示す根拠となる事実ではあるのだが、そもそも当該組織が、大久保利通の後押しがあったとはいえ、設立から5年もたっていないことや、この時代の情報収集業務は、ヒューミントが重んじられており雑誌や新聞、書籍・公刊資料を集めて情報を得るオシントが一段下に見られていた点を考えれば、むしろ明治政府の上層部は、最大限努力していたものと言えよう。

さて、外務省や兵部省の同業者から『無駄飯ぐらい』と、陰で馬鹿にされていた彼らであったが、彼らはそんな外部の声などどこ吹く風で業務に勤しんでいた。

「フランスとイギリスの株式市場の集計終りました」

そう言って、さっきからぶつぶつと、英仏の株式市場の数値をにらめっこしていた中年の女性が、『経済グループ』と書かれた集団に声をかけた。

「おつかれさんです。アメリカはまだ届きませんので、その間のんびりしてください」
「そうさせてもらいます」

株式統括の職員の労いに、女性は大きく伸びをうつと、凝り固まった肩をほぐしつつ、統括職員に対して声をかける。

「しかし・・・こんな数字の羅列で、何かわかるもんなんですかねえ」
「いやいや。これはこれで色々と分かるんですよ」

採用条件に『口が堅く根気強い。後、残業可能』以外、求められていなかったこの女性嘱託職員は、常日頃抱いていた疑問を質問すると、これまた民間の相場師から引っ張ってこられた男は、これまで女性が纏めていた数字を基に作成したグラフを基に説明を始めた。

「この会社は、ロシアが極東の投資を委託した会社です。開戦前の数字と、開戦直後の数字、それに今日の数字を線で結んだのが、これですね」
「落ちて上がって落ちて上がっての繰り返しですねえ」
「ええ。で・・・こことここを見てください」

そう言って、男は2箇所に鉛筆で大きく丸を付ける。

「2月から6月までより、8月から今までの方が、落ちて上がっての間隔が激しいですねえ」
「正解です。2月から6月までは、戦争勃発により投資が控えられたり、逆に最終的にはロシアが勝つだろうから、安値で買おうとする連中もいたりなどして、そこら辺の攻防がありつつ、開戦より少し値が下げた程度だったんですが、8月以降は旅順の戦が分かるにつれて急落し始めています。勿論、ロシアにしてみれば信用不安になりかねませんので、ロシアは買い支えようとし、それを見て投資家が利益を得ようと売り始める。典型的なマネーゲームになっています」
「ふうん。つまり、ロシアは投資家に足元見られているんですか?」

身も蓋もないこの表現に、男は苦笑しつつ「その認識で正解です」と答える。
まったく、帝大出身の官僚様よりも、経済の勉強なんて碌にしていないであろう主婦の方が理解力が上っていうのは、笑うべきなのか頭を抱えるべきなのか。
いやまあ、いきなり俺に対して「おい。相場師の能力が必要なので来てくれ。いやなら構わん。徴兵するだけだ」なんて言って、こんなところに高給(ただし契約中は相場に携わることは一切禁止。破った場合、問答無用で首且つ刑務所入り)で放り込んだ、明治政府のお偉方のようになれとはいわんが。

439: yukikaze :2017/08/21(月) 01:14:25
「後はこういった点ですね。ここドイツの石炭会社ですが、株価が右肩上がりになっていますね」
「ええ。随分と儲かっているんですねえ」
「そうですね。で・・・この会社ですが、ロシアと契約結んでいるんですよ。具体的にはロシア海軍」

その言葉に、女はけげんそうな顔をする。
あれ、ロシアの艦隊は、海軍さんと陸軍さんが全部沈めていなかったか?
そんな女の疑問に、男は肩をすくめて答える。

「ロシアは大国でして。本国に艦隊持っているんですよ」
「なんとまあ・・・」

女は呆れたような声を出した。
海軍さんの艦隊より船を持っているほど金持ちなのに、田舎泥棒みたいなことをするとは、ロシアって国はよほどの業突く張りなんだろうか。

「で・・・極東のロシアの艦隊が全滅したにも拘らず、ドイツの石炭会社の株価が上がっている。
そこで分かるのがただ一つです」

男は、『軍事グループ』と、書かれている区画を、同情しきった眼で見つめていた。

「大量の石炭が必要な事を、ロシア海軍は決定したって事でしょうなあ。何とも傍迷惑なことですが」

男のこの予想は、内閣にレポートとして送付されて1週間後、ロシア海軍の『バルチック艦隊派兵』という発表によって、的中することになる。


「ふん・・・」

英字新聞をつまらなさそうに投げ捨てる腐れ縁を見て、伊藤は心中溜息を吐く。
全く、何でこんな時に限って聞多の奴は、半島なんぞに遊びに行っているのだろうと。
あんな何にもない所なんか行っても面白くもないじゃないか。
それとも何か? あのゼニゲバにも博愛精神とやらが芽生えたんじゃろうか?
ああ・・・くそ。
綺麗所の機嫌を取るのならば幾らでもやってやるが、何が悲しくて、この堅物の機嫌を取り持たんといかんのだ。

「おい。俊輔。」
「なんじゃ。狂介」

来たよ・・・と、いう、内心の諦めの感情はそぶりも見せず、伊藤外相は、機嫌の悪さを隠そうともしない山縣首相に返答する。

「お前んところと種田のところの阿呆共な。あれケジメつけさせろ」
「スマン」

言い訳も何もせず、伊藤は、山縣に謝罪をした。
「ヒューミントこそ諜報活動の本流」などと、大見えを切っていた外務省や兵部省の担当官の「バルチック艦隊出撃の可能性は低い」という、国家安全保障会議での報告は、今回の発表によって完全に誤りであったことが証明されたのだ。
帝国情報局が出したレポートを、外務省や兵部省の担当官にすぐさま送付したにもかかわらず、それが適切に用いられていなかったのだから、山縣が激怒するのは当然であった。

「念のために確認するが、ケジメをつけさせる理由は分かっているな」
「同じ失敗をするからだな」

伊藤の簡潔な回答に、山縣は重々しく頷いていた。

「奴らは分かってはおらん」

そう言う山縣の声には、どこかしら疲労の色があった。

440: yukikaze :2017/08/21(月) 01:15:05
「諜報とは、様々な手段で、あらゆる方面から情報を集め、それを精査し、答えを導くものよ。
にも拘らず、最初はヒューミントを過大視し、それで失敗すれば今度はオシントに飛びつく。
あれでは、数字に踊らされた挙句、また都合のいい解釈をして失敗するわ」
「一朝一夕にはいかんのは理解しているが・・・歯がゆいのう。もうあの連中に任せるか」

苦虫を噛み潰したような顔で、伊藤は山縣に進言をする。
伊藤にしてみれば、彼らの有能さはよく理解できているものの、自分達とは文字通り異質な面々に帝国の命運を預けるようなことをするのは、躊躇するものがあった。

「難しいのう・・・。何しろあ奴らも『先入観』があるからのう。技術の発展等ならば充分に役立てはするが、こと『情報』において、先入観は悪影響しかない」

無論、奴らの知識が帝国にとって極めて役立っているのは事実だがな、と、山縣は付け加える。

元老達にとって、彼らは扱いが極めて難しい存在であった。
常識的な人間が聞けば『こいつら狂っているんじゃないのか』と、言わんばかりの彼らの出自は、しかしながら、技術的な発展や資源開発の順調すぎる程の成功、更には、周辺諸国等の動きなどを分野によっては、高確率で当てたりすることなどから、不承不承ながら認めざるを得ないところまで来ていた。

もっとも、ややもすると『未来知識』とやらに判断が引きずられてしまって、失敗しかねない部分も見受けられており(何しろ彼らは『日本大陸とは聞いていないぞ』と、国土の大きさに驚愕するのが常であった。信じがたいことに、彼らの世界では、日本の国土は1/10であった)、手放しで盲信する訳にもいかなかったのだが。

まあ・・・それ以前にだ、と、山縣は続ける。

「連中のノウハウをフィードバックするのは構わん。それは必要なことだ。だが、お前のところや兵部省の担当者が面従腹背すれば何の意味もない」

元老の自分達が強制すれば、表面上は受け入れるだろうが、実際にそれを自らの血肉にし、国家に役立てなければ何の意味もない。
明治維新から、およそ40年になろうともするが、山縣にしろ伊藤にしろ、この手の手合いに悩まされたのは、数えるのもばかばかしいくらいなのだ。

「特に厄介なのが兵部省だ。連中、ロシアの首都で大規模な騒乱を成功させていたからな。『たまたま』外れた程度にしか思っておらん可能性がある」

そう言って、今度は別の新聞を伊藤に手渡す。
そこには一面に大々的に『ロシア首都で多数の市民が虐殺される』という、センセーショナルな見出しと写真が掲載されていた。

「愚かなことだ。これを描いたのは、それこそあの連中だろう」
「そうだ。兵部省の謀略家気取りの連中が考え付くとすれば『過激派に対する資金や武器提供』程度だ。
少なくとも『ギリシャ正教会の司教。それも皇帝を敬愛する男への資金提供』だとか『公安関係者で強硬派の人間を焚き付ける』などということは出来ん」

この謀略の何が嫌かと言えば『謀略をかけられた側は騙されたと欠片も思っていない』点である。
穏健派ではあるが、皇帝に対する敬愛の念を隠そうともしない司教に対して『皇帝陛下に我らの現状を平和的にお伝えしてもらえないだろうか』と、請願することなぞ何ら不思議なことでもなければ、日頃強硬的な意見を吐く治安関係者に『母なるロシアのために聖戦を行っている皇帝陛下と前線の勇者たちを心配させるようなことがあってはならない』と、訴えても、誰も気にも留めないであろう。
どちらも、お互いの『正義』に訴えられた以上、その正義の為に努力しようとするだろうし、しかも彼らの動きは、『皇帝に対する忠誠には疑いがない』ため、悪名高いロシア内務省も、ポーランドやフィンランドの独立派よりも優先順位は下(治安関係者については、疑ってすらいない)という有様であった。

そしてそうであるが故に、お互いのボタンのかけ違いによる破局は、悲劇を生み出すことになり、同時に、ロシアの国内世論の不安を招くことになっていた。

441: yukikaze :2017/08/21(月) 01:15:40
「種田と沼間がここにこん理由はそれか」
「両者とも、それぞれの部署への引き締めに手を焼いているようだ。特に種田は、あの連中の上層部だからな。感情的に面白くない人間もいるようだ」

それを聞いて伊藤は呆れ果てていた。
うちの外務省もそれなりの伏魔殿ではあるのだが、兵部省は魑魅魍魎の集まりのようだ。
しかし、この国難をかけた戦において、敵よりも味方の行動に頭を悩ませんといかんとは、どういうことなのか。

「馬鹿はある程度排除したと思っていたが・・・」
「俊輔。今の軍は、日清の頃と比べても3倍近い数じゃぞ。試験勉強しか出来ん馬鹿であっても、喉から手が出る程欲しい状況よ。小笠原のボンクラが良い例よ。あんなのであっても、書類作業ができるのであれば、ある程度の職につけざるを得ん」

半ば苦虫を噛み潰したような顔をする山縣に、伊藤は心の底から溜息を吐いていた。
片や世界最大の陸軍国家。片や40年前に久方ぶりの『完全なる中央集権国家』になった国。
理解していたとはいえ、それまでのツケの積み重ねと言うものは大きいものだ。

「外務省は儂で何とかする。外務省が連中のノウハウを受け入れれば、兵部省も否とは言えまい」
「そうしてくれ。くそ。こんなことなら、首相なんざお前にやって、儂は、満州の地で、武人として戦った方が本懐じゃわ」

そう毒づく山縣に、伊藤はいつもの茶目っ気を出すことにした。

「やめとけ狂介。お前は戦下手じゃ。勝てる戦も勝てん」

この日、山縣の日記には、伊藤の罵詈雑言が余すことなく記されることになる。


結論から言えば、今回のバルチック艦隊派遣問題において、外務省と兵部省の対応は分かれることになる。
外務省は、伊藤の硬軟あわせた説得によって、夢幻会から諜報のノウハウを学ぶことになり、それは徐々にではあるが、精度を上げることに成功する。
その一方で、兵部省については、種田や沼間の勧告を表面上は受け入れたものの、『戦場を知るは紙ではなく、あくまで人間』であるという意識が強く、オシントについても『あくまでヒューミントを補完するだけの手段』として、夢幻会からのノウハウについては、良いとこどりしかしていなかった。
この事態に、種田や沼間は激怒し、諜報担当の大幅改変を断行する決定を下したのだが、それはあまりにも遅すぎる決定であった。

1904年12月10日
海城及び九連城の防衛ラインに相対していた日本軍第二方面軍は、突如、全線に渡ってロシア軍からの攻勢を受けることになる。
岫厳攻防戦の幕開けであった。

442: yukikaze :2017/08/21(月) 01:24:19
短いですがこれにて投下終了。
wikiに掲載の際は、読みやすいように修正していただいて結構です。

今回は箸休め的なものですが、どこかでふれんといかんと思った諜報について。
何気に史実日本は、防諜はザルクラスですが、諜報については割と無視できない能力を持っていました。(活かせているかは別として)

で・・・本来なら『防諜』について書く予定だったのですが、ここら辺はもう少しばかり痛い目を見てもらおうと思い、『諜報』をクローズアップすることに。

兵部省酷くねと思うかもしれませんが、史実も結構『自分に都合の良いように解釈する』嫌いがありまして、田中義一とか『お前何考えとるんじゃ』というレベルで、恣意的に情報の取捨選択とかしています。(遠い目)
ほんとよく勝てたな日本軍。

なお今回の最後に触れた戦闘のモチーフは、お気づきのように黒溝台です。
日露戦争でも1、2を争うこの大ピンチ。
一体誰が出てくるのでしょうか。

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最終更新:2017年08月22日 10:44