258: キャロル :2013/12/07(土) 19:07:46
それではいきます。


後藤泊の幕末奮闘記 第四話 後編


「いえいえ、我々はあくまで開拓団です。しかしかの地にはロシアが流刑囚を送り込んでいるとの話です。
当然治安状態も悪く、現地にいる日本国民(樺太アイヌ)の生命と安全を守らなければいけませんし、開拓民自身も自衛するためには武装することも、やむおえないと考えております。」

「.........成る程。確かに我々大英帝国も樺太に置けるロシアの動きを再三、幕府に伝えてきたのですが、どうにも清に置ける我が国の動きに注目して警戒されてしまい、ロシア寄りの立場を取られていると考えていましたが......」

この流れは半月後の第一次東禅寺事件が起こったことで引け目を感じた幕府が、対馬事件が起こったこともあって、幕府もイギリス寄りにシフト、ロシアに対して警戒を持ち始めることになる。

「はい。現在対馬に措いて、違法占拠を続けているロシア海軍の姿を見ても、彼らの言い分を信用できるとは思えません。
よしんば現地部隊の暴走だとしても、それは軍の統率が不十分との証明とも云えます。」

「(......なかなかどうして、日本人にも合理的観察が出来る人物が居るものだな。)成程。故に此方も対抗措置にうって出るということですか?」

「これはまだ、土佐藩に置ける構想段階の計画。他藩との交渉は此れからのですので、くれぐれも他言無用で。(あなた方の政府以外には、ですが。)」

「それではあなた方が同じ日本人同士ではなく、余所者に過ぎない我々イギリス人にその事を打ち明けたのはどういう意味があるのですか?」

259: キャロル :2013/12/07(土) 19:09:10

ある意味、ぶっちゃけた本音をぶつけてきた、最初期の親日外国人でもある彼の疑問に、象二郎もにやりと笑うと、

「そうですね。もちろん貴国が世界最大の海運通商国家であり、科学技術大国ということは、前提としてあります。
しかし貴国は海洋立国として、陸軍国家であるロシアの太平洋進出を看過できない。
海洋国家は貿易通商を至上とし、それを邪魔する勢力はあらゆる手段を用いて粉砕する。
それ故に我々の動きはあなた方にとって都合が良いはずだ。
しかも現在日本国内に置ける抵抗勢力たる、尊皇攘夷派を引き連れて。」


所謂「明治維新が上手くいったお陰で、日本は欧米列強の植民地にならずに済んだ」という定説を未だ聞くが、英国の東アジア政策は1860年代を境に砲艦外交から、軍事力の行使を自国民の生命、財産の危機に限るという方向に転換した。
これは第二次パーマストン内閣蔵相グラッドストンの、大幅な軍事費削減による財政改革であり、在中国艦隊及び、兵員の大幅縮小を呼び込み、対日政策についてもイギリス外務省は、開明派との協力関係強化にシフトしていく一方、内乱の際には厳正な「中立」政策をとる方針を決定(クラレンドン外相からパークス宛公信、1866年4月)している。


「ふむぅ、一石二鳥ということですか......
では具体的に何を求めておられるのでしょう?」

「各種インフラ技術も必要ですが、まず準備しなければいけないのはやはり兵器でしょうか。エンフィールド銃の銃身と、オーストラリアの羊毛を購入したいですね。」

「銃身に羊毛ですか?完成品の小銃と毛織物ではなく?」

「ええ。あなた方もオーストラリアの羊毛を、一度英国本土に持ち帰って、さらに極東まで製品を持ってくるのは手間でしょう?
貴国も南北戦争の受注生産で忙しいでしょうし、銃身だけなら嵩張らない上に、”武器”ではなく”部品”を販売しただけと、ロシアらに突っぱねること出来るのでは?。
それに高騰した綿糸の代わりに成る物を、業者に提供したいですしね。」

象二郎は史実において、薩摩のよる綿糸貿易の結果、大坂の綿織物業界を中心に悪評を被ったことを考慮、それを緩和する為、綿織業者に毛織物を作らせることで、樺太派遣軍、入植者等の服飾特需を作り出そうと考えていた。
加えて服飾専門学校でデザイナーの卵だった転生者が、トレンチコートの型を作成してくれた事も大きかった。

260: キャロル :2013/12/07(土) 19:09:54


「...ああ成る程。あなた方土佐藩が、プロイセン王国に留学生を送ったことも、今回の計画に関係しているというわけですか。」

「ええ。今回留学生として送った6名は10年後の日本の為ではなく、即戦力として2年後活躍して貰うつもりです。」

土佐藩は、ドイツ貴族でもあるシーボルトに、娘の楠本イネ(宇和島藩から勧誘済み)を介した”つて”で推薦状を書いて貰い、
1860年当時、通商条約の為来日していたプロイセン使節団団長オイレンブルク伯爵とコンタクトをとり、プロイセン留学援助を御願いし、交換条件として納豆の紹介と輸出を持ち掛けた。

大豆は19世紀のヨーロッパではあまり知られておらず、1873年のウィーン万博にて紹介された事で世界に広まった。

ドイツ人から”畑の肉”と呼ばれ、”夢の食材”に成りかけるも、根瘤菌が欧州には居なかったので普及こそしなかったのだが、『納豆沿革史』によると第二次大戦中、満州大豆を輸入、燻製納豆を作り、伝染病の予防治療、スタミナ効果がある携帯保存用糧食として、ドイツ軍に納入されていたことから、今後10年、ドイツ統一という”戦争の季節”を迎えるプロイセンには、軍事物資足りうる要素だったこと。
(日本の大豆市場が高騰することも考慮し、短期的には上海で清国産大豆を蝦夷海産物との交易購入、日本で加工、そして欧州に輸送することも計画。長期的には輸出品化により、蝦夷地開拓における起爆剤の一つとなることも狙っていた。)

そして極東からの留学生がイギリス、フランスではなく、いまだ欧州の中流国で、統一の為にドイツ諸国内での名声を欲していたプロイセンとしては存外大きいものだった事

開明的といわれ、ナイチンゲールに教えを受けた英国王室出身の王太子妃が女医を目指すイネを見て共感し、王太子と共に応援した事

国王ヴィルヘルムⅠ世謁見時に「プロイセン陸軍は世界最強!!(要約)」みたいなことを言って心証が良かった事なども重なり、留学費用の全額王室持ち、さらには船舶購入などに便宜を図って貰えることになった。

こうして英国側との話し合いを、今後も継続していくこととなった。
ローレンス自身が帰国報告することで裏付けとなり、薩英戦争後、友好関係を築くことになる薩摩藩と共に、英国の東アジアにおける戦略方針に加味され、今後注視されることとなる。
(土佐、薩摩共に公武合体による穏健な国家統合が目標であり、また土佐の方針はイギリスの戦略に合致しており、直接的な協力こそ避けたものの、民間企業間での関係を強めていくことになる。)

261: キャロル :2013/12/07(土) 19:10:53

宴会も終わり、横浜に一泊し明朝移動する予定で、三菱商会横浜支店に隣接したゲストハウスに戻った龍馬と象二郎は、コーヒーを飲みながら話し合っていた。


「しかし象二郎さんは、もっともらしい理屈を並べちょるが、結局のところ、金を浮かせたいだけじゃろう。留学費用に事といい、よくもまあ悪知恵を思い付くもんじゃ。」

「龍さん。それは誉めてるのか?、それとも貶してるのか?」

「両方......と、いうのは冗談じゃ。むしろ心強いとおもっちょるよ。」

「ふーん、まあそういう事にしておくよ。そうだ龍さん。今後の日程は聞いてるかい?」

「......聞いちょるが、本当にやるんかい?わしにゃあ、まだやるべき事が山積みじゃけえ」

「あのなあ。佐那子さんの何処に不満がある。性格良し、小町と称されるほどの器量持ち。何より桶町千葉道場の娘だ。我らの大望の為にも北辰一刀流との人脈というおまけまで付いてくる。
既に世間では妙齢と呼ばれる状態なのに婚約者としてお前を待っている。全く言ってて腹立ってきた。」

ちゃんと責任を取れ!馬鹿!

262: キャロル :2013/12/07(土) 19:11:38

実は龍馬と千葉佐那子の祝言を、土佐藩有志と海援隊で進めていた。
半ば政略結婚の様相だが、もうすぐ土佐としても海援隊としても忙しくなり、これを逃すと数年先になるだろうからだ。

また、この機会に北辰一刀流の系統である清河八郎、伊東甲子太郎、更には千葉重太郎を介して鳥取藩の尊攘派とも連絡を取ろうとしていた。

史実において龍馬の妻は楢崎龍なのだが、この女性とかく関係者からは評判が悪いのである。
対して、千葉佐那子は生涯”龍馬の婚約者”という、”けなげ”さもさることながら、将来龍馬が暗殺を免れれば三菱の重役なり、明治政府の重臣になることが予想されるだろう。

そうなった時、内助の功で支える妻には、其れなりの資質・人品が求められることから、後に学習院女学校の舎監を任される程の佐那と、妹婿の菅野覚兵衛にまで「品行が悪く、意見をしても聞き入れないので面倒はみられない」と拒否されたというお龍では、恋人には成れても妻としては不適格と言わざるをえないのだ。(逆に御妾としては問題無い)

かくして、1861年5月20日、千葉佐那子は坂本佐那子となり、土佐の坂本家と長崎の地を行き来しつつ、長崎海援隊の留守を守り、隊員から絶大な信頼を獲得する。

明治の世を迎えて後は東京に移り、三菱会長夫人として夫を支え”賢婦”と賞され、一男一女に恵まれる。
そして明治29年、子や孫達に見守られながら、幸福のままこの世を去っている。

楢崎龍は京都(後に神戸に移住)における現地妻、つまり御妾として金銭面では不自由することなく生涯を終える。
当初お龍は佐那に嫉妬していたものの、佐那の三菱会長夫人としての姿を見て、気楽な自分の立場に安心したと考えたのか、後に和解。佐那とも良い友人関係を築けたようである。
(龍馬の女関係に関して愚痴の言いあいをしたという手紙が後に見つかっている)

余談だが、佐那子が剣道美少女キャラだったということでファンになった転生者も多く、そこにお龍のツンデレこそ至高であるという派閥(サークル?)が発生。
『坂本佐那子親衛隊』通称SSS(スリーエス)と『龍×龍正統同盟』通称RR軍(レッドリボン軍)成立。

さらには平井加尾派や、某くの一娘(AZM)派、ハーレム派が入り乱れ、維新前後期で転生者の間で同人小説が流行。

MMJの源流であると言われ、後にその小説を発見した伏見宮博恭王に多大な影響を与えたとか与えなかったとか

263: キャロル :2013/12/07(土) 19:13:46


朝廷への長州、土佐二藩による協同奏上より一月後


「・・・・・・ちゅうのが長州、土佐の考えのごとでごわす。」

「・・・で、おはんはいけん考ゆっとだ。大久保」

「彼らの考えは公武合体、其れも幕府が考る幕府復興を図るものではなく、先代様斉彬公の考えに近いものと考察しておいもす。」

「ふむ、そうか! ならばまっこて、祝着ちゅうべきと云うべきでごわんの」

そう告げる島津家当主 の父にして、薩摩77万石の最高権力者の’ひとり’である島津久光は、有力な味方が出来たことを喜んだのだが、

「味方が増えたこと自体は誠にめでたくごわす。しかし一方で同じ開国、公武合体派じゃぁこつが、我が藩としては若干難点かと言えっとでごわんど。」

「いけんとはどういうことぞ?」

「世上というのは内容の良き悪き自体より、最初に言い出したもんが優先され、云わば”言ったもの勝ち”という風潮がこん国の風土が有いもす。」

「で? さっさと要点を申せ。」

「様は大殿が開国と公武合体を掲げても色褪せてしまい、我が藩が主導権を握う事も難しゅないかもしれんということにごわす。
彼らが開国を指向していても、具体論を持たぬ凋象論であれば、後発でも巻き返しはたやすかことだったでごわすが」

「ふむぅ。 それでは来年上洛と共にすう幕政改革はいけんなうとか。」

「御安心を。現在も謹慎中であらせられう一橋公、春嶽公ら旧一橋派の面々を救いだし、且つ彼らを実権有る地位に据え置く程の実力を持つのは、77万石の大大名にして斉彬公の後継者たう大殿しかおいもはん。」

一見追従にしか聴こえぬ文言を冷徹に言ってのける、この男を側近にした正しさを

「今は未だ二番手、三番手に甘んじもそが、何、こん程度は幾らでん引っくい返うでごわす。
付きましては大殿。我が藩の尊攘派、有馬らを説得する道が見えてきもした。」

「有馬らの一派か?あん狂犬のよな連中が言うこつ聞くか?」

「西郷を呼び戻し説得さすこつが最善かと。久光様はお気に要らぬこっと思いもんどん」

「あの者は儂を兄上と見比べておる気がして、どうにも好かん。とは言えあやつは兄上の腹心じゃっでん。兄上の命令となれば忠実に実行すうだろうて」

264: キャロル :2013/12/07(土) 19:15:39

島津斉彬

史実どうりであれば既に死亡しているはずだったが、薩摩にいた転生者の一人が暗殺の恐れがあることを精忠組に呼び掛け、伝染病に関しても予め用意万端にしていたことで、数日間意識不明の重体になったものの、何とか一命を取り止める。
しかし一橋派に肩入れし、井伊大老からの懲罰を恐れていた父斉興らの一派がこれ幸いに隠居にと追い込んだ。

新当主茂久(忠義)の父である久光は、斉興や井伊が亡くなる昨年1860年まで、兄斉彬に代わって薩摩を治めてきていたものの、世間に言われているように仲が悪いこともなく、寧ろ良好な兄弟として兄の考えを支え、二人で当主たる忠義を後見する考えだった。

現在、斉彬は薩摩において安政の大獄の沙汰により、隠居謹慎の身の上であり、これを解消するためにも何としても上洛を行い、幕府への改革を遂行しようと固く誓っていた。



「現在西郷は、謹慎先じゃぁ(奄美)大島から、先代様の命にて大東諸島への開拓に従事しておいもす。」

「ああ、以前兄上が病床に伏せう前、土佐藩の者に聞いたちゅう離れ諸島か。」

「は、大島で見初めた島嫁じょと共に琉球からの開拓民らと汗を流し、目処がたったとの報告があったでごわす。」

アロー戦争への観戦武官を提案しに行った際、勝と共に薩摩について行った龍馬から、大東諸島に関しても容堂からの親書という形で斉彬に対して伝えられた。

これは象二郎が北方開拓に先立ち、肥料や火薬の原料になるグアノが採れる大東諸島の開拓は、計画しているロシアとの紛争のみならず、万が一戊辰戦争が発生した場合、或いは西南戦争での莫大な火薬消費量を一定量、国産にて賄えるのではと考えたからだ。
だが、土佐からの開拓にな距離からいっても遠距離過ぎ、費用も工業化を目指す土佐としては許容出来ないものだった。

故に琉球からも近く、77万石を誇る大大名島津家に、国防的に無主の地の確保、商業的にもグアノとサトウキビ栽培に適していると伝ることで誘導、短期的に薩摩の国力を下げるカードとした。

西郷は大島の島嫁”愛加那”と共に移住。自然環境の厳しさに耐えながら、サトウキビ畑やグアノからの硝石生成の目処が建っていた。

「まあ兎も角、兄上と謀って西郷を呼び戻さぁとならんな」

「御意。(良かったもんそ。これで吉之助さあ、無事呼び戻せうでごわす。斉彬様の為とあらば、久光公ん上洛へも否やはなかとでごわしょう。)」

265: キャロル :2013/12/07(土) 19:17:51

『”独立の気性に富んでおる者にござれば、拙者でなければ使いこなせませぬ”』

かつて斉彬が松平春嶽に”我が家の貴重な宝”とまで謂わしめた西郷だが、久光を”じごろ(田舎者)”と相手にしない気骨は、上司としては非常に扱いづらく、斉彬存命は西郷への歯止めとして貴重な存在だった。

そして16年後の西南戦争に際して、斉彬が生きていなければ、かつての部下達を見捨てられず、反乱軍の総大将に祭い上げられていただろうと謂われており、事実、明治新政府に置ける相談役というべき地位に就いていた当時の斉彬が、西郷を説得していた事が決定打となったと多くの歴史家が認めている。


大久保は桜島の先、東方にいる未だ見ぬ将棋指しの存在を感じ、そして西郷帰還が決まったことで、決意を新たにしていた。

「(我ら薩摩は未だ動けぬ以上、せいぜい働いても貰うとしもんそ。
だがこん皇国を清国が如く亡国にせんためにも、例え井伊掃部の如く、罵られ地べたで朽ち果てごととも、強権でん従わせてでも国を変えてみせう。其のためなら手段を選ばん)」

それは根本に私心がなく、日本史上最大の政治家と評された大久保利通が歴史の表舞台に立った瞬間だった。

266: キャロル :2013/12/07(土) 19:27:41
以上です。色々と読みづらい上に斉彬とか大物が生存してて、我ながら大丈夫かと不安ですが

次回からは第一話の冒頭にあった樺太に舞台を移した「北夷の門」編に突入します。
なんか色々とすいません。

こんな駄文ですが皆様の感想だけが支えですので、宜しくお願いします。

267: キャロル :2013/12/07(土) 19:34:02
訂正です
259

自国民の生命、財産の危機に限るという方向に転換した

           ↓

軍事力の行使を自国民の生命、財産の危機に限るという方向に転換した

修正

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最終更新:2017年10月21日 11:45