272: キャロル :2014/04/27(日) 22:47:27
後藤伯の幕末奮闘記 第二部

北夷の門編 第1話



「なんてことだ。」

箱館駐在のロシア領事ヨシフ・ゴシケーヴィチは頭を抱えていた。
今年(1863年)に入りサハリン(樺太)状勢が更に緊迫化していた。

前年(1862年)に西南諸侯らの建白によって樺太出兵が決定された。
樺太鎮征軍と呼ばれる雄藩連合派遣軍が結成となり、此れにより今年春の本隊上陸に先駆け、先行部隊500名と、工兵部隊、所謂”黒鍬”として雇われた千名弱がその年の夏に上陸。

主に樺太南部に根拠地となる兵舎建設や、英国から都合してもらって清国政府から許可が下りず、建設出来ずにいる上海 呉淞鉄道から転用しての簡便鉄道の建設(第一期:大泊~豊原間)、佐賀藩に依頼して作製された有田磁器製碍子を使用した電信網、港湾、及び灯台整備などを行い始めていた。


この時点で箱館に居るゴシケーヴィチは連絡を受け、幕府の蝦夷地管轄たる箱館奉行へ抗議に赴くと「日本国民たるアイヌへの保護、そして治安維持の為である」という説明を受ける。

此に対し
「治安は我がロシア帝国が責任を持って維持しており、このような行為は列強につけこまれる要因となりましょう。我々もどうなるか責任はとれないですよ。」

と脅し交じりの抗議を行うと共に、日本の対露政策が変化してしていることを本国に報告する。


此れを受け、ロシア皇帝アレクサンドル2世は御前会議において、
『より深い極東状勢の調査と、万一の際には第2代東シベリア総督コルサコフの命令でアムール・コサック及び、バイカル・コサックを統率する権限、及びサハリン島への上陸許可を与えるものとする。
ただし現状日本人を刺激しないためにサハリンへの兵力増強は行わないこと。』
などが決定、通達した。

「まったく、其れも此れも海軍の連中のせいだ。奴等、海軍統監が皇帝陛下の弟君であるからとはいえ、何をしても良いと勘違いしておるのか?!
我等外交官は奴等の召し使いではないぞ!」

273: キャロル :2014/04/27(日) 22:48:59

露厮亜帝国海軍省

なぜここで海軍が出てくるか、疑問に感じるだろう方もいるだろう。
これは当時のロシア帝国の外交折衝が、外務省と海軍省の二重行政となっていることに端を発している。

例えば、対馬占拠事件の計画立案はロシア太平洋艦隊司令リハチョーフ大佐が提案したものだが、日本との関係悪化を懸念したロシア政府は拒絶するものの海軍統監コンスタンチン大公の許可により決行されてしまう。

アロー戦争の仲介と称して沿海州を掠め取った「愛琿条約」「北京条約」にしても、本国の慎重姿勢を無視して清国と交渉した、初代東シベリア総督ムラヴィヨフが陸軍、そして、その極東政策の支持者である後任総督のコルサコフは海軍軍人が就任している。
1860年代ではなく、つまりは10年後であったなら、積極的な軍人と穏健な外交官の対立があっても国是ともいえる『南下政策』に問題など無かったのだ。

しかし戦後の再編という国家改変期だったことで、外交的混乱が顕在化していたといえる。

ロシア帝国はクリミア戦争の敗北と、敗北の原因たる自国の旧弊な国家体制への大規模改革に取り掛かっている真っ最中でありながら、カフカス、中央アジア、極東アジアへの拡張、ポーランド・リトアニアでの一月蜂起などへの反乱鎮圧など、現代の視点からみれば”よく破綻しないもんだ。国内植民地主義ぱねー”である。

アロー戦争を出汁にして清国領を掠め取ったロシアの行為を、英仏両政府が憎々しげに見ている。或いはそう見られることを自覚していたロシア帝国政府は、サハリン問題がクリミア戦争の再来となることを恐れていた。

274: キャロル :2014/04/27(日) 22:52:12

「連中、国土を拡張することが、神と皇帝陛下に与えられた義務だと考えておるのだろうな。
それはいい。だがその事で起こる国際的反発など、毛ほども考えておらんのだろうし、当然後始末をする羽目に為る、我等外務省と外交官の事など気にもしとらん。全く腹立たしい。」

実際ゴシケーヴィチが日本に赴任する際、海軍の非協力によって、軍艦ではなく民間船での渡海を強いられたのを始め、箱館赴任後も現地で起こす軍人らの問題行為を、内心とは裏腹に日本側への責任転嫁を主張せざるを得ず、彼のSAN値はごりごりと削られ、対馬事件の後とあって、既に海軍への好感度は地に落ちていた。

「軍需品の象徴と云える缶詰が、生産され始めたこと一つとっても、ヤポンスキーが本気になってる証拠だ......いや、”生け贄の羊”にされたと言っていい。
日本国内は”ジョウイ”主義者が力を持ち、国外からは辺境領が侵されつつある。
であるならば、”アー”の敵でもって、”ベー”の敵に対処すれば良いのだ。
日本政府の懐は(直接的には)痛まないし、諸侯軍の力を削げると良いことずくめ。
イギリス人はヤポンスキーに味方しつつあるし、フランス人も日本政府(幕府)に援助を申し出ていると聞く。
そもそも外国人を狙うジョウイ・ロウシが居なくなるのだから、其れだけで、在日居留民の安全面での向上という利益を得られる......我がロシアの不利益と引き換えに!
クソッ! 何れも此れも軍人共のせいだ!!
はあ……辞めたい。めげたい。つらいつらい。」

箱館山麓にあるロシア領事館で居留民向けに販売されている「肉詰缶」と、連続式蒸留焼酎、いわゆる甲類焼酎を飲み、某凡人女子高生の如く”くだ”を巻いていた。

275: キャロル :2014/04/27(日) 22:53:23

一見して幕府が主導権を取り戻しつつある様に、ゴシケーヴィチは考えていたようだが、実情は少々異なっていた。

確かに幕府の懐は痛まないが、樺太出兵には国土防衛と経済活動、治安対策(尊攘浪士対策)以外にも参加する雄藩らにもメリットがあった。

先ず、下記にて詳細を記すが、朝廷からの実質的な勅命で官軍ということもあり、参加諸藩の名誉、及び派遣軍の士気向上更には維新前の穏健的倒幕運動、「廃幕新政」への人脈網構築も見込める。

次に史実に措ける下関戦争、禁門の変、第一次長州征伐などの、社会的衝撃の穴埋めである。

此れは史実と比べて、アロー戦争の実態が伝っているとは言え、公家、神官や、末端の浪士にまで意識改変が進んでいるわけではなく、どうしても下関戦争の代替となる対外戦争が必要であると考えたからだ。

会津藩主松平容保を「蝦夷守護職」とし、派遣する藩も象二郎らと土佐藩首脳部である「夢幻会」は、当初は会津、水戸、土佐、長州、福井の5藩と、浪士を中心とした屯田兵(義勇兵)を想定していたが、出兵計画の発表後、まず佐賀、薩摩、大野藩が参加を表明した。

長州、水戸を初めとする尊攘派が強い藩もあれば、元々北方開拓を推進する佐賀、大野のような藩もあって、以外と参加を希望する藩も多かった。


和宮降嫁の引き換えとして、攘夷実行を迫る朝廷の圧力をかわす為、幕府も陸上戦力こそ送らぬものの、海軍艦艇の派遣や、出兵及び開拓に協力した藩への負担軽減政策、三菱らの武器製造販売を、大っぴらに認める代わりに、三菱、三井、鴻池ら商人らによる運用資金捻出策として「蝦夷拓殖銀行」の開設などを発表している。

(元々三菱と三井、三野村利左衛門、大隈重信を介した勘定奉行小栗との交渉に拠るもので、当時日本一の資金力を持つが、”危ない橋は渡らない”鴻池を引っ張り込む裏工作でもあった。これら資金提供を行う商人には、引き換えとして北前舟運航の租税軽減や、俵物以外の蝦夷商品の販売を認める事となる。)

276: キャロル :2014/04/27(日) 22:54:44

話は戻るが、前話で土佐と英国側が話していた箱館缶詰工場の製品である。既に製品の一部は横浜や長崎、箱館の外国人向けに販売され高い評価を受けていた。

それはスケトウダラなどの擂り身で作った「魚肉缶」と、鰊、鱈などの廃物部位を飼料として養豚した豚肉(英国豚)と、エゾシカ肉を合挽きとした「肉詰缶」である。

象二郎は、日本人のタンパク質摂取による体質向上に大きな役割を果たしたのが「魚肉ソーセージ」だと考えており、何とかして此れを江戸時代で再現できないかと考え考案したのが、いわゆる「SPAM缶」方式である。

缶詰自体は明治になっても日本人には高級品だが輸出品にもなり、いずれ単価も下がり、軍需用としても兵卒が利用することで普及することも考慮していた。

さらに英国、米国に豚肉のSPAM缶を、一つの缶を売ることに数%の利益を受けとるパテントを取ることで、現在進行中の南北戦争や、今後の普墺、普仏戦争など世界中の軍隊に売ることで、莫大な利益を得ることを目論んでいたのだ。

将来的に豚肉SPAMなど真似される事が容易に想像できる事から、稼げるときに稼いでおく方針で、日本からの輸出用には淡白な味で欧米人にも人気魚介類の介党鱈、現代のドイツでも高級食材で高品質と評価を受ける、エゾシカ肉の一時養鹿による味、及び生産の安定供給化に加え、将来的にカニ缶も開発するという、高級缶詰路線で乗り切れられるとの目論見である。

ちなみにエゾシカ捕獲はアイヌに依頼し、報酬として現地生産した連続蒸留焼酎を与えた。
(単価は超安いので所謂”不法労働”に該当するが、アイヌは酒好きなので、他方の馬鈴薯などの農作物生産委託より人気が有ったと云われる。)


これら幕末における莫大な利潤は、南北戦争後の払い下げ武器や船舶の買い付け資金に利用され、明治に入り三菱が海援隊の傭兵派遣業を始めるに至り”食い物を元手に、武器と人間を売る日本商人”という、金を稼ぐためには形振り構わぬというイメージが出来上がる一端になったとされている。

既に居留地や清国人らに提供、味付けを調整したタイプも製造しており、モルラン(室蘭)に缶詰工場を増設する予定で、作業員の募集を江戸を中心に、口入屋(手配師)に依頼している。

此れに刺激されたのか、三井がフランスの協力(小栗の仲介により)で鮭缶、オイルサーディン缶の工場をオタルナイ(小樽)に建設するとの情報も入っていた。

277: キャロル :2014/04/27(日) 22:56:13

副産物として鹿、豚等の骨粉肥料の市場開拓である。
今回の樺太出兵の影響で少しずつ鰊粕の値が上がりつつあることに、現在取引中の木綿問屋から文句が出ていたので、「もっと安くて効果的な肥料材が有りますよ」と囁いてやったら食いついてきた。

当時は肉食文化があった薩摩以外に骨粉肥料は存在せず、動物の骨ということで気味悪がってはいたが、蒸製骨粉が干鰯に比べリン酸含有量が多く、西洋農業の主流ということで当面は廃牛馬骨などを利用することを提案した。

一時養鹿による蝦夷鹿の安定供給に合わせる形で、樺太戦争の終結を目途に、安価な鹿骨粉を供給する予定だ。

結果として値段が下がる鰯や鰊を肥料ではなく飼料用として利用できるというブラックな計算をたてていた。
(鰊、鰯などの魚粉も飼料、窒素肥料として価値があるので早々値崩れしないだろうが、必要以上に高くては日本人の体格向上の妨げになる)

このように象二郎ら三菱が、樺太出兵を機として興した産業により、史実以上の財閥に成る基礎を築いたわけだが、転生者も少なく、ある意味”やりたい放題”だった状態だったことで、後年大久保や伊藤らは国家に奉仕する存在であり、転生者を管理する新「夢幻会」を結成する要因の一つともなる。

健康に気を使い、同世代の板垣、大隈らと同じ大正時代まで生きた象二郎は、新たに作られた”夢幻会”のメンバーとも交流があったとされる。

大蔵官僚であった某転生者は、後妻である年下美人妻との馴れ初めや、美人女中を見て、「素晴らしい。私の目指すべき理想が見えた」と女学校建設を誓ったとか、誓わなかったとか
(余談ですが彼女らは史実の人物です。)

278: キャロル :2014/04/27(日) 23:06:13
以上です。戦闘とかの描写がなくてすいません。
たぶん次回は夏コミ前の7、8月ぐらいになるかも(なんかコミケ前だとやる気が出るというか)
こんな遅筆野郎で、最近は掲示板の方にも覗っていないので、疎くなっていますが、なんとか続けたいと思いますので、なにとぞこの駄文に感想お願いします。

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最終更新:2017年10月26日 13:34