617: yukikaze :2017/11/04(土) 20:52:13
日露戦争史 第十章 岫厳攻防戦

月も凍りつくような深夜に響く遠吠え。
それを聞いたロシア兵達は一様に怯えの表情を見せ、馬たちは狂ったように嘶く。
古参兵や憲兵達は騒ぎを鎮めようと叱責の声を上げるが、それはまるで恐怖を紛らわせるかのようであった。
いや、事実、彼らもまた恐怖に震えていたのだ。
そう。『奴』は、音もなく忍び寄っては、油断している兵達を惨殺してのけ、悠々と戻っていくのである。
当初は「たかが獣一頭。シベリアの虎や熊の方が危険だ」と笑っていた、シベリア軍団に所属していた面子が、翌朝、顔面を爪で引き裂かれた姿で雪原に埋まっているのを何度も見せつけられれば、恐怖を覚えるなというのが無理であった。

剣牙虎。
欧州ではすでに滅び去っており、存在すら抹消されていたこの凶暴な生物は、恐ろしいほど勇猛でありそして狡猾な獣であった。
確かに襲撃が始まってから、現在までの犠牲者は数十人にも満たない。
1個軍団の兵力を考えれば、無きに等しい損害だろう。
実際、軍団司令部や師団司令部の面々は口々にそういっていた。

だが、それはあくまで、十重二十重に守られた人間だからこそ言えるものであった。
殺された面々は、外周部に配備していた斥候達。
そう。狩りで例えるなら、猟犬と言っていい存在が、確実に潰されていったのだ。
猟犬のいない狩りがどのような結果を招くかなど、説明するまでもないであろう。
無論、彼らも無策ではなく、斥候の数を増やしたり、あるいは罠をあちこちに仕掛けるなどして対策を練ったのだが、逆に剣牙虎に注力するあまり、日本軍の奇襲を受けることもあり、兵達の士気は徐々に低下しようとしていた。

襲撃の成功を寿ぐようなあの咆哮は、この地のロシア軍にとっては、怒りを掻き立てるよりも、『今日も無事に生きていられた』という安堵感が日増しに強くなっていたのだ。

それとは対照的に、岫厳に籠城している第四師団は、意気軒昂であった。
籠城策を早々に決めた梅沢であっあが、彼は別に、モグラのように巣穴に閉じこもるつもりなど更々なかった。

『少し挨拶しに行くか』

と、なんでもないことのようにふらりと席を外すと、1刻後には、血まみれの刀と同じように血にまみれた爪と牙を持つ同行者とともに、帰ること3度。
師団長自らの夜間斬り込みという驚天動地の行動に、下士官や兵は『うちの親父は鬼神か何かか?』『もう親父だけで勝てないか?』と、半ば呆れ果ててしまい、事実を知って、血相を変えて諫言をしに来た参謀長や連隊長に対しては

『そろそろ儂の顔も知られてきたので、今度は儂が撒き餌になるから、確実に相手を潰せ』

と、詳細な計画を立て、今度こそこの厄介な猛獣を狩ろうと、手ぐすね引いて待っていた、老練な斥候と狙撃兵の混成部隊を、連隊の砲撃によって、纏めて消し飛ばすということをしてのけている。

相手に与えた被害としては、数十程度ではあるが、どんな小さな襲撃であろうとそれが成功し、剣虎牙が上機嫌に咆哮を上げるさまを見れば、意気が上がるというものであった。
故に、梅沢の『相手の目は大分潰した。第八連隊率いて、闇夜に紛れて夜襲かけるぞ』という命令が下された時は『おい。俺達も親父の真似事だとよ』『そうか。それなら『夜討ちの大将は、剣牙虎の大将』と木札をばらまくか?』『そりゃあいい。塙
団右衛門も、あの世で大笑いだ』と、ノリで木札を作った挙句、夜襲に成功した後に盛大にばらまいてのけたのであった。
後世『夜討ちの第八連隊』と、勇名を馳せることになる第八連隊の夜襲は、同時に、これから始まる苦闘の始まりでしかなかった。

618: yukikaze :2017/11/04(土) 20:55:48
昨日と変わらぬ風雪の中で、第四師団の兵達はそこかしこでぼやいていた。

「おい・・・ロスケの連中はこんな天候でも戦争やるのかねえ?」
「あいつらの国は年中冬だというからな。これが『いつもの天候』なんじゃないか」
「どんな国だよ。そりゃあウチを狙いに来るな」

毒づきながらも彼らは手を休めない。
幸いにも銃や機関銃は、この寒さでも問題なく動いてくれるが、それでもマニュアル通りの手入れを怠った場合、銃を棍棒代わりにして戦わないといけない羽目になるのだ。
つい先日、ある若手将校が、先祖伝来とやらの刀で切り結ぼうとして、あまりの寒さに刀が金属疲労を起こしていて根元から折れてしまい、そのまま相手の銃で殴り飛ばされ重傷を負った姿を見せられれば猶更であった。

「よし。グリースは、冬季戦の規定通りにしろよ。べったりつけたら最後、固まって稼働しなくなるぞ。後、決して銃を冷やすようなことはするなよ」
「わかっているよ。あんな連中と格闘戦なんかやれるかい」

拭き洩らしがないか念入りに確認しつつ、兵達は銃の手入れを終える。
格闘戦も一通りこなせるが、無駄なことが大嫌いな彼らである。
格闘戦よりも射撃戦の方が『こっちが無駄に傷つく可能性が少ない』のなら、そっちを優先するのが当然であった。

「ちくしょう・・・塹壕が掘れればなあ」

凍りついた地面を忌々しく見ながら、一人の兵が毒づく。
自分達が寄りかかっている胸壁は、確かに何もないよりかはマシではあるのだが、資材不足のお蔭で、コンクリートではなく岫厳で調達した煉瓦などを使っているのも多いのである。
ある程度は厚くしたとはいえ、コンクリートと比べると強度性に問題があり、砲撃の破片によって傷つく可能性を考えれば、手放しで喜べるものではなかった。

「まあ、ロスケが遮蔽物無しで突撃してくれるから、砲撃考えなければ有利だけどな」
「連隊砲の連中がぼやいていたぞ。どこの世界で砲が直接照準で撃ちあうんだって。ナポレオンの時代は終わってんぞって」

ロシア側が舐めているのか、それともさっさと終わらせたいのか、彼らは砲兵部隊を間接射撃ではなく、直接射撃を以て制圧しがちであった。
お蔭でこちらも、連隊砲部隊が直接撃ちあい、向こうの砲兵部隊に対して一定の打撃を与えることに成功したものの、数の差により、こちらの連隊砲部隊の損害も無視できず第一防衛ラインも撤退せざるを得なくなっていた。
(なお、師団砲兵部隊は、相手の軍団砲兵部隊と撃ちあわねばならず、こちらはこちらで苦労をしていた。)

「あと何日続くんかのお。この戦」
「親父は一カ月と言っていたが・・・後、20日は持たさんといかんのか」

そこかしこで天を見上げる兵達がいたが、下士官兵も咎めることはしなかった。
何しろロシア側のしつこさは、攻撃が始まってから日を追うごとに加速しているのである。
無論、そこには、この街を陥落しなければ、攻勢は先細りになるというロシア側の焦りが大きいと思われていたが、第四師団の面々は、「やっぱり親父のあれだよなあ・・・」と、思わずにはいられなかった。

「やっぱりあの木札がまずかったか」
「いや・・・あの後、ロスケの威張り腐った軍使に対して『バカめ』と返答して、剣牙虎殿に吠えさせたことじゃないか」
「それじゃねえだろ。ロスケの連隊旗かっぱらって、これ見よがしに翻させた挙句、挑発したことだろ」
「お前馬鹿だな。親父が見つけた敵の弾薬庫集成場に砲弾ぶち込んで大爆発させたあれだろ」
「お前らガキの喧嘩じゃねえんだぞ。この前、敵の師団司令部を親父達が見つけて、砲撃で始末したあれ以外あるかよ」

自分達がやらかした数々の武勲を指折り数えながら、第四師団の男達はヤケクソ気味に笑う。
うん。これを自分達がされれば、相手を絶対に生かしてはおけんわなと。
少なくとも自分達なら、相手を簀巻きにして、道頓堀に叩き込むくらいには腹を立てる。

「ただまあ一つだけ言えることがあるぞ」

殊更陽気にしゃべる一人の兵に対し、全員が注目をする。

「もう誰も俺達を弱兵とか言わねえだろ。上田城の真田もかくやの働きだぜ」

そりゃ違いねえと、誰もかれもが呵々大笑する。
3倍以上の敵兵に包囲され、防御陣地を作るにも一苦労という状態でありながら、10日持たしたのだ。これだけでも十分に、強兵扱いされている九州や奥州、北海道の師団連中相手にもでかい顔ができるというものであった。

「ようし、おしゃべりはここまでだ。ロスケの連中が戦争に来たぞ」
「よっしゃあ。浪速の漢のクソ度胸見せたろ」

そこかしこで響き渡る雄叫びと共に、彼らは銃を構え、砲火を交える。
かくして、第四師団は、師団の半数近くを失いながらも、攻勢開始から20日耐えるという戦果を上げることになる。

619: yukikaze :2017/11/04(土) 21:02:43
「タマ。儂は罪作りな男じゃのう。今日も多くの若者を殺してしまった」

深夜。一部の見張りを除いて、多くの兵が寝静まった頃、屋上に備え付けていた椅子に座りながら、傍らで寝そべる剣牙虎に語りかけていた。

「一将功成りて万骨枯る。いや・・・ここでは功成らずして、か。」

攻勢から24日目。ロシア側の昼夜を問わずに行われる攻勢によって、師団が保有する弾薬は底を突こうとしており、兵員も2/3が失われようとしていた。
今では兵站連隊の兵は当然、軍医や軍楽隊、遂には連隊長や師団本部の面々ですら、銃を片手に戦うというのが当たり前の状況になっていた。

「来世は坊主になるか医者になるか。いやいや。これだけ多くの若者を殺したんじゃ。儂は永遠に地獄で責め苦を負わねばならん。」

タマをいとおしそうに撫でながら、梅沢の独白は続く。

「思えば儂の一生は、幕末維新で終わったかもしれんものじゃった。それを考えればよく生きたというべきか」

時が時ならば、仙台藩士として、仙台城で討死をしていたか、あるいは北海道で屍をさらしていたかのどちらかであっただろう。
そう考えると、儲けものの一生とも言えた。

「後二刻で、最後の総攻撃じゃ。謙信入道の如く敵陣に斬り込まねばのう」

当然のことではあるが、梅沢は、無事に帰れるなどとは思っていない。
士気軒昂とはいえ、既に師団の兵力は激減し、連隊の規模が大隊レベルにまで落ち込んでいるのである。ロシア軍に痛撃を与え続けたとはいえ、向こうはまだ1個師団半は残っているだろうから、突撃が成功しても、良くて相討ちであろう。
だが、現状では持って2日であることを考えれば、ここが最後の勝負所でもあった。

「タマ。お前を大阪には連れて帰れなさそうじゃ。それだけは許してくれよ」

クォンと、小さく鳴いて、タマは、梅沢の掌に顔をなすりつけていた。
梅沢と同様、そこかしこに血の滲んだ包帯が巻かれてはいたが、主と同様闘いを止めるつもりはないようだ。

その光景に、梅沢は優しげな表情を浮かべたが、次の瞬間、けげんな表情を浮かべて、ある方向を向いていた。

「なんじゃこの空気は・・・」

彼の背中に感じられる、必殺と言っていいほどの戦気。
タマも又、さっきまで寝そべっていたのが、威嚇の姿勢で睨みつけていた。
梅沢は目を逸らすことなく思考を巡らし続け、ある一つの結論に思い至った。

「儂としたことがしくじった。あいつらは常識はずれだというのを忘れていた」

心底呆れかえった声を出しながら、梅沢は椅子から立つと、下の階にいる当番兵に大声で叫ぶことになる。

「援軍が来たぞ。援軍の連中、夜襲する気じゃ。眠っている連中を叩き起こせ。」

急ぐならさっさと乗れと言わんばかりの姿勢を示すタマに跨ると、梅沢は驚き腰を抜かす当番兵を尻目に、自ら伝令として、各連隊へと赴き、兵をそのまま纏めるや、目を白黒させる参謀長や連隊長を尻目に、一目散へと戦場へと躍り出ることになる。

1905年1月4日。岫厳攻防戦は、ロシア軍の全面撤退により終結。
どちらもボロボロの姿で異臭を放っていた、岫厳救援軍の黒木元帥と梅沢師団長はお互いの姿を笑いながらも、涙を流して抱擁したという。
同日、蓋平近辺まで攻め寄せていたビルデルリング大将は、補給の欠乏と、第一方面軍の来援を悟って、全面撤退を発令。
撤退戦により1/3に渡る兵力と重火器を失いつつ、海城への帰還をすることになる。
なお、ロシア側の序盤の攻勢を成功させる立役者であった騎兵部隊は、この撤退戦で機動防御を行い、戦友達の多くを撤退させることに成功させる代償として、壊滅的な打撃を受けることになる。

岫厳攻略失敗を知ったグリッペンベルグは、「ステッセルの阿呆が!!」と、岫厳攻略を任せざるを得なかったステッセルの戦術能力の無さに呪いの声を上げたとされるが、彼の博打の失敗の代償は、ニコライ二世による『アレクセーエフ及びグリッペンベルグの、極東軍の指揮権剥奪。増援軍を率いるクロパトキンの指揮に従え』という命令によって払うことになる。
この命令が告げられた時、グリッペンベルグは「もう我に出来るのは、戦場で勇者として死ぬことのみ」と、力なく副官に告げたとされるが、増援に来たクロパトキンは、グリッペンベルグを、上手く立ち回ったステッセル指揮下の第二軍の下の一軍団長にするという、露骨なまでの当てつけを行い戦線の整理を行うためとして、これまでのグリッペンベルグの戦略を全て捨て去り、遼陽前面に全軍を集結させることを決定する。

陸における日露両軍最大の決戦である遼陽会戦の準備は着々と進もうとしていた。

620: yukikaze :2017/11/04(土) 21:21:56
これにて投下終了。
実は近接戦闘の描写とか、退却するステッセルに対して「なあお前。大将首だろ大将首だよな。首おいてけ」と、『どこの蛮族よお前ら』な、黒木率いる薩摩師団の突撃とかあったのですが、助長になりすぎるのでバッサリカットすることに。

3倍の大軍で、しかも塹壕戦も碌にない状態でよく勝てたなと思われるかもしれませんが、ここら辺は、ステッセルの中途半端さが助けたと思っていただければ。
日露戦争のステッセルの用兵を見ると、彼は消耗戦を理解している将帥ではあるのですが、その一方で、一つの目標に固執しがちで柔軟性がない欠点がありました。

岫厳攻略『だけ』を考えるならば、間違いなく消耗戦をつづけたのでしょうが、彼らの軍勢は第八軍団への包囲殲滅を行う役割もありましたので、兵力損耗を避けなければならないというジレンマがあり、結果的に消耗戦と強襲戦どちらも徹底できなかった側面があります。

なお、ロシア軍も1個軍団が消耗する羽目になりましたが、日本も第七軍団が壊滅し、第八軍団、第五軍団、第六軍団も損耗をしているので、戦術的には痛み分けですがロシア軍が撤退していますので、戦略的には日本側勝利となります。

なお、第六章の訂正として、南山攻略で半壊したのは第四師団ではなく第十八師団に変更をお願いします。

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最終更新:2017年11月05日 11:57