5: ホワイトベアー :2022/01/06(木) 21:41:26 HOST:sp1-75-245-231.msb.spmode.ne.jp
日米枢軸ルート 第2話 改訂版

1954年に締結された日米同盟は、同盟締結から時間をおかない1860年代に1つの試練を迎える事になる。そう、アメリカ連合国の誕生と南北戦争の勃発である。

この頃のアメリカ合衆国は州の独立性経済や人口数ならびその構成、政治思想などの様々な違いにより、その国内に自由州と奴隷州の激しい対立を抱えてながらも何とか緩やかな連合としてまとまっていた。

しかし、1860年、アメリカ合衆国大統領選挙で反奴隷を掲げる共和党の代表であったエイブラハム・リンカーンが大統領に任命されると、奴隷州であるアメリカ合衆国の南部州が次々と連邦からの離脱を宣言。現地のアメリカ合衆国連邦軍の施設を一方的に接収した挙げ句、1861年にアメリカ連合を称し、独立を宣言する。

それでも合衆国と連邦離脱を表明した各州の間で、平和的な解決を目指して話し合いが何度も開かれるが、合衆国と独立を宣言した州の隔たりは埋まることはなく、
1861年4月12日、アメリカ連合国に所属する事を表明していたサウスカロライナ州にあるアメリカ合衆国軍(以降北軍)の要塞を巡る騒動で、アメリカ連合国軍(以降南軍)がアメリカ合衆国軍に攻撃したことにより、後に世界初の近代的戦争と呼ばれる南北戦争の幕が上がった。

《南軍、サムター要塞攻撃ス》

この報は海底ケーブルを経由して即座に日本にも伝わり、アメリカ合衆国での武力を用いた反乱を知った日本政府は、アメリカ政府に対して同盟国として日米同盟の参戦条項(同盟国のどちらかが戦闘を仕掛けられた時にもう一方に参戦義務が発生すると言うもの。なお、日本側の要請で相手は国家とは明記されていない)に則り参戦する準備がある事を通達する。

この時のリンカーンら連邦政府や連邦陸軍は、南軍の事を『砲艦と銃剣で威嚇したら直ぐに逃げるだろう』と舐めており、日本軍の介入は不要だと考えていた。しかし、国務長官や海軍長官の説得により、リンカーンは同盟国のメンツを無駄に潰す必要もないだろうと日本に感謝と歓迎の言葉を返した。

合衆国政府からの返信を受けて以降の日本の対応は程早く、同日中にはホノルルに待機していた騎兵師団1個と歩兵師団3個にいくつかの付随支援部隊からなる遣米軍、彼等用の武器弾薬や医薬品、各種消耗品を大量に乗せた輸送船団、装甲巡洋艦4隻を中核とした20隻の戦闘艦艇と多数の補給艦艇からなる遣米艦隊を編成。ホノルルから西海岸に向けて出発させる

開戦前は甘い見通しをしていた連邦政府や連邦軍であったが、南北戦争が開戦すると南軍の予想以上の戦意の高さや有能な将校が南軍に寝返ったこと、
連邦陸軍の練度不足や準備不足、組織体制の未熟さや合衆国政府の政治的な判断などによりその見通しは覆され、ブルランでの敗北後は一時は到着したばかりの日本軍が首都防衛の中核戦力となるほど南軍が優勢となってしまった。

この北軍の躓きは、トレンチ号事件等のアメリカ合衆国側の外交ミスやこれまでの極東情勢から反アメリカ合衆国感情や日本脅威論が高まっていたイギリスに史実よりも積極的かつ大規模な南軍への支援を行う事を決断させ、南軍の戦力は増大。
対する連邦政府や連邦軍は日本海軍海兵隊の指導の下で軍の再編や近代化、兵士や士官の練度向上、規模拡大などを同時並行して精力的に推し進め、日本軍は歩兵師団3個と戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を中核とした艦隊を追加で派遣するなど戦力の再編を推し進める。

そして、北軍と日本軍は再編成が終了し、チャンセラーズヴィルの戦いで南軍の北バージニア軍を撃破したのを契機に東部戦線・西部戦線双方の戦線で南部侵攻作戦を開始。

6: ホワイトベアー :2022/01/06(木) 21:41:58 HOST:sp1-75-245-231.msb.spmode.ne.jp
北軍・日本軍連合の侵攻に南軍は激しい抵抗を見せるも、史実と同様に装備の質から戦力、人口、技術力、工業力などの基礎国力まで全てが勝る北軍・日本軍連合に対して、海外からの輸入品に戦争資源を頼っていたが故に合衆国海軍と日本海軍による海上封鎖により先細るしかなかった南軍が勝利できるはずもなく、各地で撃破されていくしかなかった。

それでも南部はゲリラ戦に移行して粘り強い抵抗を見せていくが、1865年には反乱を起こした南部諸州の全てが北軍・日本軍連合の占領下に落ち、南北戦争は戦時国債の支払いや日本へのレンドリース費用の支払い、徹底的に焦土化した南部の占領費と復興費、傷痍軍人への保障金支払い et アメリカ合衆国に大きな負担を残しつつも、最終的にはアメリカ連合国の敗北とアメリカ合衆国の再統一と言う形で終結する。

戦争終結から時間をおかず、戦時中にリンカーンの抵抗虚しく可決された議会にてベンジャミン・ウェイドが提出した南部復興計画である南部再建法(※1)の下で南部を復興させるために、アメリカ合衆国南部には連邦軍の部隊が進駐を開始。南部復興政策の執行機関であるアメリカ合衆国南部統治軍政府と、その隷下で解体された州政府(州行政府、州議会、州裁判所)に変わり州を統治する5個のアメリカ合衆国地方統治軍政府が創設され、旧南軍や南部連合政府や南部連合加盟州の政治家や役人、南部連合に協力した民間人の逮捕や軍事裁判、南部再建法に基づいた南部の復興政策が開始されていく。

余談であるが、この時の南部では南北戦争末期に北軍が行った『南部の焦土化(Southern destruction)』と呼ばれる焦土作戦によってほぼ全ての州で家屋敷、工場、機械、農家、家畜、菜園、穀物、綿花、砂糖キビ、鉄道、橋などが破壊炎上され、人々は飢えを凌ぐ食料や雨風を耐える家すらない状態におかれていた。

そんな状態の南部を、復興させる為に必要な予算は試算しただけでも極めて高額であり、戦時国債や日本へのレンドリース費用の支払い、傷痍軍人への見舞金などを抱えるアメリカにとって負担するのは正直厳しかった。

そこをついた夢幻会は日本政府を動かして、壊滅状態の南部における日本企業への優遇や日本人移民の優遇を対価として、戦時国債やレンドリース費用の金利の低下や支払い期間の延長を提案。ふる袖がなかったアメリカ政府としてもこれはありがたいことであり、米上院の賛同の下に日米南部復興支援協定が締結され、少なくない数の日本企業や日本人移民が南部に進出し、テキサスを中心としたまだ未発見の南部の資源地域を確保していき、次々と日の丸油田を開拓していくことになる。

アメリカで南北戦争からの復興と西部開拓、それに日の丸油田の確保が進められていく一方、アメリカの同盟国たる日本では、南北戦争中から進めていた旧藩管理地域の教育や各種インフラ整備、社会保障の整備等の富国により一層力をいれていた。

これは、御維新前の日本は幕府直轄領や親藩、一部普請外様藩を除いてはいまだに近代的な工業やインフラは整備されていなかった為の処置でもある。

日本国内の半分以下ある旧外様藩領の整備と近代化に膨大な国力が割かれたため、南北戦争で得た戦訓を活かした新兵器の研究と開発の予算や損害の補填予算こそ降りるが、全面的な軍備の再編は国土の整備が一段落すると後回しにされてしまう。

国内の整備にあたって、日本政府が特に重視したのは鉄道の敷設であった。江戸時代にも鉄道はある程度は敷設されてはいたが、藩との関係もあり鉄道の長さは国土に比例すると驚く程少なかったのだ。
故に政府は全土における鉄道網の構築に莫大な予算をかけた。

7: ホワイトベアー :2022/01/06(木) 21:42:52 HOST:sp1-75-245-231.msb.spmode.ne.jp
また、強力な中央集権体制の構築の為に必須な情報通達の速度をあげるため、日本全土に電話線や電報設備の整備するなど全国規模での電信網の構築にも勤め、統一した国家、統一された国民を生み出すために教育では標準語の普及に力を入れることになる。

南北戦争後から四年後の1868年には臨時政府は御維新の集大成として大日本帝国憲法(※2)の大綱を発表。これと同時に今まで曖昧であった国名を大日本帝国で統一させ、1880年に大日本帝国憲法を施行し、選挙を行い帝国議会を開設する事を正式に公表する。

民間では、1850年代半ばに内燃焼機関を動力としたバスの運行が試験的にだが東京で開始され、1860年代後半にはベルトコンベアによる流れ作業などの大量生産方式を採用する事で富裕層以外でも購入可能なまでに価格を抑え、十分な実用性を備えた初の小型大衆車である三菱M-68の販売が開始されるなど世界に先駆けて自動車社会の兆しが到来し、娯楽面でも活動写真相当ではあったが映画が新たな大衆文化として登場するなど、大量消費社会の到来を期待させるものが次々と芽吹いていた。

また、大都市においては電球の使用率も向上。自動車用の道路の整備や送電網等の整備の為に都市の再開発もこの頃に活発化。次々と登場させる新技術や新しい製品は人々に江戸時代の終焉と新しい時代の到来を人々に感じさせるには十分な衝撃となり、臨時政府の教育等と合わせて旧外様藩出身の人々を日本人へと変えていくのに大きな助けとなる。

また、上記したとおり新型兵器の開発には予算が降りており、海軍海兵隊と陸軍は後に戦車と呼ばれる自走可能な装甲戦闘車や揚力によって飛行可能な空力機械の開発等が北海道やアラスカで行われていく。

南北戦争後、日米の関係が大きく変化し始めていく。それまでの一般国民はお互いに相手国の事をよく知らなかった状態であったが、この戦争で多くの日本人兵士が派兵されたため、アメリカ合衆国北部及び西部沿岸地域の一般市民にも日本文化や日本に関する知識が広まったのだ。
さらに南北戦争後の親日感情やこの頃の日本特有の近代的な光景と中世的な光景が交わった光景は、日本を訪れたアメリカ人にエキゾチックに移り、日本ブームがアメリカ合衆国北部諸州や東海岸でおきる。これは日本も同様であり、日本人兵士の帰国後には両軍の退役軍人等を中心とした民間交流が盛んになっていき、太平洋はその名の通り平和の海となった。

しかし、その平和も長くは続かない。アメリカ大陸での戦乱が片付き、暫しの平和を享受する日本人の多くは忘れていたのだ。自分らが長年付き合って来た隣国、朝鮮半島と中華を気取る奴らの面倒くささを。

8: ホワイトベアー :2022/01/06(木) 21:45:50 HOST:sp1-75-245-231.msb.spmode.ne.jp
(※1) 南部再建法
1962年にリンカーンの拒否権を覆して成立した南部再建に関する一括法案。史実の再建法に50%条項と軍が占領統治に必要だと認めた私有財産の接収の容認と基地の創設の容認、軍政府による南部の経済活動の統制管理、南部連合政府及び南部連合加盟州の政治家、役人、軍人(将校以外も含む)の公民権剥奪、占領時に連邦軍ならび日本軍の活動で被占領地で発生した被害や損害への損害賠償請求や補償要求の無効化、接収した私有財産の返還義務の否定等の内容を盛んだ法律。

あまりに強硬すぎる内容に南部の激しい抵抗を招き、とある歴史家から、この法律が南北戦争を2年長引かせたと言われている。

1870年代後半から段階的に緩和されていくが、それでも完全な南部占領と南部の軍政の終結は20世紀を待たなければならず、その間、南部諸州はアメリカ合衆国南部統治軍政府の軍政下に置かれ続けていた。

余談であるが。この法律に基づいてテキサス州に設置された日本軍の基地は21世紀現在でも在米日本軍の専用基地として運用されている。

(※2)  大日本帝国憲法
史実日本国憲法を叩き台にしてアメリカエッセンスを加えた憲法。

行政権ならび軍統帥権を内閣総理大臣が、立法権を帝国議会が、司法権を帝国最高裁判所が担う三権分立や、
旧来の自由権や原則的な法の下の平等(ただし徴兵対象と参政権は男性のみ)の他に、世界に先駆けて社会権(生存権的基本権)を明記した基本的人権の尊重、
天皇を国家元首としつつも、天皇の行う国事行為ならび政治活動は内閣の助言と代議士からなる元老院の許可の下でのみ行われるとする言う天皇象徴制と国民主権の4つを原則としている。

なお、天皇に変わり行政権と軍統帥権を握る内閣総理大臣の指名と任命は議会の専権事項とされ、内閣総理大臣に対する天皇の権限は議会の許可のもとにそれを承認することのみである。


帝国議会
史実日本国の体制を叩き台にして組織されており、元老院と衆議院の二院制を採用する。
モデルが日本国議会とアメリカ議会の為、史実の帝国議会よりかも遥かに強大な権限を有している。
大日本帝国憲法では国権の最高機関であり唯一の立法機関と定められる

9: ホワイトベアー :2022/01/06(木) 21:48:04 HOST:sp1-75-245-231.msb.spmode.ne.jp
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最終更新:2023年08月09日 20:35