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日米枢軸ルート 第4話 改訂版

台湾出兵の次の年である1875年9月20日、史実なら江華島事件がおきた日に日本と清国の間で、朝鮮半島の宗主権を巡る交渉が開始される。

この交渉のきっかけとなったのは、清国に日本側が行った《済州島と鬱陵島、この2島周辺の島々の割譲と朝鮮を日本に対して開国させる事》を条件として清国の朝鮮に対する宗主権を認めると言う提案である。

維新後の日本は李氏朝鮮の開国を要求し始めていた為、日本は台湾の次は朝鮮を狙っていると考え、朝鮮の宗主権の強化を計画していた清国にとって、日本の提案は渡りに船であり即座に飛び付きたいものであった。
しかし、清国は即座に飛びつかず、さらなる譲歩も得ようとした。結果、最終的にはゴム等の日本が欲するいくつかの資源を優先的かつ安定的に供給することを対価にだが阮朝等の宗主権も認めさせるなど、日本の譲歩を幾つかの得たことで提案を受諾。

済州島と鬱陵島の二島とゴム等の資源の供給を対価として、清国の朝鮮と阮朝等に対しての宗主権を日本が認めると言う内容の北京協定(※1)が締結される。

協定の締結を受け、日本は清国の仲介の下に朝鮮と日朝修好条規を締結。この条規は偏務的領事裁判権や朝鮮の関税自主権の喪失を認めさせた不平等条約であり、清国の一部では北京協定で確認された宗主権の侵害と言う声もあったが、清国の主流派はそんな些細な事を気にもしなかった。

一連の流れにより日清間の戦争の危機は遠退き、日清の間の緊張は幾分かが緩和された。とは言っても、清国にとって日本は武力で辺境とは言え自らの国土を奪った勢力であり、備えを怠ることはない。

清国の李鴻章などの海防派は日本の艦隊に対抗するために戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を中核とした近代的な海軍である北洋艦隊を整備する事を上奏、この提案は即座に採用される事になる。

海防派の上奏の裏にはアジアでの日本一強に強い警戒感を持っていたイギリスがおり、彼らは格安で清国に近代戦艦(※2)6隻を提供する事を約束していた。
また、装甲巡洋艦2隻は外交的なバランスも考えてドイツに発注され、4隻を国内の造船所で建造し始めるなど、海軍の拡張に励んでいった。

一方の日本であるが、この時の日本の目は自らが筆頭株主となったスエズ運河がある中東に向いており、オスマン帝国との友好関係の構築やスエズ周辺での英仏との暗闘に注力していたので自国周辺での混乱は避けたいため、清国には融和外交を心がけていた。

それでも、欧州列強を仮想敵国として削減され続ける軍事予算内でも軍備の更新を行っており、旧来の戦艦や装甲巡洋艦、防護巡洋艦に近代化改修が施していく他、台湾出兵前には太平洋と大西洋で質的優位を保つ事を目的として弩級戦艦と弩級巡洋戦艦4隻ずつ、15インチ砲搭載超弩級戦艦と超弩級巡洋戦艦を4隻ずつ、16インチ砲搭載超弩級戦艦と超弩級巡洋戦艦を8隻ずつ、正規空母8隻、軽空母8隻(計画時は偵察用水上機母艦)を中心とした大艦隊を30年かけて整備する両洋艦隊計画が議会を通過するなど軍備拡張計画も緩やかにだが進められていた。

当然ながらこのような強大な軍備は清国はもちろん欧州列強にとっても脅威であり、それが故に欧州列強は清国の支援に回る。

圧倒的な軍事力から太平洋の覇者を気取る日本と、それに追いつこうとする清国の軍拡競争が行われてい東アジアに緊張を走らせる事件が1882年に朝鮮で勃発する。そう、仁午軍乱である。

この軍乱はもともとは俸給米の不正に対する暴動の主犯恪達の救命運動であったが、次第に過激化、貧民などの下層民も巻き込んだ大規模な暴動にまで発展。朝鮮半島の各地で朝鮮政府打倒暴動が発生
最もこれだけならあくまでも朝鮮の内政問題で落ち着き、日米と清国の間に緊張は走らなかったであろう。

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しかし、朝鮮の元権力者であり、鎖国を先導していた興宣大院君が自らの復権の為にこの暴動を煽っていたことから、暴徒化した市民や兵士達の矛先が現朝鮮政府のみならず日本人やアメリカ人にまで向いてしまい、7月23日には公使館までもが暴徒化した市民や兵士達に襲撃されてしまう。

この時の朝鮮政府は王宮の防衛がやっとの状態であり、公使館の防衛に兵を割ける余裕などなかった。その為、公使館にいる公使や職員、避難民達は自衛を余儀なくされた。

1日は耐える事ができた公使館側であるが、いまだに朝鮮政府からの援軍が来ないことや、各種物資の不安、暴徒の数が増えている事から公使館の放棄を決定、朝鮮の首都警備の重要拠点である京畿観察使営への避難を行う為に公使館を脱出を決定。道中、偶然にも日米両国の避難者は合流し、負傷者こそ出したものの死者を出すことなく京畿観察使営に到着することに成功した。
しかし、この時には京畿観察使営は暴徒達の手に落ちており、彼らは漢城からの脱出を決断。力をあわせて漢江を渡り仁川府まで逃げ延びる。

仁川府使は快く避難してきた日米両国人を保護した。だが、翌日の明朝には彼らはまたも暴徒の襲撃を受けてしまう。襲撃した暴徒の中には仁川府の兵士も混ざっていた事、避難民一行は気を抜いていた事など複数の要因が合わさり、日本人4名、アメリカ人3名と言う犠牲をだす事態に陥る。それでも何とか彼らは仁川府の脱出に成功し、暴徒の追撃で死傷者をだしながらであるが漁村から漁船を奪取、海上に脱出する。

その後、彼らは海上を漂流していたところを日本海軍の測量船雲揚に保護され、長崎に帰還する事ができた。

この事件の報告は公使館一行の日本到着後に即座に帝都東京及びワシントンに報告された。

報告を受けた日米両政府は即座に清国公使を呼び出し、厳重に抗議をするとともに事実経過の調査、謝罪・賠償を要求。
また、清国がこちらの要求を飲まなかった場合の為に長崎に停泊していた第2常備艦隊(※3)とアメリカアジア艦隊(※4)、日本海軍第5海兵陸戦師団の動員を開始するなど戦争の準備を整え始めた。

抗議と要求を伝えられた在日及び在米公使からの電報や在清公使達からの抗議によって事態を把握した清国は、直ちに対応を行おうとするが、不幸なことに、この時、朝鮮を管轄地に含む北洋大臣である李鴻章は生母の死去による喪服中で職務を離れており、張樹声が代理を務めていたがその対応能力は低下していた。

それでも、反乱の発生や日米連合軍の動員が開始されたと言う報告を受けとた張樹声は事態の重要性から、即座に天津に滞在していた朝鮮の開国派官僚であった金允植と魚允中に事件の経緯を伝え、両名に意見を尋めた。

この二人は事件が興宣大院君派のクーデターであることを即座に見抜き、その事を張樹声に伝えると同時にに清国の派兵と日朝間の調停を要請した。

その事を伝えられると張樹声はただちに北洋艦隊に出撃準備を命令、それと同時に上海に駐在していた馬建忠を外交交渉役として呼び寄せる。

そして、8月7日に清国皇帝光緒帝から「派兵して保護すべし」との命令が下ると、清国はただちに反乱鎮圧の為に待機させていた北洋艦隊から装甲巡洋艦1隻、防護巡洋艦2隻からなる艦隊と兵力3,000名を朝鮮に向け出撃。合わせて何とか外交交渉で事態を沈静化させようと馬建忠を全権大使とする外交団を防護巡洋艦1隻の護衛の下に日本に派遣し、日米との交渉を開始する。

8月10日、日本の下関に到着した馬建忠は休まずに鉄道で東京に向かった。そして3日後の8月12日、東京に着くと日本政府内閣総理大臣大久保利通と面談、情報収集も開始する。

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この時の馬建忠は東京で購入可能な全ての新聞を大使館の職員に購入させるなどの手段で日本の情報を集め、彼は規模の大小に関わらず日本やアメリカなどの新聞記者の取材を受け、朝鮮から伝わった情報を開示し清国の立場を堂々と主張するなど、世論を味方を敵にまわさない様にするなど、少しでも日米との交渉を有利にしようとしていた。

そうして、始まった交渉であるが、蓋を開けてみたら意外な程スムーズに進んだ。それは、日米側の要求が北洋大臣および朝鮮国王の正式な謝罪と賠償金の支払い、公使館防衛の為の兵力の朝鮮駐留権、犯人・責任者の処罰、開港場遊歩地域の拡大と言う内容であったからだ。この時の清国はこれを口実に日米が朝鮮を奪いにくる可能性が大きいと考えていただけに、彼らの予想より軽い内容から即座に合意(もっとも馬建忠はこの提案をある程度予想していた)、賠償金の金額や朝鮮に駐留する具体的な条件と言った細かな交渉に移っていった。

なぜ、これほど日米の要求が軽かったかと言うと、それは時世が清国に味方をしたからであった。

この頃、東アジアから遠く離れてはいるが、日本が大きな権益を持つスエズ運河がある中東では日英の間で激しい対立が発生していたのだ。

ことの発端は1881年にエジプトで発生したクーデターであり、これによりアフマド・ウラービーをリーダーとした民族主義勢力、ワターニューンが中心となったクーデター政権がエジプトの政府機能を掌握。
彼らによって自らの権益を侵される事を恐れた英仏は翌年の1882年6月にアレキサンドリアを攻撃、占領すると言う軍事介入を行っていた。

日本はウラービーの乱が発生した直後から邦人保護を名目に1個独立混成旅団と戦艦2隻、装甲巡洋艦2隻を派遣しており、エジプトクーデター政府からスエズの権益を守いたが、
しかし、この程度の戦力ではイギリスが本格的に軍事介入を行ってくるとさすがに戦力不足が否めなず、日本はこれまでの経緯から、イギリスがこの反乱を口実にスエズ運河の権益を掠めとるのではないかと警戒心を高めていたことから、さらなる兵力の派遣を望んでいた。

当然、この日英の緊張の高まりは日本の同盟国であるアメリカ合衆国にも伝播しており、日米は清国との現状での衝突は避けたく、その為、清国に対しての要求が軽かったのである。

清国がその事を利用して日米にさらなる譲歩を迫らなかったのかと言う疑問が後世にて語られる事になるが、その理由は簡単であった。この時の清国はベトナムをめぐってフランスと対立しており、日米との事を構えることを望んでいなかったのである。

こう言った事情によって、日米清の交渉は8月26日には纏まり、翌日の27日に日本外務省にて東京条約(※5)が締結される。

これによって日米清三カ国間の懸念は一応ではあるが解消する事に成功。
清国は暴動の主導者であった大院君の河北省拘留と兵士6,000名の朝鮮への駐留を実行すると同時に軍事力を背景に朝鮮の宗主権の強化再編に乗り出し、日米はこれを清国の問題として静閑を決め込んだ。
もっとも、日米両政府は公使館防衛の為に朝鮮に軍を駐留させ、日米軍と清国軍がそれぞれ漢城に駐留する事になり、日米と清国との緊張は否応なしに高まっていくことになったが。

清国が朝鮮で足場を固めている一方で日本は日本で、東京条約が締結されるや否や台湾に待機させていた部隊をスエズへ向け出立。途中、シンガポールやインドなどイギリス側の植民地に示威も兼ねて立ち入りながらスエズに向かい10月にスエズへ部隊を到着させる。

この時、イギリスはテル・エル=ケビールの戦いでエジプト軍を破り、シナイ半島を除くエジプト全土を軍事占領下におき、スエズ運河地帯はあわや軍事衝突かと思われるほど日英の緊張はピークに達していた。

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しかし、両国共に現状での軍事衝突は得策ではないと考えた。もし、日英が衝突したのならそれは史上最大の戦争となり、他の列強が付け入る隙となることなど自明の利であったからだ。そこで両国は妥協点を探る為にフランスの仲介の下、パリにて交渉を開始する。

この交渉はフランスが事前に根回しをおこなっていた事もあり、一週間と言う短期間のうちに纏まり、日英の間でパリ条約(※6)が締結される事で一応の解決を見る。

この条約によりイギリスは日本のスエズでの優越権を、日本はイギリスのエジプトでの優越権をそれぞれ認めることで決着を見ることになる。また、この時、スエズ運河がイギリスの勢力圏に包囲されることを恐れた日本がエジプトにシナイ半島およびスエズ運河地帯の自治権をオスマン帝国に返上させる事をイギリスに要求、イギリスはイギリス船籍船のスエズ運河自由航行を対価にこれを認めた。

こうして、日本は中東での最悪の事態を回避する。一方のアジアでは清国との対立が浮かびあがってきてはいたものの、日清関係は破局してはおらず、世界の海はいまだに平穏を保っていた。

(※1)日本と清国の間で結ばれた協定。大まかな内容は以下の4つである。

1 清国は朝鮮に対して日本へと巨済島および鬱陵島、それに付随する島々を割譲させる。

2 清国は朝鮮を日本に対して開国させる。

3 日本は清国の朝鮮への宗主権を認め、これを侵害しない。

4 清国は朝鮮内の日本人の生命および財産を護る義務を持つ。

5 清国は朝鮮への宗主権や朝鮮内での特権を日本の了承なく他国に渡してはならない。

この協定と同様の内容の協定がアメリカとも締結されることになる。

(※2) インフレキシブル級を設計のベースとしつつ、艦上構造物や砲の配置を日本海軍の山城型戦艦(史実富士型)を真似て設計された戦艦。

(※3) 第2常備艦隊編成
  • 蓬莱型巡洋戦艦×8隻
 (史実筑波型巡洋戦艦)
  • 生駒型装甲巡洋艦×4隻
 (史実出雲型装甲巡洋艦)
  • 防護巡洋艦×7隻
  • 駆逐艦×24隻
  • 水上機母艦×1隻
  • 測量艦×1隻
  • 工作艦×1隻

(※4) アメリカアジア艦隊編成
  • デラウェア級戦艦×1
 (史実BB-4 アイオワ)
  • サンディエゴ型装甲巡洋艦
 (史実 ペンシルベニア級装甲巡洋艦)
  • 防護巡洋艦×3隻
  • 駆逐艦×13隻


(※5) 日米清が仁午軍乱の事後処理として締結した条約。大まかな内容は以下の通りである。

  • 実行犯等の逮捕と処罰
  • 被害者の遺族・負傷者への見舞金5万$の支払い
  • 損害賠償200万$(日米合わせて)の支払い
  • 公使館護衛としての漢城での軍隊駐留権
 (兵営設置費・修理費の朝鮮側負担)
  • 謝罪使の派遣
  • 居留地の拡大
  • 市場の追加
  • 公使館員の朝鮮内地遊歴

(※6) エジプト問題の解決の為に締結された条約。日英土埃の4ヵ国(三カ国一自治区)が条約に署名した。内容は以下の通りである
  • 日本のスエズ運河の優越を認める
  • イギリスのエジプトでの優越を認める
  • エジプトはシナイ半島およびスエズ運河地帯の自治権および領有権を完全に放棄し、永劫にこれを要求しない
  • イギリス船籍船のスエズ運河の自由航行を認める

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最終更新:2023年03月31日 20:27