407: ホワイトベアー :2022/02/11(金) 22:31:35 HOST:115-179-83-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
日米枢軸ルート 第6話 改訂版

1894年8月10日、最後通牒の回答期限内に受諾宣言がなされなかったことを受け大日本帝国およびアメリカ合衆国は清国との開戦を決断。斉州島に待機させていた第3陸戦師団を第9警備艦隊の護衛のもと朝鮮に出撃させ、旅順に籠る北洋艦隊への対抗として南北戦争でも活躍した扶桑型戦艦8隻を中核とした第6常備艦隊が黄海に向け出撃した。
そして、1894年8月12日、大日本帝国議会およびアメリカ合衆国議会は清国に対して宣戦布告を全会一致で可決。同日中には宣戦布告を正式に実施したことで日米と清国は戦争状態に突入、朝鮮戦争と後世で呼ばれる戦争の幕が上がる。

宣戦布告を受けた清国側であったが、開戦前に動員を許したのが北洋艦隊ならびに李鴻章が自身の私財を投じて編成した勇軍の1つである淮軍に限っており、他国で陸軍省にあたる兵部の管理化に置かれている陸軍正規軍たる新建陸軍は一切動かさないなどその動きは極めて限定的であった。

これは当時の清国内の政治闘争が深く関係していた。
当時の清国政府内では表向きは光緒帝に権力を譲ったが未だに実権を離そうとしない西太后と実権を取り戻そうとする光緒帝の間で激しい権力闘争が発生しており、日米との戦争をおこすことになった朝鮮半島に関する全権を管轄している北洋通商大臣は、西太后派の有力者であり、米英日を仮想敵国と考え、海軍力の拡大を訴える海防派の事実上のリーダーでもある李鴻章がこれを担っていた。
対して、清国の兵部と新建陸軍は光緒帝派の一派であり、ロシアを仮想敵国と考え、陸軍力の拡大を訴える塞防派がこれを掌握しており、彼らは自身の権力基盤である新建陸軍を政敵の尻拭いの為に損耗させる事を嫌うのは当然の事だろう。

また、李鴻章など一部例外はいたものの、基本的に西太后派内では琉球や台湾を奪い去った日本こそがもっとも警戒するべき東夷であり、日本に対抗するにロシアやドイツと友好関係を結ぶべきであると言う考えが主流派であったのに対して、
光緒帝派は確かに過去に色々あったが、約束破り常套かつ露骨に満州を狙っているロシアに対抗するためには日英との協調は不可欠と考えている親日英米派が多くおり、基本的に非戦論者が多かったなど、仮想敵国や外交方針を一本化できていなかったことも清国の緩慢な動きに大きく影響する。

こうした問題から清国政府内は最後まで挙国一致体制の構築に失敗。今回の戦争を皇帝が指揮をとる国家を上げた戦争とは認めず、国境紛争等と同様に担当大臣が指揮をとる小規模紛争と扱われ、投入兵力も正規軍は各艦隊のみで地上兵力はその全てが李鴻章の勇軍である淮軍に所属する部隊と朝鮮軍に限られるなど、戦う前から圧倒的なまでに不利な状況下におかれていた。

当時の清国中央で唯一統一化されていたものは、この戦争の範囲を朝鮮半島に限定したいと考えていただけだったといっても過言ではない。これすら、清国中央にとってこの戦争事態が政争の一環でしかなく、西太后派、光緒帝派ともに清国本土で損害を出すことを嫌ったことの証明であったが。もちろん理由はそれだけではない。この時の清国は満州でロシアと睨み合っているためにそこに穴を開けたくないと言う理由も大きかった。また、本国で戦って敗北した場合に他の列強に与える影響の大きさも彼らに本土での戦闘を躊躇させた要因一つであったとされている。

408: ホワイトベアー :2022/02/11(金) 22:32:06 HOST:115-179-83-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
清国上層部のこういった考えに李鴻章など戦争の当事者達は反感を覚えたものの、清国の光緒帝派はこの戦争自体 李鴻章の失策でおきた戦争と考えており、内心では挽回のチャンスを与えてやったことに感謝しろという態度を隠さず、西太后派も属国より満州の方が重要であると考えていたことから、彼らの意見はまともに取り合って貰えなかった。

こういった状況であった状況もあって李鴻章が取れる手は決して非情に少なかった。そもそも、彼に動員が許されていたのは戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を中核とした北洋艦隊と歩兵師団4個(約80000人)からなる淮軍のみであり、あとはろくに近代化されていない朝鮮軍しか存在しない。
これは一見すれば強大な戦力と言えなくもないが、相手は世界でも最高レベルの軍事力を有する列強であり、これではとても足りなかった。
当然、彼は更なる動員を望んでいたが、光緒帝派の権力の源泉である新建陸軍は満州でのロシアとの睨み合いや台湾からの本土直接侵攻を名分に光緒帝が動員を許さず、両広総督の管轄地も日米連合軍による台湾からの攻撃に備えなければならず、結局は手持ちの戦力のみで戦う事を余儀なくされる。

そんな状況で李鴻章は徹底した焦土作戦と旅順に籠る北洋艦隊による艦隊保全戦略にて、日本軍兵站負担を増加させ、合わせて平壌での徹底交戦により日本軍を疲弊させ、疲労が最高潮になったところを北洋陸軍主力で撃破すると言う計画を立案。日本が最後通告を行った日から平壌の要塞化と半島南部の徹底的な焦土化を実行していた。


一方の日米軍であるが、こちらたび重なる朝鮮での暴動と後手に回る清国のせいで少なくない犠牲が出ていたことから官民ともに主戦論で固まっており、また、指揮系統も兵力の大多数を占める日本軍がその指揮をとる事は両国で一致、こちらでも問題は存在しなかった。

日米連合軍の戦争計画は、第一に第12海兵混成旅団および第13海兵混成旅団が守りを固めている仁川橋頭堡に海兵隊1個師団を援軍として送りこみ、朝鮮半島北部と南部を繋ぐ交通の要所である漢城を占領。これと同時に陸軍1個師団を釜山に上陸させることで釜山にも橋頭堡を確保、その後に増援としてさらに陸軍3個師団を釜山に上陸させ、陸軍4個師団を持って半島南部を制圧する。
南部の制圧が完了後、陸軍4個師団と漢城の海兵隊1個師団を合流させ、計5個師団を持って朝鮮北部の平壌を攻略。その後朝鮮半島北部を制圧し、清国との講和交渉を開始、講和が結ばれればそれでよし、駄目なら旅順を落として直隷決戦を持って清国を屈服させると言う極めて堅実なものであった。

なお、当初は陸軍や海軍海兵隊で装備が始まっていた戦車や装甲車、自動車などの新兵器を配備している部隊や爆撃機などの投入も検討はされたが、朝鮮半島のインフラの無さなどの理由によりこれら新兵器は投入されなかった。


宣戦布告の同日にはその計画に則り、仁川までの安全の確保のために朝鮮軍兵士1,800人が駐留していた江華島を占領すべく砲艦〈温海〉〈伏見〉が沿岸陣地に対して砲撃を開始する。
これに対して朝鮮軍は沿岸の砲台陣地より反撃をはかるが、砲の性能に圧倒的な差があり朝鮮軍の砲弾はあたらず、朝鮮軍は一方的な攻撃にさらされ続けた。そして、士気が崩壊した朝鮮軍は砲台陣地から逃走。砲台の沈黙を確認すると、海軍第9海兵連隊第1大隊および第2大隊が上陸、第1大隊が草芝鎮を第2大隊が徳津鎮の攻略に成功した。
翌日には朝鮮軍が終結しつつあった広城鎮に対して先制攻撃をしかけ、これを陥落させ、別行動をとっていた第3大隊は永宗島に上陸、同島の沿岸砲台陣地がある永宗城の攻略に成功していた。

この一連の戦闘で日本軍は4名の死者を出したが、朝鮮軍に対して死者370名、捕虜890名と言う大きさ損害を与え、初戦は大勝利の下に江華海峡の確保した。
九州ー斉州島ー仁川を繋ぐ補給線を確立し、仁川に安定した補給を行える様になった。これにより、ある程度の部隊送り込めるようになった日本軍は仁川に海軍海兵隊第3陸戦師団本隊を仁川に送りこみ、漢城の攻略準備を開始する。
時を同じくして、海軍第7警備艦隊の支援の下に陸軍第24歩兵師団が釜山にて上陸作戦を開始。朝鮮軍の微弱な抵抗を廃し同地を占領する。その後、第24歩兵師団は釜山の防備を固め、半島南部制圧の準備を開始するなど当初は事前の計画通りに作戦が進んでいた。しかし、戦争というものには当然ながら相手がおり、どれだけ準備をしたとしても全てが順調にいくわけがあるはずも、以後日本軍は作戦の大幅な変更を迫られる事になる。

409: ホワイトベアー :2022/02/11(金) 22:33:01 HOST:115-179-83-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
日本軍が漢城攻略を準備しつつあった8月21日には漢城の放棄も決定。清国軍および朝鮮軍は漢城各地の井戸に毒を投げ入れ、火を放ち、漢城を破壊し尽し難民を仁川に誘導すると日本軍が進撃してくる前に平壌方面に撤退。さらに北部でも徹底的に焦土化を実施し、仁川方面に難民を次々と送りこんでいた。
難民の波により仁川での日本軍の負担は一気に増加、漢城攻略作戦は当初は第3陸戦師団を動員する予定であったが、兵站がそれを許さず第13海兵混成旅団を変わりに投入する事になってしまう(清国・朝鮮軍が撤兵したことから一個師団が過剰戦力と言う事もあった)。

さらに制圧作戦を開始した朝鮮半島南部では清国軍と朝鮮軍に食料などの物資を奪われ、家や田畑を焼かれた人々が進攻してきた日本軍に食料を求めると言う事態が多発。こういった光景は占領地域が広がるほど指数関数的に増えていき、半島の脆弱なインフラも合わさり日米軍の補給に大きな負担を掛けることになる。
これにより、朝鮮半島南部での進攻スピードは急速に鈍化していき、最終的には史実朝鮮戦争での釜山橋頭堡程度領域の占領で進攻は停止せざるをえなくなった。
さらに、拡大は停止したものの、この地にいけば食料が手に入るということが広まってしまった結果、この領域に朝鮮難民が殺到することになり治安等も劇的に悪化、消費する物資の量も加速的に増えていき、この領域の占領だけですらも大きな負担になってしまう。されど外聞もあることからこの地域からの撤兵はできず、日米軍は清国の計画通りに物資と時間、兵力を朝鮮南部で無駄に浪費していった。

釜山から南部を平定して合流するはずだった陸軍部隊の進撃停止を受け、第13海兵混成旅団はこれ以上の漢城の占領は無意味として仁川に撤兵。これによって日米の戦争計画は完全に破綻し、計画の練り直しを行う必要が出てきてしまう。

幸い清国軍および朝鮮軍は平壌に結集して動こうとなかったため、時間はある程度はあった。だが、それは本来なら短期間で戦争を済まそうと考えていた日本軍にとって何の慰めにもならなかったが。

作戦の練り直しを迫られた連合軍司令官 戸澤 栄一郎(トザワ エイイチロウ)海軍大将は日米連合軍の圧倒的な海軍力を活かして難民が多くいる地帯を迂回、東西から平壌を挟撃すると言う作戦方針を打ち立てる。

この方針を受け、連合軍司令部では「スレッジハンマー作戦」が発案される。同作戦は航空偵察の結果、守備兵力が少ない事が判明した元山に2個海軍海兵隊陸戦師団を上陸させ、橋頭堡を確保、その後、敵軍の目がこの元山に向いているうちに南浦に1個海軍陸戦師団を強襲上陸させ、計4個師団で平壌を攻略すると言う極めて野心的な作戦であった。
現状で朝鮮に展開している師団以上の部隊は第3陸戦師団を除いて全て陸軍所属なため、上陸戦に長けている海軍海兵隊の師団は4個師団が今作戦に投入可能であることと、史実大発をモデルに開発された強襲上陸用の新兵器である九三式揚陸艇の配備が進んでいたのも連合軍司令部が今作戦を立案できた大きな理由である。

当然ながらこの作戦、特に南浦への上陸は東京から強い懸念を抱かれることになる。日本軍上層部からは「いくらなんでも平壌から近すぎる」と批判の声や「南浦には満足な港湾設備がなく補給が続かない」と言う上がり、政府の一部も難色を示し始めるなど、一時間は作戦の練り直しも考えられたが、海軍大臣であった榎本 武揚の後押しもあり、この案は9月25日に内閣総理大臣 大久保利通からも承認される。

10月3日、戸澤海軍大将は「スレッジハンマー作戦」を発令。3個陸戦師団が日本本土で出撃準備を開始する。
また、黄海では制海権の確保を目的とした海軍が活動を活発化。確実に制海権を握るために日本海軍は北洋艦隊を旅順から引きずり出し、これを撃滅せんとする。
しかし、清国北洋艦隊提督丁汝昌もバカではない。北洋艦隊の実力では日本海軍に勝てないのは100も承知であり、勝ち目のない戦闘は避け、北洋艦隊がもっとも日本海軍に負担を掛けられる方法である艦隊保全を第一としていた。それゆえどれだけ日本海軍に挑発されようとも、それに乗らずに旅順に籠り続ける。
そこで日本海軍は35.6センチ連装砲を6基搭載した周防型戦艦8隻、同砲を4基搭載した伊吹型巡洋戦艦8隻を主力とした第1常備艦隊ならび第2常備艦隊を旅順封鎖作戦へ動員。圧倒的な海上戦力で北洋艦隊を旅順から出させないことで制海権を確保する方向に方針を変更する。

410: ホワイトベアー :2022/02/11(金) 22:36:03 HOST:115-179-83-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
制海権の確保と合わせて日本軍は上陸地点を清国側に知られぬように大規模な欺瞞、陽動作戦を開始しており、その一環として陸軍4個師団が本土から台湾に移動され、第1常備艦隊の旅順展開と入れ替えで帰還していた第6常備艦隊が台湾方面に移動するなど、台湾から清国本土へ攻撃を仕掛ける素振りを見せ始めていた。
さらに、上陸予定日が近づくと第7常備艦隊所属の巡洋戦艦2隻が福州一帯の海防施設に艦砲射撃を実施するなどより積極的な行動に移り、福州の沿岸施設に甚大な被害を与える。さらに、アメリカアジア艦隊と第6常備艦隊より抽出された戦艦2隻が劉公島にたいして砲撃実行した。

これらの行動に清国中央では日本は朝鮮ではなく本土への進攻を狙っているのではないかと言う意見が大勢を占めるのは当然の流れであった。これは北洋陸軍でも同様であり、彼らも日本軍は台湾からの上陸作戦を行うものと考え始めた。こういった考えは10月30日に第6常備艦隊によって装甲巡洋艦2隻を主力とした広東艦隊が撃破されると言う情報が彼らに伝わると疑念は確信に変わった。

清国の目が台湾に向いたのを確認すると、日本海軍海兵隊2個師団を乗せた輸送船団が舞鶴を出港、第4常備艦隊艦隊の護衛を受けつつ元山に向かい出撃。翌日には海軍海兵隊1個師団とアメリカ海兵隊第1海兵旅団が済州島を出港、アメリカアジア艦隊の護衛の下、南浦を目刺し黄海を東上を開始した。

この時の李鴻章ら清国軍上層部は日本軍の攻撃目標は本土だと考えており、一応、仁川からの攻撃には警戒して少数の騎兵部隊が複数編成を密にし、日本人居留地があった元山への上陸の可能性も考え600人ほどの兵力を警備部隊として貼り付けるなどの警戒体制をとっていたがその警戒を緩めていた。

11月8日、元山湾に戦艦4隻、装甲巡洋艦2隻を中心とした艦隊が突入、警備部隊に対して一方的に30.5センチ砲弾と20.5センチ砲弾を叩き込む。
この砲撃戦では日本側の損害は皆無であり、清国軍の抵抗が沈黙するまで砲撃を実施、沈黙を確認すると第6陸戦師団第16海兵連隊が上陸を開始した。この時、それまで沈黙していた清国軍約300が反撃を行ったが、砲艦の援護もあり、清国軍の反撃はあえなく失敗に終わり、わずか一時間程で日本軍は元山港の確保に成功する。

これにより残りの部隊は敵の抵抗を受けることなく上陸を行え、最終的には同日中に4万人近い兵力が元山に上陸した。
この部隊は翌9日に少数の元山守備部隊を残して平壌に向け移動を開始する。

元山の陥落と新たな2個師団が元山に上陸したと言う情報は平壌に展開していた清国軍に大きな動揺を与えた。この時、平壌には3万程の兵力が駐留していたが、その内1/3が朝鮮兵と言う状況であり、まともに戦っても大損害を被ると清国軍は考える。

朝鮮駐留清国軍司令官 葉志超 はこの事態に李鴻章に援軍を要請。これを受けた李鴻章は自身の戦略の崩壊を悟るも、少しでも平壌で時間を稼げるように予備兵力であった1万8000の兵力を平壌に向けて送りこむが、しかし、連合軍の方が一手早かった。

11月13日明朝、戦艦2隻を中核とするアメリカアジア艦隊の支援を受けた日米連合軍2万8000が南浦に対して強襲上陸を開始。
日米連合軍は、日本軍の新兵器である航空機とそれを搭載する専門艦である航空母艦を投入した事前の航空偵察などから南浦に機雷や大した上陸妨害用の障害物、防御施設がないことを知っており、事前の艦砲射撃などを行わず、いきなり上陸部隊を沖合いに展開させた。

九三式揚陸艇や武装大発を基に開発された九三式揚陸支援艇に乗り込み、上陸部隊の第一陣として切り込みを掛けたのは、南北戦争で活躍した日本海軍海兵隊第1陸戦師団第1海兵連隊で、警備についていた朝鮮軍は始めは上陸部隊に果敢に攻撃を加えたが、即座に沖合いの艦隊や近くにいた上陸支援艇から雨霰と反撃を食らい、沈黙してしまう。部隊の上陸時には朝鮮軍は散り散りに敗走しており、大した抵抗も受けずに上陸作戦は進んでいき、同日中には十分な縦深を持つ橋頭堡を確保することができた。

上陸2日目の10月15日には第1陸戦師団第3海兵連隊が平壌までの街道の制圧作戦を開始。この時は散発的ながら朝鮮軍の抵抗があったが、連発式ライフルは当然としてMG34をモデルとした汎用機関銃や迫撃砲などを装備する日本海軍海兵隊に勝てるはずもなく、それらは次々と撃破されていった。

411: ホワイトベアー :2022/02/11(金) 22:37:12 HOST:115-179-83-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
一連の事態を受け、平壌では籠城派と撤退派で激しい論争が勃発。撤退派の中心人物であった朝鮮駐留軍司令官 葉 志超 が籠城派によって軟禁されると言う事件もあり、この時の朝鮮駐留清国軍は完全に統率を喪失、各部隊の指揮官が独自の判断で戦うことになってしまう。
さらに、この一連の動きで清国軍は金より貴重な時間を無駄に浪費してしまい、日米連合軍が南浦に上陸してから4日後の11月19日には平壌は日米連合軍68000に完全に包囲されてしまった。

11月21日、司令部は包囲部隊全軍での総攻撃を決定、日米連合軍砲兵部隊に対して徹底した準備砲撃を開始した。それはまるでこれまで、弾薬の備蓄の為に一切攻撃を行えなかった鬱憤をここで晴らさんとでも言うかのような苛烈な砲撃であり、砲兵こそ戦場の神であると言わんばかりの光景であった。
この時の日本軍はそれまでの航空偵察により把握した清国軍の情報により砲兵陣地などの優先砲撃目標を事前に選択しており、さらに気球を使った弾着観測と言う当時としては奇抜な戦術を持って高い命中精度でそれらを攻撃していった。
もちろん清国軍側も黙って撃たれ続けた訳ではなく、反撃として日本軍に向かって砲撃をするが、ろくな観測も無い状態で砲撃をして効果が出るわけもなく(もっとも仮に観測手がいたとして射程距離の差でワンハンドゲームになるのは変わりないが)、むしろ気球からの観測によって自らの位置を確認させてしまい更なる砲撃を招くだけであった。

事前砲撃により一定数の砲台の無力化に成功した日米連合軍は翌日の22日より本格的な攻撃を開始。まず、牽制の為に第1陸戦師団の部隊から構成された第13混成旅団が平壌城東部正面の大同門対岸である長城里に築かれていた清国軍橋頭堡に攻撃をしかける。それに合わせて、第2から第5までの堡塁を攻略するために第6陸戦師団所属部隊が随時露営地から出立した。

長城里には攻撃開始6時間前より砲兵隊が準備砲撃を行っていたものの、清国軍は依然として戦闘能力を維持しており、苦戦を余儀なくされた。しかし、海軍砲兵隊の砲撃支援もあり、午前10時頃には中碑街の、さらに一時間後の11時には長城里の攻略に成功する。
第1陸戦師団主力およびアメリカ軍第1海兵旅団が7時頃には安山堡塁を陥落させており、ヨッタルマク丘を占領。同地に第1陸戦師団砲兵隊主力を展開させ、平壌市街地への砲撃を開始する。

第6陸戦師団は夜明け前より第3堡塁に対して砲撃を開始、さらに数時間後には第5、第4、第2堡塁にも砲撃を開始する。

清国軍も砲撃や銃器で反撃を行うが、日本軍は間接射撃を実行していたため砲弾が日本軍の砲兵陣地まで届かずに一方的に撃たれ続けた。しかし、歩兵には堡塁からの攻撃は脅威であることにな化わりなく、日本軍はジリジリと前進する。そして午前6時頃に日本軍は堡塁に突入を開始し、一時間ほどで各堡塁を攻略を完了させ、次の目標である牡丹台に向け進行、砲兵隊も牡丹台を次の目標として砲撃を集中させた。

堡塁を巡る戦闘の時と同様に清国軍も反撃をしようと盛んに試みるが、無慈悲な事に日本軍の砲撃は清国軍の射程圏外からのものであり、清国軍の努力は全て無駄に終わり、一方的な砲撃にさらされ続けてしまう。
8時頃には日本軍が牡丹台に突入、同地を陥落させる。そして、日本軍は清国軍が抵抗を続けていた乙密台に対して総力を持ってこれを攻撃。当然、清国軍の反撃も激しく状況は膠着してしまう。

しかし、市街地への攻撃によって清国軍の士気は低下し続け、籠城派であった左宝貴の戦死を契機に清国軍は降伏を開始。午後7時には乙密台に立ててあった将旗をおろし、白旗を掲げる。また、城門その他数か所にも白旗を立て、降伏の意を示した。

これにより日米連合軍は朝鮮半島の優位を確立することに成功する事になり、清国中央では李鴻章が朝鮮陥落の責任をとらされ更迭、さらに李鴻章が中心を務めていた海防派も次々と更迭されてしまう。当然、西太后はこの流れに抵抗するも、戦争の発端がそもそも李鴻章監督下の清国軍現地部隊の暴走であったため庇いきれなかった。
そして清国では西太后と繋がっていた海防派が失権し、光緒帝と繋がっていた塞防派が力を強めていく事になる。

412: ホワイトベアー :2022/02/11(金) 22:38:01 HOST:115-179-83-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
以上、改訂版日清戦争の流れでした。wikiへの転載はOKです

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最終更新:2023年03月31日 21:08