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日米枢軸ルート 第9話 改定版

朝鮮戦争は東アジアにおける日本有利のパワーバランスを決定づけはしたものの、史実ほど清国も大敗を喫したという訳ではなく、未だに清国は侮れない眠れる獅子であり続けていた。その為、東アジアは高い緊張状態に置かれているものの、アジア太平洋地域では当面は平和が続くだろうと多くの人間が考えていた。

これは日本の一般国民やイギリスの政治家や外交官、軍人たちも同様である。確かに、ロシアは極東に部隊をおいて清国に圧力を加えている。しかし、シベリア鉄道が機能するまでにはもう数年必要であり、それまでは兵站の問題からロシアは動きたくても動けない。
対する清国も日本との戦闘で精鋭部隊を失ったことでロシア領に攻勢にでる余裕は存在していない。故に暫くは平和が続くと考えてしまうのも致し方ないだろう。

朝鮮戦争後の日本の外交方針は基本的にロシアの封じ込めであった。
元々、日本はロシアの弱体化やロシアの不凍港確保阻止に動いており、1877年に勃発した露土戦争においては日本はアラビア半島の石油利権(この関係でクウェートもオスマン帝国領)やキプロス島の割譲を対価として日土軍需協力条約を締結。
オスマン帝国に南北戦争で余った余剰兵器を大量に提供したり、軍事顧問団を派遣するなどのバックアップを提供することで最終的にはオスマン帝国の判定勝利に持ち込まさせるなど徹底したロシアの邪魔に動いていた。

その流れは現在でも変わらず、日本はオスマン帝国近代化に莫大な協力を提供し、少し前まで戦争をしていた清国への武器輸出を承認するなど、ロシアと敵対する国々に対しては有償無償問わず様々な協力を行っている。

この日本の方針は同じくロシアの東アジア進出を防ぎたいイギリスや東アジアの動乱を警戒する日本の同盟国アメリカの方針と一致しており、朝鮮戦争後には軍事力と戦略環境で劣るイギリスが日米に譲歩する形で日英米三国協商が成立、日英は対ロシア政策の一環としてこれまでの敵対関係を一旦棚に上げ、協調体制への移行を開始した。

途中、1896年には白豪主義に染まったニュー・サウス・ウェールズを中心としたオーストラリア大陸の諸植民地が日本人移民や日本資本を排斥しようと小賢しく動いたものの、締結国間の自由な渡航を認めている日英通商条約の存在と植民地政府をまたいだ日英間の交渉でイギリスが譲歩したことでニュー・サウス・ウェールズが行おうとした白豪主義政策がイギリス植民地省に全否定される形でおわり、ニューサウスウェールズが謝罪に追い込まれたため大した問題とはならなかった。

日英が対ロシア封じ込めの為にその拡張主義を一旦妥協することで協調体制に向かい、東アジア太平洋地域が安定に向かいつつある一方、日本の同盟国であるアメリカでは急速に戦争の雰囲気が高まりつつあった。

ことの発端は1895年、朝鮮戦争集結とほぼ同時期から始まった第二次キューバ独立戦争である。

1895年2月24日にキューバ各地で発生した武装蜂起を契機として発生した第二次キューバ独立戦争は、スペインにとって運の悪いことにアメリカにおいてマスコミ間での激しい購買者数獲得競争が発生している時期とかさなってしまった。

キューバにおいてゲリラに悩まされたスペイン軍は反逆者と疑わしい人々を老若男女問わず処刑し、キューバの村々を焼き払うなど残酷な仕打ちを行うなど、人道に反した残虐な行動を全面的に採用していた。
これを受けたアメリカの各新聞社は、これは売れると言わんばかりにスペインのキューバ人に対する残虐行為を時に誇大に、時にでっち上げて報道し、アメリカ国民の人道的感情を刺激することで購買者数を増やしていく。

過激かつ過剰な報道はアメリカ世論の正義感を刺激し、多くのアメリカ人がキューバでの独立戦争をアメリカ独立戦争に例え、スペイン政府を専制的な抑圧者と見なして親キューバ、反スペイン感情を高める事に貢献。アメリカの世論はメディアに煽られる形でキューバ独立戦争への軍事介入を求めていった。

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また、キューバ独立戦争の長期化によりキューバとの貿易に大きく依存していた中小規模の海運会社は大きな損害を受け、砂糖産業を中心にタバコ、コーヒー、鉱山などキューバへの投資を行っていた少なくない数の投資家達もキューバ独立戦争により無視できない損失を出していた。彼らは一刻も早いキューバの秩序回復の為にアメリカによる介入を求めて議会やマッキンリー大統領に圧力を加けていく。

マスメディアに煽られた世論や一部の財界や投資家が声高にキューバ問題への軍事介入を叫んでいる一方で、戦争が経済を悪化させることを懸念するアメリカ財界の大半はキューバ問題への軍事力を行使し介入に否定的な立場を表明しており、マッキンリー大統領を始めとしたアメリカ政府も平和的解決を目指してスペインとキューバ独立派の仲介を行うなど軍事力を使用した介入には否定的であった。

対西開戦、キューバ独立戦争介入の大合唱となっているアメリカ世論を何とか抑えて、キューバ問題を軟着陸させようとマッキンリー大統領らアメリカ連邦政府が奮闘している最中の1898年2月15日、キューバのハバナにおいてアメリカ海軍が派遣していたテンプル級装甲巡洋艦〈バトラー〉が突如爆沈、乗員が士官含めて全員死亡すると言う大事件が発生してしまう。
この事件を受けたアメリカのメディアは、一斉にバトラー沈没はスペインの卑劣な先制攻撃だと主張する報道を開始。アメリカの世論もより一層加熱し、スペインへの報復を叫ぶようになっていった。

バトラー爆沈という大事件を受け、これまでは開戦に反対的であったマッキンリー大統領もついに折れざるをえなくなった。
4月11日、マッキンリー大統領はスペインとの戦争にアメリカ軍を動員する権限を求める議案を議会に提出する。
議会は大統領の要求を受けてスペインへの懲罰の為に軍の軍事力を行使することを承認。さらにアメリカ合衆国議会は4月20日にフィリピンに対して宣戦布告を決議し、アメリカ議会はアメリカとスペインの間の戦争状態が4月21日以来存在することを宣言する。
翌日の21日にはアメリカ合衆国の同盟国であった大日本帝国が日米同盟に則りスペインに対して宣戦を布告、日米連合軍とスペインの間で後に両洋戦争と呼ばれる事になる戦争が始まった。


日米連合にとってこの戦争は望まざる戦争であったが、ルビコン川を渡った以上戦って勝利するしかない。

今回の戦争を主導するのはアメリカ合衆国であり、日米連合軍はアメリカ合衆国が計画した戦争計画に則って戦うことになる。
米軍が経てた戦略は史実同様のもの、すなわちプエルトリコ、キューバ、フィリピン、グアムの4つのスペイン植民地を占領し、さらにスペイン太平洋艦隊とスペインカリブ海艦隊、そしてスペイン本土からの増援艦隊を撃破することでスペインの遠隔地での継続戦闘能力を喪失させる事で屈服させると言うものである。

この目的を果たすために無力化、もしくは撃破目標とされたのが、フィリピンを拠点とするスペイン太平洋艦隊、キューバを拠点とするスペインカリブ海艦隊、そしてスペイン本国を出港してキューバに向かっているパスクワル・セルベラ少将率いる装甲巡洋艦艦隊の3つの艦隊であり、
太平洋艦隊は戦艦2隻、装甲巡洋艦2隻を主力とする東アジア艦隊が、カリブ海艦隊とセルベラ艦隊は戦艦4隻、装甲巡洋艦1隻を主力とする北大西洋艦隊と戦艦2隻、装甲巡洋艦1隻を主力とする遊撃艦隊がこれを撃破するものとされた。

1898年4月21日、日本の宣戦布告とほぼ同時期に、戦争計画に則りジョージ・デューイ代将が指揮をとる米東アジア艦隊がフィリピンに籠るスペイン太平洋艦隊を撃破せんと台湾の高雄帝国海軍基地から出港する。

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対するスペイン海軍太平洋艦隊であるが、当時のスペイン太平洋艦隊の状態は悲惨の一言に尽きた。
スペイン海軍太平洋艦隊は37隻の艦艇から構成されていたが、米東アジア艦隊と曲がりなりにも戦える艦は、増援として回されたイスラ・デ・キューバとイスラ・デ・ルソンの2隻の防護巡洋艦と、海賊対策や保護国、植民地人に一方的に砲撃を加えるならまだしも艦隊戦において使用するには時代遅れも甚だしい5隻の木造巡洋艦の計7隻しか存在しておらず、残りの30隻は沿岸防衛用の小型な砲艦であり、戦力としては数えることは困難である。
また、木造巡洋艦や砲艦を操る乗組員は1年以上訓練を受けていない経験の浅い人間がその大半を占めているという惨状で、艦隊として動けるのは2隻の防護巡洋艦のみであった。

しかも、太平洋艦隊司令部が要求していた機雷や砲撃用の爆薬をスペイン本国が民間に回していた事で、当初の予定していた防衛計画に必要な機雷源や沿岸陣地を構成する為の物資も不足しており、当初の戦闘計画すら役に立たない。
艦艇ない、質もない、物資もない、戦闘計画もない。
ナイナイ尽くしで質、数ともに上回る米東アジア艦隊との戦闘を行う必要に迫られたスペイン海軍太平洋艦隊は、さらにいくつもの不幸に見舞われ、最終的に3つの沿岸要塞に護られ、さらに撃沈されても泳いで陸地に辿り着くことができるカヴィテ付近を戦場として設定し、艦隊を展開させる。

1898年4月26日、スペインの妨害を受けることなくマニラ近海に到着した米東アジア艦隊はマニラ湾内に突入。沿岸陣地や沿岸要塞の沿岸砲や、練度不足から実質的に浮き砲台として運用されていたスペイン太平洋艦隊の艦砲の射程外からでも攻撃を可能とするメイン級戦艦の12インチ砲とテンプル級装甲巡洋艦の8インチ砲による一方的かつ圧倒的な砲火でスペイン艦隊と沿岸陣地を攻撃し、死者負傷者0名、被害を負った艦船0隻と言う文字通り無傷でスペイン艦隊を撃滅した。

マニラ湾海戦の結果、フィリピン近海のの制海権を確保した連合軍は、日本陸軍を主力とした日米連合軍地上部隊を送り込む。
何故米軍ではなく日本軍が主力を務めたのか。その理由はスペインとアメリカの関係が悪化し始めた1896年にまで遡る。
1896年、悪化を続ける米西関係を受けてアメリカ軍は現在の戦争計画の大本である対スペイン戦争計画であるオリーブ計画の立案が開始される。
同計画の策定においてスペインの太平洋の牙城であったフィリピンに対する攻撃を計画しないはずもなく、アメリカ陸軍ではフィリピン制圧作戦の研究が開始された。
しかし、フィリピンには5万を越えるスペイン軍が駐留しており、単独での攻撃はリスクと負担が大きい。そこで、アジア最大の軍事力を有する同盟国である日本をフィリピン戦に参加させられないかと言う意見が出るのは自然の流れであろう。

アメリカから要請を受けた日本は、当初はこの要請に後ろ向きであった。
しかし、バトラー爆沈事件によりスペインとの開戦が確実視されるようになると、アメリカはフィリピン諸島を除くスペイン領東インドを分け前とする事を提案、これを公式な書類で約束したことや対スペイン戦が避けられない段階に来ていることを理由にフィリピンへの派兵を受け入れた。

そうした背景もあり、フィリピン近海の制海権確保を確認した日本は1898年4月30日より高雄に待機させていた高砂族を中心とした陸軍1個山岳師団1万2000名、陸軍4個歩兵師団80000人をフィリピンに派遣する事を決定。4月28日に海軍がグアムを陥落させ、5月1日にはフィリピンに海兵隊1個旅団が強襲上陸。橋頭堡を確保し、その後順次陸軍部隊をフィリピンに展開させていった。

日本軍の大侵攻だけでもフィリピンのスペイン軍にとっては大問題であるのだが、日本軍の侵攻を機と見たフィリピン独立派がフィリピン各地で武装闘争を開始し、スペイン軍の事態対応能力を完全に飽和させてしまう。
自軍を遥かに上回る数の日本軍と独立派の武装蜂起はこれまでフィリピン人を弾圧してきたスペイン人達を震え上がらせ、スペイン軍は、マニラへフィリピン軍が入城しないことを条件に連合軍の降伏勧告の受諾を決断する。

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スペイン軍からの降伏条件は無用な損害を出すことを嫌った日本側の意向もあり受諾されることになり、日本軍の上陸から一週間後の5月11日に日本軍はマニラに入城、フィリピンは連合軍の軍政下に置かれることになり、ここにスペインによるフィリピン支配はその歴史にピリオドを打った。

これに慌てたのがアメリカ本国であった。彼らはこのままではフィリピンの利権を日本に奪われる(この時の連合軍フィリピン方面軍は日本軍が約9万人に対してアメリカ軍は5千人)と考え、フィリピン方面アメリカ軍の兵力を7月までに2万8千人増強する事を発表するのと同時に日本軍の順次撤兵を要請する。
日本側は元々アメリカの要請で派兵しただけであり、さらにフィリピンの現地住民に潜む独立派など明らかなまでの地雷が目に見えて大量に存在したことからアメリカの打診を了承、アメリカ軍の増援到着を待たずにスペイン軍の武装解除を見届け終えるのと同時に直ちに部隊を撤兵させていく。

太平洋方面で連合軍が大勝利を収めている一方で、大西洋では膠着状態が続いていた。

アメリカ軍は開戦と同時にサンプソン代将率いる北大西洋艦隊を出撃させてキューバとプエルトリコの海上封鎖こそ実施するも、招集した陸軍部隊の準備が間にあっていないことから、地上部隊をキューバやプエルトリコに送り込むなどそれ以上の行動が取れず、日本海軍大西洋艦隊と協力してスペイン大西洋艦隊の捜索に注力することしかできない状態が続いていく。しかし、そのスペイン大西洋艦隊の姿も発見することはできず、ただ時が過ぎるばかりであった。
そうした日々がしばし続いていくが、1898年5月11日、ちょうど太平洋戦線で日本軍によるマニラ入城と同じ日に大西洋戦線でも転機が訪れる。日本海軍第5常備艦隊所属の軽巡洋艦 天龍がフォール=ド=フランス近海においてパスクワル・セルベラ率いるスペイン艦隊を補足したのだ。

この報告は無線を通して直ちに黒姫型巡洋戦艦4隻、生駒型装甲巡洋艦6隻、軽巡洋艦3隻、艦隊型駆逐艦16隻からなる日本海軍第5常備艦隊主力に報告され、第5常備艦隊の旗艦である巡洋戦艦 石狩の艦橋でこの報を受け取った艦隊司令 向井 拓海 海軍中将は直ちにセルベラ艦隊を撃破するために天龍の通報にあった海域に向けて艦隊を進める。
天龍の存在はセルベラ艦隊も把握しており、これを撃退しようと護衛の水雷艇駆逐艦フロールとプルトーンを派遣するも史実5500トン型軽巡洋艦をモデルに設計・建造された天龍を水雷艇駆逐艦で同行できるはずもなく返り討ちにされ、主力で攻撃を掛けようとすると高速を活かして射程距離外に逃亡される

付かず離れずの位置をとる天龍によりセルベラ艦隊の位置は定期的に報告され続け、1898年5月13日、午前10時過ぎには、フォール=ド=フランス近海にて日本海軍第5常備艦隊はセルベア艦隊を捕捉。フォール=ド=フランス沖海戦と呼ばれる艦隊戦が開始された。

戦力で日本海軍に劣るセルベア艦隊は日本海軍の手から脱出する事を優先。長い船旅で速力が低下していた装甲巡洋艦ビヤスカを殿にオランダ領キュラソー島方面に航路をとり全速力で離脱を図る。
対する日本海軍はビヤスカの相手を軽巡洋艦竜田率いる第5水雷戦隊に任せ、主力は脱出を図るセルベア艦隊を逃してなるものかと追撃開始した。

ビヤスカの相手を任された第5水雷戦隊は当時では過剰威力とも言える酸素魚雷による雷撃戦を開始。整備不足により最高時速14ノットしか出せないビヤスカは計8本の魚雷をその船体に喰らい大した時間稼ぎもできずに轟沈していった。

ビヤスカが大した抵抗も出来ずに撃破された一方で、脱出をはかっていたセルベア艦隊主力も13時頃には第5常備艦隊主力に追いつかれ、両艦隊は砲撃戦に突入する。
この砲撃戦ではセルベア艦隊の砲弾が命中しなかったのに対し、第5常備艦隊は斉射法による命中弾を多数与え、セルベア艦隊旗艦インファンタ・マリア・テレサの主砲をぶち抜いて弾薬庫まで命中11時15分ごろにビスカヤは大爆発を起こして沈没する。

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また、時間をおかずにクリストバル・コロン、オケンドーの2隻にも30.5センチ砲と20.3センチ砲を集中的に浴びせられる事になり、18時30分までに、スペインセルベア艦隊はその姿を海に没する。

セルベア艦隊の撃破で制海権を確固たるものにした連合軍は1898年6月よりキューバとプエルトリコに相次いで上陸作戦を開始。これらを制圧する。
艦隊戦力の喪失と主要な国外植民地を占領された事を受け、これ以上の戦闘が不可能になったスペイン政府は和平を打診せざるを得なくなり、フランスを通して日米に和平を打診する。
これを受けた日米はすでに戦略目標を果たしたとしてスペインの打診を了承し、戦争は8月12日に自然休戦状態におかれ、フランスの仲介のもとパリにて講和会議が開かれた。

この交渉で連合軍がスペインに突きつけた要求は以下の通りである。

1、キューバ独立の承認。
2、スペインが領有していたフィリピン群島、プエルトリコをアメリカへの割譲。
3、スペインが領有しているフィリピン群島を除く全スペイン領東インドおよびビオコ島を日本に割譲する。
3、アメリカ合衆国への賠償金1,000万ポンドの支払い。
4、大日本帝国への賠償金2,600万ポンドの支払い。

余りにも苛烈な要求内容にスペインはもちろん仲介役であったフランスすらも難色を顕にするも、日米側はこれ以上の譲歩を拒絶する。
交渉の行き詰まりを感じた連合軍は地中海の日本海軍地中海艦隊を出撃させ、さらに大西洋艦隊と在米日本軍

アメリカ合衆国でも合衆国海軍のサンプソン提督率いる北大西洋艦隊とシュレイ提督率いる遊撃艦隊を統合した大西洋艦隊を再編するなどスペイン本国への遠征準備を開始するなど戦争継続の構えをとった。

これ以上の戦争継続が困難なスペイン側は追い込まれ、これに日米連合が賠償金額を合計3600万ポンドから合計1800万ポンドにまで大幅に減額したことで条件受諾を日米連合に伝えた。
交渉の妥結により、1898年12月10日に連合軍とスペインの間に講和条約であるパリ平和条約が締結され、ここに両洋戦争(大西洋と太平洋の両洋を戦場としたためついた名称)は終結する。

2つの大洋で行われた太陽が沈んだかつての大国と太陽を意味する世界で最も古い帝国と新大陸に生まれた世界で最も新しい人工国家の連合による戦争は終結した。

しかし、それは世界の平和を意味するのではない。

欧州では紅茶を愛する紳士の国が東洋の大国の圧倒的な優位下にある既存の世界秩序を塗り替えるためにとある船の発表を準備し、大陸では眠れる獅子内での争いを発端とする新たな戦乱が巻き起ころうとしていた。

452: ホワイトベアー :2022/04/21(木) 19:06:28 HOST:sp1-75-246-79.msb.spmode.ne.jp
※パリ平和条約 内容
キューバ独立の承認。

スペインが領有していたフィリピン群島、プエルトリコをアメリカへの割譲。

スペインが領有していたフィリピン群島を除く全スペイン領東インドを日本に割譲する。

スペインはアメリカ合衆国に賠償金800万ポンドを支払う。

スペインは日本に賠償金1000万ポンドを支払う

453: ホワイトベアー :2022/04/21(木) 19:06:59 HOST:sp1-75-246-79.msb.spmode.ne.jp
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最終更新:2022年05月09日 21:57