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日米枢軸ルート 第10話 改定版

パリ条約によりフィリピンをスペインから割譲させたアメリカ合衆国はアメリカ反帝国主義連盟の反発を無視してフィリピンの植民地化を断行する。
これを受け、フィリピンでは1899年1月1日、フィリピン独立派がフィリピンの独立とフィリピン共和国の建国を宣言、アメリカ合衆国に対して独立戦争を仕掛けた。
この時のアメリカ軍はマニラにのみ駐留していたため、フィリピン独立派はマニラに対して侵攻を開始すると同時にマニラ内でも暴動を発生される。
しかし、フィリピン独立派の兵士はほぼ訓練も積んでいない民兵であった事やライフルや砲などの装備がほとんど存在しなかったことから、小銃や機関銃などを装備するアメリカ軍にそうそうに撃退され、フィリピン独立派主力は北部に撤退。市内に潜伏した残党も2月までにはその全てが捕らえられるか殺害された。

これを受けたマッキンリー政権はアメリカ本国からフィリピンに増援の派遣を決定。8月14日には両洋戦争のために編成されていた連邦軍から2万の増援がフィリピンに到着。兵士と強力な装備を豊富に有していたアメリカ軍が有利に戦争を進めていき、同年の12月までに独立派の軍事的指導者であったアントニオ・ルナ将軍とグレゴリオ・デル・ピラール准将を排除することに成功する。
これによって独立派は通常戦を戦う能力を急激に喪失、山岳地帯に逃げ込み、戦況はゲリラ戦の様相を見せる。しかし、その後もアメリカ軍は少なくない被害を払いながら勝利を続けていった。それでもフィリピン人の抵抗は収まらず、アメリカ合衆国はフィリピンを植民地化するまでに15年以上もの年月を掛けることになる。

アメリカンボーイズがフィリピンで現地人を蹴散らしていっている一方、東アジアの状況は非常に悪化していた。

朝鮮戦争やその後に発生した伊藤博文暗殺未遂事件により西太后派は政治的影響力を喪失し、光緒帝を中心とした改革派と要防派が清国での政治的主導権を握っていた。
そして、光緒帝派は清国を立憲君主制国家として建て直す為に次々と改革を行っていくが、その内容は従来の清国の成法をくつがえすものであり、いまだに無視出来ない勢力を誇っていた宮中の保守派官僚達からの強い反発を招いてしまった。さらに、清国政府は列強による国政介入の口実を少しでも減らすために国内政策では清国内での列強国民やキリスト教徒への優遇策をつぎつぎと打ち立て、外交面では列強の風下に立ち続けた。

こうした光緒帝派の弱腰な態度は当然ながら国民からの評価は低かった。そして、清国国内では光緒帝派の動きもむなしく、列強国籍の宣教師やその信者たちと郷紳や一般民衆との確執・事件が多発していってしまう。

こうして清国の一般大衆は列強及びキリスト教への反感を募らせ、外国人に平身低頭せざるを得ない光緒帝派への失望感を拡大さていく。そして、この失望は山東省にて1つの集団を生み出した。
その集団は義和団を名乗り、急速にその勢力を拡大さてゆく。本来ならこれを取り締まる地方大官なども彼らの攻撃目標がキリスト教関連に限られていたことから取り締まりに消極的であり、逆に取り締まろうとした者を更迭し、義和団を団練として公認しようとする地方大官などもいた。

こういった動きを知った光緒帝派は列強からの強い圧力もあり、義和団擁護の代表とも言えた山東巡撫 毓賢を更迭し、西太后派から光緒帝派に鞍替えしていた袁世凱に義和団の鎮圧を命令する。

袁世凱はここでヘマをしたら首が物理的に飛ぶ可能性が高い状況であったため、徹底して義和団を鎮圧していった。この弾圧によって山東省での義和団の勢力は低下の一途を辿る。そして、彼らは弾圧が厳しい山東省から逃走、直隷省にその活動の場を移していった。

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この時の直隷省は山東省以上に光緒帝派に反感を持っている失業者や非キリスト教徒が多くおり、義和団は瞬く間にその勢力を拡大していった。
1900年には北京と天津のあいだは殆ど義和団の勢力圏と化し、舶来物を扱う商店、果ては鉄道・電線にいたるまで攻撃対象とし、次々と襲って行ったため交通が完全に寸断させられる。
無論、光緒帝派はこのような横暴を許すつもりは無く、事態の沈静化の為に軍の投入すら検討したが、義和団の「扶清滅洋」、「興清滅洋」と言うスローガンから彼らに同情を示す大官が無視出来ない程の人数がおり、徹底した弾圧には至れなかった。そして、光緒帝派によってその政治生命を終えようとしていた西太后と保守派がこの乱を利用して自らの復権を企み、義和団を煽動する。
不幸なことに光緒帝の権力基盤である新建軍はその主力がロシアと睨み合う満州よりに展開しており、このときの首都北京の防衛を預かるのは従来の兵士たちであった。
そのため、西太后の扇動により北京防衛の為に展開していた清国軍すら光緒帝を裏切って暴動に参加し始め、もはや北京はカオスが支配する都市へと変わっていた。
この事態に列強の公使達は清国にもはや事態の収拾能力は無いと判断して各自が各々の本国に対して救援を要請する。

6月9日、西太后に煽動させられた暴投達は彼女の政敵である光緒帝が居る紫禁城にも攻撃を仕掛け始めた。この攻撃は苛烈を極め、早々に紫禁城も義和団の手に落ちると考えられていたが、紫禁城の衛兵達は義和団に対して果敢に防衛戦を実行し、最後の1人にいたるまで自らの勤めを忠実に遂行した。
最終的に衛兵達は敗れ、暴徒達が紫禁城になだれ込ん無事になったものの、。しかし、この時には衛兵が必死の抵抗で稼いだ時間を活かして光緒帝や主要な光緒帝派政治家、そして官僚達は主要な機密書類の処分を終え、玉璽などの国政に使用する各種道具を持った状態で東交民巷の列強の公使館に逃れる事に成功、西太后が望んだ光緒帝派の排除は失敗に終わる。

とは言え、義和団を使い紫禁城を制圧した西太后は、紫禁城に入城してすぐに光緒帝の廃立と端郡王載漪の子溥儁を大阿哥に擁立を発表する。無論、列強はこれを認めず。公使館に逃げ込んでいた光緒帝を依然として国家元首として西太后らを反乱組織としてあつかった。
清国正規軍である新建軍も同様であり、彼らも西太后の行動は不当であり、正当なる指導者は光緒帝だとして西太后派には靡かなかった。

諸外国はもちろん自国内ですら皇帝の交代を認めない勢力が多いことに焦った西太后は、光緒帝から権力を譲渡させ、列強に自らの正統性を表す為に義和団を列強の公使館が集まる東交民巷を包囲させ、公使達に光緒帝等の身柄引き渡しを要求すると言う暴挙に走った。

この時の東交民巷には光緒帝派以外にも北京に在住していた外国人925名と中国人クリスチャンが3000名ほどの老若男女が逃げ込んでおり、各国公使は彼らも護りぬかなければならなかった。しかし、戦力としては各国の公使館警備の為に駐在していた兵士481名と義勇兵110名合わせて約600名ほどしか存在していない。
幸い、小銃や短機関銃といった武装やそれらの弾薬は日本公使館に多く貯蔵されており、武装面では問題はなかった。それでも戦力に圧倒的な差があり、東交民巷逃げ込んだ人々には控えめに言って希望はなかった。

それでも、公使達は本国の命令もあって西太后の要求を飲む訳には行かない。また、この頃には列強連合軍の第一派がイギリス海軍シーモア中将を総司令官とし公使館職員救出を目的として天津ー北京間での義和団掃討を行いつつ北京に進軍していると言う事も情報も合わさり、6月12日に正式にこれを拒否する。

これを受けた西太后は自らの側近の賛同の下、列強各国に対して宣戦を布告、その後に義和団を正規軍とする布告をだし、公使館に対して攻撃を開始し始めた。公使館に逃げ込んだ人々は警備の兵士達と協力してこれに対して防戦を行うが、頼みのシーモア中将率いる列強連合軍が義和団による抵抗を受け天津まで撤退すると言うハプニングが発生、これ以降公使館にいる人々は絶望的な状況で籠城を行う事になる。

512: ホワイトベアー :2022/04/23(土) 08:53:22 HOST:sp1-75-250-252.msb.spmode.ne.jp
6月12日に西太后から送られた宣戦布告を受けた列強の中で最も早く動いたのはロシア帝国であった。彼らは義和団の鎮圧と北京の大使館救出を名目に1個軍集団50万と言う大軍で満州に侵攻を開始、義和団による北京占領と軍主力である新建軍を北京奪還に動かしていた為に組織だった抵抗が不可能であった清国軍を各地で各個撃破しつつ満州を制圧していった。
この事態に慌てたイギリスおよびアメリカは自らも対抗して出兵を計画したが、イギリスはボーア戦争、アメリカは米比戦争中で多くの兵力を派遣する余裕がなかったことから、イギリスは対ロシア戦略では手を組んでいた日本に清国への大規模出兵を要請する。同盟国であったアメリカも日本に出兵を要請したため、日本も列強連合軍に参加する運びとなった。無論、日本側も無条件で派兵要請を受諾したわけではなく、米英軍の指揮権をもぎ取っている。

日本海軍海兵隊3個旅団2万4千とアメリカ軍3個歩兵連隊8千の援軍を得た列強連合軍は天津の清国正規軍と共同で祖界に攻撃を仕掛けてきた義和団に反撃、これを完全に撃滅し、天津の安全の確保には成功する。しかし、その後の連合軍は各国軍の戦闘への積極性のや北京攻略に対する主張の違いが露になり、さらには清国での混乱をさらに拡大させることで更なる介入を画策する国家が現れ始めるなどその足並みが崩れてしまう。

こうしている間でも北京では連合軍公使館籠城隊と義和団の間で一進一退の攻防戦が繰り広げられており、籠城している者達をゆっくりとだが、確実に追い込んでいった。

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最終更新:2022年05月09日 21:57