353: ホワイトベアー :2022/05/31(火) 01:03:25 HOST:sp1-72-2-79.msc.spmode.ne.jp
日米枢軸ルート 第11話 改訂版

天津周辺の義和団を掃討後に足並みを崩していた列強連合軍であったが、ロシアの快進撃に慌てた米英と、連合軍の足並みの悪さに辟易としていた日本の、ロシアを除いて派兵数トップ3であった日米英(および清国光緒帝派)の三カ国(と一勢力)が協力して日本海軍遣支那軍司令官 立見 尚文中将を総司令とした統一司令部を天津に設置、組織の再編を行うことで統制を取り戻し、8月4日より北京など義和団支配地の奪還を目指して進軍を開始する。

これを察知した義和団は当然ながら北京などの拠点に到達する前に連合軍を再び撃退しようと防衛線を展開、さらに追加の増援も送り込むなど万全の体制で迎え撃つ準備を行う。
この時防衛線を担っていた義和団の集団は連合軍第一次派遣部隊を撃退した集団でもあり、今度は海に叩き出してやるとその士気も極めて高かった。

そうして北京などの都市部に到着する前から、北京の開放を目指す列強連合軍とそれを阻止しようとする義和団との間で戦いが幾度か行われことになる。
これらの戦いの中では小規模な戦いなら激戦と呼べるモノも数回発生するも、全体的には列強連合軍にとっては苦戦と呼べるモノはなかった。特に一定規模以上の部隊が参加する戦闘ではもはや殺戮といった方がよほど適している状態ですらあった。

それもそうであろう。義和団側は兵力こそ列強連合軍を上回っていたが、大半の兵士の主武装が刀槍や弓矢というお粗末な状態にあり、指揮系統にも大きな欠陥もある状態だ。近代的な訓練や武装を施されており、第一次派遣部隊より多くの兵力を抱えていた列強連合軍に叶うはずがない。

そんな状態であっても、繰り返し列強連合軍と戦闘が行えたのはひとえに彼らの高い戦意が理由であった。何せ負ければどうなるかは今までの中華の歴史がよく表している。戦って一分の生を掴むか、降伏して殺されるかの二択ならば、余程の変人でもなければ前者を選ぶだろう。

義和団は例え戦況が不利になろうと大半が死兵となって、連合軍を相手に頑強に文字通り死ぬまで抵抗を続けることで、連合軍の予想より多くの時間と物資、そして兵士を消費させた。

こうした義和団の行動に連合軍の将兵は次第に恐怖心を抱いていき、義和団は兵士に麻薬を使っているなどの誤った認識を後世の歴史書に記載させる原因となるなど大きな衝撃を連合軍に与えていく。しかし、作戦や装備などの劣る点を士気によって補おうとする義和団の姿勢と、死兵となっての徹底抗戦は義和団側に多くの犠牲を生むことになり、この義和団事件での戦死者や戦傷者の多くは義和団あるいは西太后派の兵士で占められる要因の1つとなった。

義和団の熾烈な抵抗を排除して、8月10日には日本軍1個旅団を主力とする連合軍先遣隊約8千が義和団を撃破し北京近郊まで到着する。
彼らは北京近郊に到着すると1日ほど休息をとり、8月12日、本隊の到着を待たずに威力偵察を目的とした攻撃を開始した。

このときの北京には元々駐留していた兵力や敗走してきた兵力などが集結し、表向きにはおおよそ6万ほどの大兵力が列強連合軍の攻撃に備えていた。これは数だけ見れば列強連合軍北京奪還部隊の2倍近い数であった。
また、北京内や近辺の清国軍施設より奪い取った装備を有するなど、それまでの義和団の集団よりかも遥かに有利な状況におかれていた。しかし、幾度にも渡る戦闘で列強連合軍に全滅に等しい被害を受けて敗北していた彼らには、もはや初期の頃のように高かった戦意は存在しておらず、先遣隊が到着する前から逃亡する兵士が相次いでおり、戦力はその実低下していた。
そこに先遣隊の攻撃である。これを受けて北京に籠もる義和団の参加者の多くが戦意を喪失してしまい、自称、大清帝国正当政府の高官達は蜘蛛の子を散らすように逃亡してしまった。

354: ホワイトベアー :2022/05/31(火) 01:03:59 HOST:sp1-72-2-79.msc.spmode.ne.jp
そうとは知らずに8月14日には連合軍本隊が到着する。この時の連合軍は将兵は立場を問わずに今までの義和団の果敢な抵抗から大きな損害が出ることを確信しており、それでもなお孤立無援の状態で包囲され、救出を待っている公使館職員や自国民の救出の為に死すら覚悟して、戦闘の開始を待っていた。

そして、同日正午頃から本格的な北京攻防戦が開始されたが、しかし、上記の理由によって義和団側はすでに多くの戦力を失っており、攻撃が開始されるや否や義和団側の士気は崩壊、連合軍は大した損害もなく僅か3日と言う短期間で北京の解放に成功する。しちゃったのである。

その為、この戦闘に参加した将兵からカッコつけた別れの手紙を書いて母国に送ってしまった事を家族や恋人、友人などに弄られる者が続出すると言う微笑ましい事態が各国で見られることになった。

閑話休符

北京を陥落させたら列強連合軍であるが、彼らがまず最初に行ったのは各国の公使館や北京内の教会に立て籠っていた人々の救出であった。

連合軍としてははんば諦めていた籠城組の救出であったが、籠城していた人々はその中でも最高位の軍人であった柴五郎陸軍大佐の下、統一的な指揮系統を構築に成功。
義和団に対して組織的な抵抗を行い、連合軍の到着一週間前には貯蔵していた弾薬が底を尽きかけると言う状態に陥ってしまうなどの問題も何度か発生したが、しかし、籠城する人々の協力や清国人キリスト教徒、隠れ光緒帝派清国人(※1)の手助けもありなんとか物資の補給に成功するなど、そうした問題を乗り越えて連合軍の到着まで義和団の攻撃を凌ぐ事が出来ていた。

さらに、公使館の救出部隊が到着したとき、連合軍がその生存を絶望視ししていた光緒帝が迫りくる義和団兵をちぎっては投げちぎっては投げ、現地で皇帝無双と呼ばれるほど活躍(※2)していた事が判明し、転生者達を驚かせると言うの事件が発生するなどのほっこりすることができる事件もおきていたりする。

余談であるが、光緒帝の活躍は新聞を通して欧州や日本本土の大衆にも伝わり、彼は勇敢なる英雄として後の歴史に記されることになるがそれは別の話である。

閑話休符

北京を占領し、東交民巷に籠城していた人々の救助を終えた列強連合軍は同地での略奪を開始。特に王侯貴族の邸宅や頤和園などの文化遺産が掠奪・放火・破壊の対象となり、後に欧州での中国ブームの火付け役となる紫禁城の秘宝など、清国の文化財はこれがきっかけで中国外に多く流出することになっていった。

略奪にいそしむ連合軍であるが、その一方で連合軍はこの内戦の主犯格であった西太后を捕らえ損ねてしまう。彼女は北京陥落前に貧相な庶民に変装して紫禁城を脱出し、成安に蒙塵(都落ち)していたのだ。

これを受けて、連合軍司令部では西太后捕縛を目的とした更なる遠征も検討された。
しかし、ロシアの満州での火事場泥棒的な行動や相も変わらず、ドイツは北京占領後の1900年9月に日米英三カ国や連合軍司令部に一切の事前通達も無しに連合軍にドイツからヴァルダーゼー元帥率いる数万人の兵力を増派、さらにドイツはその大軍を理由に連合軍司令官の座を要求すら行うと言う空気を読まない独断専行を行っており、連合軍の足並みは今度こそ完全に崩壊していた。

このドイツの行動はロシア軍が清国軍の留守部隊を完全に壊滅させ、満州の軍事的占領を完遂していると言う状況下で、なおかつ、朝鮮半島に利権を持つ日米やイギリスの警戒も上がっている時のことであった。
そのため、日米英もロシアを牽制する為の満州方面での軍備増強や軍備を増強したドイツを合同で吊し上げするなど、先走る馬鹿共への対策にかかりきりとならざるを得なくなってしまう。
列強同士の争いに力を注ぐ必要に迫られた以上、政治的影響力をだいぶ落としており、脅威とならないと判断した老婆になどかまっている余裕が日米英に存在するはずもなく、以後彼女は列強からは捨て置かれることになり、同地にて光緒帝派の追手に殺害されるまでの間、亡命生活を送っていく。

なお、満州を占領したロシアであるが、彼らの欲望がそれで収まるはずもなく、早々に遼東半島もその勢力圏内に置こうと動き出すが、日米英の妨害によりそれは阻害されることになる。

こうした連合軍内の不協和音が発生していたものの、連合軍は山海関や保定、山西省と直隷省との境界線付近まで含む広大な範囲にわたって義和団にたいする残党狩りを実施していく。
また、北京陥落後の清国では光緒帝派が実権を取り戻した事で、西太后派が公的に認めた義和団に対して「拳匪」あるいは「団匪」と呼び反乱軍と認定。それまで成り行きで連合軍と共闘していた新建陸軍に対して公的に義和団討伐の命令を布告したことで、以後義和団は清朝をも敵にまわし、文字通り孤立無援の状態で叩きのめされていった。

355: ホワイトベアー :2022/05/31(火) 01:04:33 HOST:sp1-72-2-79.msc.spmode.ne.jp
連合軍が壮大な内ゲバと略奪に勤しむ一方で、清国の国家元首である光緒帝は解放されるが否や自らと共に紫禁城より脱出した側近たちとこの争乱の後始末に奔走していた。

この争乱により清国各地のインフラは寸断され、政治の中心である北京は連合軍による略奪や破壊が横行しており治安もガタガタ。満州はロシアに軍事的に占領され、北京は連合軍によって略奪の嵐にさらされているなど清国がおった被害は控えめに言って甚大であり、再建は非常に厳しいものであったが、それでの彼らは清国を立て直そうと動き出していた。

不幸中の幸いであったのは大金をかけて整備した北洋艦隊およびも近代陸軍である新建陸軍がほぼ無傷であることから最低限の軍事力を有している事と、これらの軍や光緒帝自身が列強連合軍と伴に戦い清国が完全な敗戦国ではないことだが、舌なめずりをして清国の経済的植民地化を狙っていた列強にはその様な功績はあってないようなものである。

北京を軍事的に占領している列強連合軍との交渉をはいじめた光緒帝であったが、首都を大軍に占領させられている上で国内がガタガタな今、彼らに交渉権など存在するはずもなく、その内容は列国協議のもとで清朝の意見は一切認めない形で創られ、清朝は全てを呑まざるを得なかった。

それでも、ロシアやドイツなどの勝手な行動に怒り心頭であった日米や独露の勢力拡大を警戒する英国に働きかけ、なんとか賠償金を常識的な範囲(金額は1億6千万両で39年の分割払い、利子は無し)に留めることには成功した。
しかし、それ以外の内容は史実通りと清国にとっては非常に厳しい内容にはかわりなく、清国国内における清朝の威信は完全に失落した。また、これに合わせるように親清的であった義和団を清国政府が徹底的に弾圧した事や、国内の混乱による経済的な窮乏などにより清国内の漢民族の反発が増大化していくなど、義和団の乱が一応の解決を見たあとも清国の内情は依然として厳し状況が続いていく。

厳しい状態にあるのは国内だけではない。満州をロシアが占領してしまった為に朝鮮半島をその勢力圏としている日米が警戒度を上げるなど、外交面でも非常に厳しい舵取りを迫られることになってしまう。

(※1)
隠れ光緒帝派の人々は籠城組の支援だけではなく、逃げ遅れた外国人を匿うなどの行動をとっており、北京在住の外国時はそのほとんどが助かることに成功する。

(※2)
負傷した日本人兵士を庇い右眼に傷を負い、以後の彼は右目を眼帯で隠すことになる。
なお、この事によって日本国内で清国皇室への好感度が上がり、後に清国皇室を救うことになる。

356: ホワイトベアー :2022/05/31(火) 01:05:06 HOST:sp1-72-2-79.msc.spmode.ne.jp
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最終更新:2022年06月12日 19:23