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日米枢軸ネタ 第18話 改訂版(修正バージョン)

1905年4月、奉天会戦でのロシア軍の歴史的大敗を知ったフランス政府は同盟国であるロシアの軍事力が低下し、第一次モロッコ問題で現状対立しているドイツへロシアが与えている軍事的圧力が低下することやロシア帝国と戦争中の日米とドイツ帝国が接近する事を恐れ、日米連合とロシア帝国間の和平の仲介を提案する。
この動きにフランス同様にドイツの影響力拡大を警戒していたためイギリスも同調、日米とフランスの交渉を仲介するなどフランスに対する積極的な支援を開始していく。

フランスから非公式ながら和平の仲介を提案されたロシア帝国であるが、奉天会戦での敗北で戦費の調達もままならず、革命や第一次モロッコ問題で内憂外患の状況に陥っていたこともあって完全に拒絶することはなかった。
しかし、その一方で現状での講和はロシア帝国の面子の問題やロシア帝国国内での政府の求心力低下への懸念から後ろ向きな姿勢を示し、日米両国もロシア側から和平を求めるならともかく、
こちらから先に和平を提案する必要はないとロシア側が根を上げるまではフランスの仲介を受けるつもりはなかった。

その為、フランス本国は駐露大使にあらゆる手段を使ってでもロシア政府を説得しろと厳命、最終的には日米とロシアの早期和平の実現を願っていたフランス側がロシア帝国への出資の縮小すらにおわせたこともあってロシア政府は折れ、
1905年5月12日、ロシア政府は正式にフランスに対して和平の仲介を依頼する。これを受けたフランスは日米両国に講和勧告を行い、日米側もこれを受諾したことで正式に和平会議が開催されることとなった。

フランスの仲介の下での日米連合とロシアの和平交渉の開始は表向きには欧州各国から評価された。
しかし、フランスとロシアに挟まれ、さらに第一次モロッコ事件で両国との緊張を高めていたドイツは戦争によってロシアが疲弊することや、モロッコ問題の交渉を有利にするためにロシアの目が極東に向いていてほしいなどの思惑もあって本心ではこの動きをよく思ってはいなかった。
その為、裏では日米への支援を打診したり、ロシアに安価での兵器輸出を提案するなど何とか満州での戦争を継続させようとするなど暗躍をしていく。

こうして欧州では戦争継続を願うドイツと早期戦争終結を願うフランスとの間で暗闘が行われることになるが、最終的にはロシア、日米双方ともに和平の席に付き、1905年6月12日からフランスのマルセイユにおいて講和会議が開催されることになった。

日米とロシア帝国間の講和会議において、ロシア側の全権代表には元大蔵相であったセルゲイ・ウィッテが選ばれることになった。
彼は戦争前には財政面から日米との会戦に反対していた人物で、その為、戦争中は政治中枢から遠ざけられていた。そうした経緯もあってロシア政府内では彼が全権として最適任であると言う一致した見解が存在していたが、
ロシア帝国最高権力者である皇帝ニコライ二世は彼を嫌っており、これを受けたウラジーミル・ラムスドルフロシア外相は別の人物を候補としてあげるなどその任命までには多少のゴタゴタが発生していた。
幸い、ウラジミール・ラムスドルフロシア外相が候補として挙げた人物は皆この推薦を辞退したため、ウィッテ氏が全権代表として任命されたが。

それでも、セルゲイを全権代行大使に任命する際にニコライ二世は「一にぎりの土地も日米に与えてはいけない。その為なら多少の賠償金の支払いもやむ無し」という厳命を与えるなど少なくない制限を与えたため、
セルゲイは講話会議での交渉で苦しい立場におかれた状態で講和会議に挑むこととなった。

対する日米であるが、日本は全権代表として最後までロシアとの戦争に反対していた伊藤博文外相に任されることになり、彼自身もこれを受け入れるとすんなり決まり、アメリカでも国務長官であるジョン・ヘイが任命された。

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この時、アメリカ国内ではマスメディアが国民の期待を煽り、それまでの勝利や日米連合(特に同盟国である日本)の圧倒的な軍事力によってアメリカ国民もまた戦勝国気分に酔っていた。
特にマスメディアの煽りはその内容を抜粋してオブラートに包むと「バイカル湖より東の割譲」、「賠償金600億ドル以上」、「ロシアの市場解放」の三つが講和の条件だという日米両国首脳部記者や編集者の正気を疑うようなものもあったが、
それを真に受ける人間が少なくない数いたのだ。

実際に日本国内にはいまだに24個師団以上の戦力が待機していたことやアメリカでも新たに志願して入隊した若者達を中心として編成された新設師団の戦力化が順調に進んでいるなど日米両国ともにいまだに戦争を継続するだけの余裕を持っていたことが余計に事態を悪化させ、
国民の期待をより煽ることになっていた。

しかし、両国政府としてはすでにこの戦争で140万ほどの兵力を満州に送り込み、戦費として両国あわせて365億ドルほどに達していたことから多少の譲歩も行っても講和を行うことを望んでいた。
すなわち、連合国、特にアメリカ合衆国では政府の考えと国民の期待に大きな隔たりが存在していたのだ。

ロシア全権代表であるウィッテは5月26日、ペテルブルグを出発、客船と鉄道を用いて6月12日に講和会議が開かれるマルセイユに到着する。
彼はロシアを出発する前から日米の要求が過酷なものになると予想しており、欧州各国の世論を味方にして少しでも条件を緩和させようとマルセイユに到着するや否やただちに記者会見を実施、
洗練された話術とユーモアを活かしてりフランスを含めた欧州各国の世論を味方につけようとする。

彼は欧州各国も決して日米の強大化を望んでいないとも考え、日米の要求がいかに厳しい内容かを強調すれば欧州各国の国民がロシアに同情的になるように振舞ったのだ。そして、その考えは正しかった。

無論、日米両国もメディア戦略はしっかりとたてていた。ウィッテの戦略に対抗して伊藤博文外相やジョン・ヘイ国務長官も記者会見を行い、ロシア人やロシア政府、軍が満州で清国人にどのような事をしてきていたなどを写真や映像を使って公開することでロシアへの印象を悪化さようとしていく。
さらに、諜報機関を使っての世論操作も行うなどロシア側への対抗策を行っていった。また、交渉の内容も積極的にマスメディアに公開していくなど両陣営がマスメディアの重要性を認識して積極的にマスメディアを使って交渉を有利に進めようとしていく。

肝心の講和会議であるが、公式会議はサン・ジャン要塞を会場として開かれることになった。
講和会議の第一回本会議は7月19日に開かれることになり、その冒頭において日米側は自らの講和条件を提出した。その内容は以下のとおりである。

1.ロシア軍の全ての清国領からの軍備の撤退と占領した清国領の返還。

2.日露両国は、清国が満州の商工業発達のため、列国に共通する一般的な措置の執行にあたって、これを妨害しない。

3.日露両国は、清国が満州の商工業発達のため、列国に共通する一般的な措置の執行にあたり、これを阻害しないことを互いに約束する。

4.ハルビン・旅順間・満州横貫鉄道(東清鉄道本線)とその支線およびこれに附属する一切の権益・財産、鉄道に所属する炭坑をロシアより清国に移転交附する

5.日米両国が指定した金額の賠償金の支払。なお、支払時期、方法は別途協議すること。

6.ロシアは極東方面において日米の同意なしに陸海軍力を増強しないこと。

7.ロシアは日米が指定した領土を現地の財産とともに割譲すること。なお、民間人財産についての補償は別途協議すること。

8.ロシア側の市場を日米両国に無条件で開放すること

無論、これは初期案に過ぎず、あくまでもロシア側への軽いジョブ程度に過ぎなかった。ロシア側もその事を理解しており、1、2、3、4の要求は受諾する、もしくはおおよその内容は受け入れ、5に関しては「金額については交渉する必要があるが、ある程度の支金額なら払う準備もある」と表明する。しかし、6、7、8については明確に拒絶した。

178:ホワイトベアー:2022/11/05(土) 09:16:28 HOST:157-14-234-250.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
7月28日に開かれた第3回 本会議では、賠償金の具体的金額と支払い方法、支払い期限についての交渉が行われるが、交渉は一向に進まなかった。これを受けた日本はフランス首相のルーヴィエ首相に援助を求める。
ルーヴィエ首相も一刻も早く講和を成功させたかったこともあって日本側の要請を受諾、ニコライ二世に善処を求める親電を送った。
フランス側からの圧力もあってロシア交渉団はその態度を軟化させ、交渉は進展を見せた。そして、第4回本会議においては日米の領土の割譲要求の撤退を条件に日米の戦費をロシアが補填するという相互の妥協案が成立する。

また、市場解放については条約文内に『ロシア帝国政府は日米の商業活動を尊重する』という一文を条約に挿入することで妥協が成立、8月11日に開かれた第8回目の本会議においてようやく事実上の講和条約の内容が成立する。
この講和の内容をウィッテより知らされたニコライ二世は激しく落胆し、1日部屋に籠ることになるが翌日にはウィッテの決断を受け入れた。

そして、8月30日に休戦協定が成立、翌月の9月11日にロシアが、12日に日米がこの条約に批准した。

フランスやイギリスをはじめとする欧州各国の新聞は日米ロの間で成立した講和条約を受け、三ヵ国のことを国益よりも平和を重視していると人道国家と称賛し、三ヵ国に喝采を送った。

しかし、日米の国民は連戦連勝の軍事的成果にかかわらず賠償金が当初の(マスコミの)予想より少ないことや、領土の割譲が得られていないことから大なり小なり不満を抱くき、
ワシントンD.Cや東京をはじめとした日米両国の各地では講和反対のデモや集会が発生してしまう。

9月5日にはワシントンD.Cでおきていた講和反対デモの参加者が暴徒化、講和に賛成していたワシントン・ポストが襲撃され、それとほぼ時を同じくしてアメリカ合衆国国務省が銃器で武装した暴徒に襲撃されるなど混乱が拡大していった。
デモの暴動化に伴い、ワシントンD.C行政委員会は警察の他に州兵すらも動員して暴徒の鎮圧に取り掛かるが、警察・州兵合同部隊は暴徒達によって撃退されてしまう。これを受けた行政委員会委員長は連邦政府にこれ以上治安を維持することは不可能と報告、講和条約の発足を巡る騒動は連邦政府に対して治安維持の為の連邦軍の出動を要請する事態にまで陥ってしまう。

幸いにして連邦軍が到着したことで暴動を収めることに成功するも、しかし、暴動の終息後も国内の反発は収まらず、条約の批准および上院の通過を確認するとセオドア・ルーズベルト大統領が責任を取るために大統領職を辞任し、後任としてチャールズ・ウォレン・フェアバンクス副大統領を大統領に昇格させることでようやく反対デモ等は終息にむかっていった。

こうした混乱こそあったものの条約は無事に成立し、ようやく日米露と言う戦争は無事に終結を迎える。

179:ホワイトベアー:2022/11/05(土) 09:17:29 HOST:157-14-234-250.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
以上、修正版をあげさせていただきました。wikiにはこちらを転載お願いします。

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最終更新:2022年11月18日 23:38