130: 名無しさん :2019/06/24(月) 14:09:17 HOST:softbank126077075064.bbtec.net
日墨ルート
日露戦争が日墨の勝利に終わったあと、各国は大きな混乱に見舞われた。比較的被害が少なかったのは、日本との関係が長かったイギリスとオランダ、一部軍人からの意見により皇帝ナポレオン4世自らが日本支援を明言したフランスぐらいだった。
イギリスでは特にフロリダ海峡海戦で米艦隊を打ち破る原動力となった富士級戦艦(Fujiから取ってF級、または二番艦の八島からとってY級とも)を超える戦艦の建造に躍起になっていた。
その為、英海軍はフィッシャー提督を中心に新鋭艦を多数揃えようとしたのだが、これが後に人民予算問題という英議会内での大論争を引き起こすことになる。
オランダでは、日本が自国植民地の東インドに攻め込まないように探りを入れるのに必死だった。東インド失陥はオランダの滅亡を意味するようなものであるからだ(もっとも日本側にその意志は微塵もなかった)。
フランスでは従来それほど盛んでもなかった日本との人的交流を密にした。日本における知名度で伝統的に関係の深い英蘭にどうしても水を開けられている(じつは経済的にはスエズ運河会社の共同運営などそれほどでもなかったが、一般国民の間での関心は低かった)現状を鑑み、文化面での交流を軸にした文化外交に力を入れた。
そして、もう一つ力を入れられたのがフランス軍からの留学生の派遣だった。フランス国内ではナポレオン4世即位時の騒乱(注1)を武力で鎮圧した事からフランス軍の軍備拡張には批判的な側面があり、更なる軍の効率化を図る為に日露戦争の戦訓が重視されていた。
一方で、混乱が大きかったのがロシア、アメリカ、ドイツ、イタリア、ベルギーだった。
ロシアでは第一革命による混乱が未だに尾を引いていた。そのため、経済的復興の為にドイツ資本への市場開放を進めることになる。
アメリカでは、戦後しばらくして1908年の大統領選が行われたが、ルーズベルトの後を継ぐ後継者選びに難航する共和党にかわり、ウィリアム・ジェニングス・ブライアン率いる民主党が圧勝した。また、ユージン・ヴィクター・デプス率いるアメリカ社会党も第3政党の地位を得るなど波乱の選挙となった。
ドイツでは皇帝ヴィルヘルム2世の政策もあり日本に対抗する為と称して艦隊法が成立したが、これをイギリスの覇権への挑戦と見たイギリスとの間で緊張が高まった。
経済的にはロシア、イタリア、ベルギーなどの大口投資先の存在で大いに発展した(注2)。
イタリアでは経済的苦境となった為、こちらでもドイツ資本の参入が進み元々弱体だった経済が更にドイツに依存することになった。
ベルギーでも、日露戦争中のロシア投資が原因で経済的苦境にあったこと、フランス帝国とは対立関係にあったこと(注2)などが原因でドイツとの関係が深まった。

そんな混乱の中で、極東清国で革命が勃発する。それは新たな混乱の始まりだった。

注1 1873年のナポレオン4世の即位時に共和派、王党派、社会主義者が裏で三つ巴の争いを繰り広げながらも、帝政廃止を画策した際に議会に大砲を向けて阻止した事件。
また、同時期に起きたアルジェリアでの騒乱では共和派に与した入植者たちを容赦なく鎮圧すると共に、同時期起こっていたアルジェリア人の反乱に対しては3世時代のアラブ王国政策を引き継ぐことで合意した。
注2史実普仏戦争の賠償金が無かった分それなりに経済的発展は遅かったが、これにより更に発展した。
注3一時期ナポレオン3世がベルギー併合を画策していたことから、その怨恨が帝政存続によって引き継がれていた。

131: 名無しさん :2019/06/24(月) 14:10:15 HOST:softbank126077075064.bbtec.net
長くなり過ぎましたね。投下終わりです。次は嶋田さん出します。

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最終更新:2021年01月23日 20:57