23:ホワイトベアー:2023/01/11(水) 20:12:58 HOST:183-180-102-134.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
日米枢軸ネタ 第21話 改訂版

 満州戦争において欧州最大の陸軍国であったロシア帝国を相手に歴史的な大勝利を収めた大日本帝国は、その実績と満州戦争で明らかにしたその圧倒的とも癒える軍事力を背景に東アジア及び太平洋地域において確固たる主導権を握ることに成功した。
満州戦争での被害とロシア革命による混乱でロシア帝国は事実上東アジアから撤退を余儀なくされ、日本は自国の周囲から脅威を取り除くことに成功。満州戦争後には英独間の対立を発端として過激さを増す欧州での軍拡競争を尻目に軍備の縮小を行っていく余裕を手に入れた。

 これを受けて日本政府は東アジアの安定化によって過剰的となった軍備の大規模な縮小を決定、日本軍三軍(陸軍・海軍・沿岸警備隊)のなかでもっとも多くの人員と予算規模を有しながら満州戦争での失態から政治的に大きな弱点を持っていた日本陸軍はその最大の対象とされてしまう。

 満州戦争終結直後の日本陸軍は戦闘警備隊に属さない部隊だけでも戦車師団(機甲師団)8個、歩兵師団33個、空挺師団4個、混成戦車旅団8個、混成歩兵旅団24個、その他多数の専門旅団、それを支える後方支援部隊などからなる大規模な地上軍と、
8000機近い航空機とそれを運用するために必要な人員からなる航空隊を抱える世界でも有数の戦力を持つ陸軍であった。
 しかし、周囲から脅威が取り除かれたことでこれほどの軍備は必要ないと政府は判断、終戦時までには45個編成されていた師団は1908年までに25個にまでその数を減すことになり、
旅団以下の部隊も多く解体させられたことで陸軍地上軍はその規模を終戦時の半分以下にまで縮小させられてしまう。

 当時の日本は日本本土や東アジアのみならず台湾や南洋諸島、ハワイなどの太平洋上の島々、アラスカやパナマ、アメリカ国内などの北米大陸、さらにスエズ運河とクウェートを中心とした中東もその勢力圏に組み入れており、
それらの地域に部隊を展開しなければならない日本陸軍にとってこの軍備削減は非常に厳しいもので、軍縮の検討が開始された時から陸軍内部では軍縮に反発する声が噴出した。
 しかし、当時の陸軍内では政府および夢幻会が本格的に黒溝台会戦の責任の追求を開始し、反幕府(夢幻会)閥の中心人物の1人でありながら持ち前の政治力を存分に発揮して当時の陸軍軍令のトップである陸軍参謀総長に就任していた山縣 有朋大将を
わざわざ幕府閥の牙城である海軍が司令部を独占する太平洋総軍の隷下に新設した陸軍南洋諸島方面軍の司令官に任命させることで事実上左遷、
山縣と同じ反幕府閥に属する有力な人間達もそのほとんどをアラスカや南洋諸島の島々など中央から程遠い上に太平洋総軍の管轄内の地域に配置転換させるなど、
陸軍内で第二位の地位を築き、一時は旧幕府派にすら匹敵する派閥にまで成長していた旧外様藩派閥を事実上潰したことで軍縮を推し進める旧幕府閥の力が非常に強く、
こうした声は完全に無視される形で一方的に軍備の縮小が決定・実施されることになった。

 さらに追い打ちをかけるように満州戦争から3年がたった1908年には与党であった立憲政友党の党首が交代する形で德川 慶久政権が誕生。
同政権の下で軍備縮小と組織の合理化を目的とした大日本帝国軍再編成計画が開始され、さらなる規模縮小が陸軍を襲う。

 この計画では単純な師団や旅団の削減こそおこなわれなかったものの、今まで4単位制であった日本陸軍の師団編成を3単位制に変更することが決められ、
合わせて陸軍師団内に置かれていた師団内旅団を解散させることでそれまでの《師団》ー《旅団》ー《連隊》といった形から《師団》ー《連隊》にシンプル化される事となり陸軍は人員のみならず将校のポストまでもが削減されてしまう。

 こうした部隊編成の改編は海軍海兵隊の陸戦師団をモデルとしたもので問題はないとわかっていたが、
それでもさらなる規模縮小やポスト減少を迫られた陸軍内では旧幕府閥に属さない人間やいわゆる青年将校と呼ばれるような帝国陸軍創設後に士官学校を卒業する形で入隊した若い世代を中心に、
師団当たりの兵員減少による戦闘力の低下を建前に規模縮小や師団内旅団の解体への反対の声があがるが、この時も満州戦争終結直後から開始された大軍縮と同様に政府と陸軍の主導権を握った旧幕府閥はこれらの声を無視して強権的に改革を進めていった。

24:ホワイトベアー:2023/01/11(水) 20:13:52 HOST:183-180-102-134.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
 通常の陸上部隊が削減されていく一方、後方錯乱や破壊工作などの非正規戦、長距離偵察哨戒、威力偵察、非正規武装組織の育成および練兵などのいわゆる特殊作戦を専門に行う精鋭部隊であるコマンド部隊は満州戦争における功績と有用性が認められたため増強が許され、
従来のコマンド部隊を再編・拡大する形で3個コマンド連隊を中核とした陸軍特殊部隊が新たに編成される。
 また、これまで精鋭軽歩兵部隊としてコマンド部隊の支援を担当していた第2山岳旅団を改編する形で第1レンジャー旅団が新たに編成され、日本陸軍の特殊部隊の基本形がここに完成した。

 コマンド部隊と並んで満州戦争でその力を示した航空戦力もまたその規模拡大が認められ、再編成計画によって航空部隊の大規模な増強と陸軍の地上部隊と同等の地位を有する陸軍航空軍が創設された。
 満州戦争集結時の日本陸軍は8,000機近い航空機を保有していたが、この組織改編と規模拡大によって日本が世界大戦に参戦した頃には20,000機近い航空機を運用するまでにその規模を拡大させることになる。

 戦闘部隊の再編が進んでいく一方、兵站部門では満州戦争の戦訓を受けて陸海を統合した兵站システムの構築を推進させていくことになり、
その一環として陸海軍の指揮系統から独立した第4の軍とも言える統合輸送本部が1912年に創設された。

 満州戦争までの日本軍では陸海軍でバラバラに兵站組織を抱えていた。そのため、その輸送効率は日米連合軍総司令部の下で戦争に臨んだ満州戦争時ですら効率的とはとても言えないもので、多くの無駄やミスが発生してしまった。
統合輸送本部はその反省を活かして構想された組織で、陸海軍の垣根を越えて日本軍の兵站・輸送担当部隊をその指揮下に収め、
航空輸送部隊、輸送艦、鉄道部隊、輸送部隊などを統合的に運用することで効率的な兵站システムを構築可能にすることを目的として創設された。

 工兵部門においてもこれまでは師団付き工兵や軍団付き工兵、独立工兵など指揮系統がバラバラな状態に置かれていたことから再編成計画の立案時にその非常に非効率的な組織体制が問題視され、
陸軍内だけでも統合運用できるように陸軍工兵司令部が創設されるなど、兵站・工兵などの後方から軍を支える部隊の再編成も同時並行で進められていった。



 帝国軍再編成計画では組織改革や編成の改編と同時に陸軍全体の装備の近代化と刷新も実施された。

 当時の日本はその工業力と経済力、機械化された兵站システム、成熟した大量生産技術をフル活用することで、世界でも珍しく半自動式ライフルである『86式半自動小銃』を主力小銃として、
自動式ライフルである『88式自動騎兵銃』を後方要員や空挺部隊向けに配備していた。
 これらの銃器は採用から四半世紀ほどたった満州戦争時でも非常に先進的で十分以上の能力を発揮することができていたが、『86式半自動小銃』は重量や装填弾数、装填方式を、
『88式自動騎兵銃』は威力不足の改善を求める声が前線部隊から大量にあげられた結果これらを代替する新型小銃が求められ、
自動小銃と自動騎銃の能力を兼ね備えた新しい小銃として開発されていた試製小口径高速弾小銃が『9式突撃小銃』として新たに主力小銃として採用される。

 アルミニウム合金多用し、新たに開発された5.56mm高速弾を20発装填可能な箱型弾倉を交換する形で装填をおこなう『9式突撃小銃』は前線部隊から届けられた不満を解消した名銃であったが、
ただ、小口径高速弾はその性質上射程距離が主力小銃であった『86式半自動小銃』よりも短いという欠点を有しており、
これを解決するために『9式突撃小銃』を大口径化させる形で開発された『12式突撃小銃』や『86式半自動小銃』を発展させる形で開発された『10式自動小銃』などの中口径小銃が『9式突撃小銃』を補完する小銃として採用されていった。

 また、日本軍では伝統的に歩兵部隊単位での火力を重視する風潮が強く、小銃以外でも92式汎用機関銃の後継として開発されたオープンボルト式のガス圧作動方式を採用する6式汎用機関銃や、
手榴弾では届かず迫撃砲では近すぎる距離での歩兵部隊への近接支援を目的に開発された11式40mm擲弾発射器および13式40mm擲弾発射器、対装甲戦力用に開発された13式66mm個人携帯対戦車弾、
装甲戦力用に能力が向上された98式84mm無反動砲2型なども相次いで採用・配備が行なわれ、日本軍再編成計画後の日本軍歩兵部隊
の火力は満州戦争時とは比べものにならないほど大きく向上することになる。

 歩兵用の被服や装具の近代化も実施され、満州戦争における戦訓や技術の発展からこれまで限定的な配備に留まっていた生地に複数の色彩で雲形や斑点の模様からなる迷彩が施された戦闘服や
ナイロンを使用したボディアーマーが全面的に配備されていき、火力のみならず歩兵の隠蔽性と防御力も大きく向上する。

25:ホワイトベアー:2023/01/11(水) 20:14:44 HOST:183-180-102-134.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
 歩兵装備の更新は歩兵の生存性に直結することもあって優先的に行われていったが、帝国軍再編成計画では人員を削減することで浮いた予算を用いることで戦車を始めとしたいわゆる重装備の更新も行われていった。
もっとも、多少増額されたとはいえ軍縮の流れもあってその装備更新に費やされる予算規模はお世辞にも多いと言えず、比較的優先順位の低い重装備の更新は緩やかに進められ、
本格的に重装備の更新スピードが加速するのは1914年に世界大戦が勃発し、これへの対応の一環として軍事予算の大幅な増額が認められるまで待たなければならなかったが。

 満州戦争時の日本軍で運用されていた戦車は陸軍海軍海兵隊問わず全ての種類において多砲塔戦車であった。
しかし、満州戦争にて実際に戦場に投入されたほぼ全ての戦車部隊から多砲塔戦車への不満や批判が内地に届けられたことや、(日本が積極的に輸出したせいで)他国でも機甲戦力の整備が進んでいたことから新型戦車の配備が決定され、
史実M3リーをモデルに開発された多砲塔戦車である1式中戦車の後継として西暦1908年に8式中戦車の配備が陸軍及び海軍海兵隊で開始される。

 この8式中戦車は満州戦争後すぐの1906年より、満州や大陸といったインフラの整っていない地域での戦闘が可能なように重量を30トン級に抑えつつ欧州列強が整備を進める機甲戦力に対抗できる戦車として1式中戦車の設計を基に開発が行われた戦車で、
主兵装としては装甲貫徹力が1式中戦車の主砲であった1式75mm戦車砲より高い8式76.2mm戦車砲を搭載し、最大装甲厚は76mm、
エンジンには400馬力級の星型空冷エンジン(ガソリンエンジン)を搭載することで最大速度は整地で38.6km/h、不整地で19.3km/hを発揮することができ、
高い攻撃力、高い防御力、高い機動力を兼ね備えつつ鋳造一体構造を採用したことで高い生産性も実現した優れた中戦車であった。

 さらに日本軍はこの8式中戦車を補完する偵察用の戦車として、史実M41軽戦車をモデルとして開発された8式76.2mm戦車砲を装備する23トン級戦車を10式軽戦車を採用して配備を始めるなど機甲戦力の充実を図っていく。

 同年代の欧州列強で配備が進んでいた戦車が史実ヴィッカース中戦車 Mk.I相当の三菱T-78中戦車及びその派生型や史実八九式中戦車相当の中島T-79中戦車及びその派生型などであったことを考えると、
当時の日本軍で配備が進められていたこれらの戦車は無敵と言える程の性能を有していた。
しかし、日本軍は8式中戦車や10式軽戦車の対戦車戦能力に不安を抱いており、より対戦車能力の高い12式重戦車の配備を西暦1912年から開始する。

 この戦車は機甲部隊同士の決戦での運用を前提として設計された対戦車決戦用戦車で、主砲には新規に開発された51口径 12式105mmライフル砲を搭載。
装甲には防弾鋳鋼と圧延防弾鋼板を組み合わせたものが採用され、その装甲圧は最大で254mmと10式中戦車の3倍以上の厚さ誇り、
さらに設計段階から避弾経始が考慮されていたため装甲圧以上の防御力を発揮可能とするなど従来の戦車の常識を置き去るような重武装・重防御が施された。
12式重戦車はこれらを叶えるためにその全備重量が52トンと10式中戦車の1.7倍近い重さとなってしまったが、
エンジンとして750馬力級の4ストロークV型12気筒ターボ・ディーゼルを採用したことで最高時速は10式中戦車を上回る48km/hを実現可能としていた。

 攻撃力・防御力・速力で10式中戦車を超えるまさに世界最強の怪物として誕生した本戦車だが、配備開始から時間をおかずに現状の諸外国の戦車と比べた場合に明らかに過剰性能だと議会で叩かれ、
軍内部でも重量の問題からインフラの整った日本本土ならともかく、外地や国外で戦闘を行うには適していないと判断されてしまったことで重機甲師団であった海軍海兵隊第7陸戦師団と陸軍第1機甲師団、
第2機甲師団、そして富士の陸軍機甲教導旅団にのみ配備されるに留まることになってしまう。
 その一方で、少し先のことになるがこの12式重戦車の重戦車でありながら中戦車に匹敵する機動性と信頼性を発揮できるという特性は後に主力戦車と呼ばれる大型戦車の開発に大きく影響することになり、
12式重戦車は世界初の主力戦車と位置づけられるなど後の戦車開発に大きな影響をもたらすことになる。

26:ホワイトベアー:2023/01/11(水) 20:15:47 HOST:183-180-102-134.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
 戦車の更新と同時に機甲師団や機械化師団における歩兵部隊の足となる車両の整備も実施され、10式軽戦車が採用されたのと同年には世界初の正式配備されたAPCとして後に記憶される10式装甲兵員輸送車が日本海軍海兵隊と日本陸軍に採用された。
 この車両は機械化されつつあった日本軍の編成のなかで歩兵部隊を安全にかつ素早く戦場に送り込むために開発された装甲車で、戦車と同様に履帯を装備することで不整地・荒地の走破能力が高くなっており、
車体を軽量なアルミニウム合金製で製造することで13トンという極めて軽い車体重量でありながら一定の防御性能を与えることに成功、車体後部には大型の昇降ランプが設けられ兵員の迅速な降車展開を可能としていた。
 また、そのシンプルな構造と高い拡張性から多くの派生型も開発され、APC型以外の派生型も含めて日本軍地上部隊では広く配備されていく。

 余談であるが10式装甲兵員輸送車の派生型の1つである12式歩兵戦闘車は20mm機関砲を砲塔形式で車体上部に装備しており、その外観や重量から軽戦車に間違われて認識される事態が多発することになる。

 非装甲車両の更新も行われるが、これらの車両は予算の関係上調達コスト削減のために積極的な民製品の利用が行なわれた。
 無論、全てが全て民製品を利用している訳では無いが、従来のように非装甲車両であっても専用に設計されたモノを使用するのではなく、
軍縮による予算削減や民製品の信頼性向上などもあって利用できる民製品のパーツは積極的に利用していくように方針が転換されることになったのだ。
 この方針によって小型の四輪駆動車やトラックなど車両の調達価格を大きく低下させることに成功、日本軍は世界大戦に日本が参戦するまでには国軍のみならず都道府県戦闘警備隊の機械化(自動車化)も完了させることができた。

 火砲についても機械化が精力的に推し進められ、1912年には39口径155mm榴弾砲を全周旋回可能な砲塔に搭載する12式自走榴弾砲の配備が開始された他、
装甲巡洋艦の主砲並みの砲である37口径203mm榴弾砲を搭載する13式自走榴弾砲や10式軽戦車の車体コンポーネントを流用し、対空迎撃用に40mm対空機関砲を連装式に砲塔に収めた11式自走高射砲、
10式装甲兵員輸送車の車体を流用し、130mmロケット榴弾用三十連装ロケット発射装置を車体上部に搭載した12式自走多連装ロケット砲などが相次いで配備された。
 また、従来の牽引式火砲でも軽量で戦略機動性の高い14式105mm榴弾砲が採用されるなど新型砲の開発や配備が進められていった。

 いっぽう航空機についてだが、満州戦争後すぐの西暦1909年に史実UH-1を参考に開発された中島製9式汎用回転翼機が日本軍で採用されたのを皮切りに従来の固定翼機とは全く違う概念の回転翼機(ヘリコプター)が新たに登場、
日本では陸海軍ともにこの新たな兵種の整備を開始していた。

 この9式汎用回転翼機は航続距離418km、最高時速は時速236kmと当時の欧州列強で整備が進められていた戦闘機に匹敵・あるいは凌駕するほどの性能を誇り、
さらに垂直方向の軸に配置したローター(回転翼)を動力の力で回転させることによって揚力を生み出し、出力やローターの描く面(回転面・円盤面)を変化させることで進行方向への推進力を獲得する方式を採用していることから
従来の固定翼機では不可能なホバリングや垂直離着陸を可能とし、従来の固定翼機では運用が不可能な短い滑走路や平地で運用することが可能であった。
 また、本機は2名のパイロットの他に完全装備の歩兵を7名搭乗させることができ、さらに最大で1,451kgの貨物を輸送することも可能としていた他通常時は非武装であるが、任務に応じて4丁の7.62mm機関銃と8連装ロケット弾ポットを2個装備することで攻撃機としても運用可能で、
汎用の名が示す通り多くの任務で活躍することができるまさに万能機として回転翼機の有意性を証明するのと同時に日本陸海軍で重宝されるようになった。

 日本軍は9式汎用回転翼機の採用によって回転翼機(ヘリコプター)の有用性を実感したが、その一方高い汎用性を誇る9式汎用回転翼機は器用貧乏とも言えるある種の中途半端な性能ゆえに、
便利屋として使うならともかく特定の任務に専属させる場合には性能不足を感じており、より専門性の高い回転翼機も求めるようになる。

 幸いというべきか、日本陸軍省航空本部と中島は9式汎用回転翼機と同時並行でより大型で積載能力に勝る輸送ヘリコプターや偵察や観測用の小型軽量ヘリコプターの開発も同時並行で進めており、
西暦1912年には史実CH-47をモデルとしたより輸送能力を重視した12式輸送回転翼機が、1915年には史実OH-6をモデルに軽量かつコンパクトな15式回転翼偵察機が相次いで採用され、
解体を免れた師団や旅団に新設された師団(旅団)航空隊を中心にその配備が進められていく。

27:ホワイトベアー:2023/01/11(水) 20:16:23 HOST:183-180-102-134.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
 回転翼機という革新的な種類の航空機が誕生した一方で満州戦争で活躍をした固定翼機であったが、こちらも極めて先進的な新型戦闘機が開発されてはいたが、とある問題もあってそれらの配備はそれほど進んでいなかった。

 もともと満州戦争開戦前から日本軍は従来のプロペラ機をすでに成熟した技術と見做しており、日本陸海軍航空本部と倉崎重工・三菱重工の三社が共同で次世代航空機としてジェットエンジン搭載航空機の研究に取り掛かっていた。
 この開発計画は莫大な予算と倉崎重蔵と言う鬼才の存在もあって満州戦争開戦と同年である西暦1904年には音速の壁を超えることが可能な戦闘機である試製0式戦闘機の開発に成功、
さらに当時はレーダーなどの電子兵装が爆発的に発展を遂げていた時代でもあったため、1910年には最高推力79.62kNを発揮可能とした1軸式ターボジェットエンジンである倉崎6式軸式圧縮機8型を2基搭載し、
各種レーダーなどの電子装備と電波ホーミングミサイルの搭載能力を備えた全天候型双発複座式艦上戦闘機である10式艦上戦闘機が開発を終えるなど、
日本ではレシプロエンジンを搭載したプロペラ機に変わる次世代航空機として史実第3世代ジェット戦闘機相当の超音速機が実用段階にあった。

 しかし、これらの超音速戦闘機はその性能の高さに比例して調達・運用コストが従来のレシプロ機とは比べ物にならないほど高く、さらに当時の欧州列強が主力戦闘機として配備を進めていた機体は史実ブリストル ブルドッグやAr 65、P-2相当の、
最高時速300km程度の複葉機であったことからハッキリ言ってオーバースペック過ぎてコストパフォーマンスが悪すぎると判断されてしまい、運用ノウハウや戦術研究のために少数が教導隊や重要地域の防空を担当する戦闘機部隊向けに少数が配備されるに留まり、
日本陸軍航空軍では引き続き3式戦闘攻撃機や2式戦闘機、2式軽爆撃機、99式軽爆撃機などの満州戦争でも活躍した機体やその改修機まどを増産配備する形で主力機であり続け、
これらの後継機として緩やかながら配備が進むF-105をモデルに開発さた8式戦闘機やF-106をモデルにした9式戦闘機など史実で第二世代ジェット戦闘機に分類される機体と合わせて運用されていくことになる。

28:ホワイトベアー:2023/01/11(水) 20:17:37 HOST:183-180-102-134.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
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最終更新:2023年06月23日 23:48