188: ホワイトベアー :2019/06/29(土) 23:43:21 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
日米枢軸ルート 閑話

満州戦争終結直後の日本は陸上戦力では56個師団、海軍は戦艦30隻、巡洋戦艦22隻、装甲巡洋艦40隻を中心とした一大戦力を抱えていた。しかし、この軍備は現状の日本がおかれた国際状況から見ると大きすぎる軍備であり、戦後は段階的な軍縮が行われていった。

大日本帝国陸軍

日本帝国陸軍は満州戦争前までに戦車師団(機甲師団)8個、歩兵師団37個、混成戦車旅団8個、混成歩兵旅団24個、その他多数の専門旅団を編成しており、このうち19個師団と30個旅団が満州戦争で戦線に投入された。

満州戦争後、日本陸軍内では政府および夢幻会が黒溝台会戦の責任を取らせるべく動き、当時の陸軍の軍令のトップであった山縣 有朋大将が新設された陸軍南洋諸島方面軍司令官に配置転換させられ、その他の山縣派の著名な人間はそのほとんどがアラスカもしくは南洋諸島の基地に配置転換を命令され、陸軍第二位の地位を築き、一時は旧幕府派にすら匹敵する派閥であった山縣派閥は事実上潰されることになる。

このように内部でゴタゴタを繰り広げながら、日本陸軍は活動領域の拡大から4個師団の増強を求めることになるが、この時の日本政府および国民が陸軍に向ける目は厳しく、当面は45個師団体制を続けていくことになる。日本本土のみならずアラスカや南洋諸島、ハワイ、中東、さらに朝鮮半島や満州も戦力をおかなければならない日本陸軍にとってこれは厳しいことであり、唯一の救いは海兵隊の主導によってではあるが新型の各種陸戦装備開発によって陸軍の装備も更新できたことだろう。

とは言っても、この時の日本帝国陸軍は間違いなく世界最強の軍隊であり、彼らが更なる軍の増強を願ったのはポストを増やしたいという官僚組織としての性であり、増強しなかったことで即座に影響は出なかった。

そして満州戦争から5年がたった1910年には新たに与党となった立憲共和党の党首であり総理大臣となった德川 慶久の下に行われた大日本帝国陸軍再編成計画により今までの4単位制であった3単位制に変更、重武装化による部隊単位での戦闘能力の向上と自動車化による機動力の向上によって師団全体の作戦遂行能力を維持しつつ、軍の縮小を開始する。

189: ホワイトベアー :2019/06/29(土) 23:43:54 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
これと連動して師団内旅団が解散させられ、それまで《師団》ー《旅団》ー《連隊》と言う組織から、《師団》ー《連隊》にシンプル化される事になる。この師団方式は既に海軍海兵隊でとられたことから問題はでないとわかっていたが、それでも陸軍の将校達は師団当たりの兵員減少を心配し、戦闘力減少を懸念していたが、
重火器、重砲などの配備数を増加させ、火力を強化させたことにより、次第にその懸念は消えていくことになる。もっとも専門性が高い兵科が増加したことにより将兵の教育にかかる時間が増加する事になったが。

通常の陸上部隊が削減されていく一方、満州戦争活躍したコマンド部隊は唯一増強が許され、3個連隊規模にまで拡大される。また、コマンド部隊を元として陸軍初の落下傘部隊である第一空挺師団が創設されることになり、空挺強襲と言う新たな戦略がとれる様になる。

陸上部隊の全体的な縮小が進む一方、満州戦争でその力を示した航空戦力は拡大されていき、この再編成計画では航空部隊の大規模な増強と陸軍の地上部隊と同等の地位を有する陸軍航空軍が創設される。

こうして、前線部隊の再編が進んでいく一方、兵站、工兵などの軍を後方から支えている部隊も再編成が進んでいく。

兵站部門では陸海を統合した兵站システムの構築を推進させていくことになり、その一環として統合輸送本部が創設され、陸海両軍の兵站・輸送担当部隊などを指揮下に収め、輸送機、輸送艦、補給艦、鉄道車両、輸送車両などを運用させるようになっていく。

工兵部門は陸軍内ですら独立しており、この状態も非常に非効率的であると問題視され、陸軍内だけでも統合運用できるように陸軍工兵司令部を創設させる。また、満州戦争以降日本軍は後方部門での機械化も重視させていくことになり、これらの予算確保為にも人員の縮小は必要であったのだ。

また、この再編成と連動して陸軍全体の装備の近代化も図られることになる。この時の軍備刷新では主に歩兵装備や各種軍用車両を中心に行われることになるが、1910年大前半は平和の配当として軍事費が削られており、この一連の装備刷新では少しでもコストを下げるために競争入札が行われる事になる。これによって日本陸軍は優れた装備を従来より安く手に入れる事ができる一方、企業側も大口の契約を手に入れることになると言うwin-winの関係を築いていく。

この装備の刷新によって日本軍は旧式化が進んでいた九四式中戦車の後継車両として開発していた新型戦車である十式中戦車が正式に採用される。

この十式中戦車は、満州戦争後すぐの1906年より開発が始められた戦車であり、満州戦争後に列強が開発するであろう戦車に対抗する為に設計開発された戦車であった。それもあって十式中戦車は400馬力と言う1910年代にしてはオーパーツと言えるほどのエンジン(ガソリンエンジン)を搭載しており、最大装甲厚は76っm、最大速度は整地で38.6km/h、不整地で19.3km/hと言う従来の戦車を超えるものであり、主兵装も装甲貫徹力が従来の戦車砲より高い76.2粍戦車砲を搭載させ、高い攻撃力、高い防御力、高い機動力を備えた日本軍の最新鋭戦車である。

190: ホワイトベアー :2019/06/29(土) 23:44:57 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
また、これと同時期に戦車に追従できる、完全な装甲防御を備えた装軌式の兵員輸送車両である十一式汎用装甲車やその各種バリエーション、偵察用装甲車として開発された七式装甲偵察車などの各種装甲車や史実ジープを基に開発された十式四輪小型乗用車、その為軍用非装甲車両の導入も次々と導入されていき、第一次世界大戦直前にようやく陸軍全体の自動車化が完了することになる。

この再編成計画は戦場の女神と称される火砲にも影響を与えることになる。満州戦争前までの大日本帝国軍は一〇五粍榴弾砲と七五粍野砲の混成編成であったが、満州戦争での結果から七五粍野砲では火力・射程距離ともに不足しているとの認識から一五五粍榴弾砲、一〇五粍榴弾砲体制に移行していくことになり、七五粍野砲は山岳部隊や空挺部隊にその姿を残すのみになってしまう。

また、満州戦争での経験から歩兵部隊向けの火砲として迫撃砲の配備もこの再編成計画から始まり、陸上部隊全体の火力向上に寄与していった。


大日本帝国海軍

陸軍の組織改革に大きく貢献した日本軍再編成計画であるが、この計画は帝国海軍にも影響を与えることになる。

大日本帝国は戦前までに戦艦30隻、巡洋戦艦22隻、航空母艦10隻、装甲巡洋艦40隻を中核とした大戦力と4つの常備艦隊と14の警備艦隊、3つの支那戦隊にわけて運用しており、平時はそれぞれ独立して運用されていた。しかし、満州戦争後は、その経験から艦隊の統合運用の必要性が現れ、4つの常備艦隊を投合した連合艦隊、14個の警備艦隊を統合した警備総隊、3つの支那戦隊をまとめは遣支艦隊といった組織を創設し、これ全ての上位組織として帝国艦隊が創設されることになった。この帝国艦隊司令官は日本海軍の全戦闘艦艇への指揮権を与えられる。

そして、この帝国艦隊と海軍海兵隊を管理・統括する部署として、海軍作戦本部が再編成される事になる。

満州戦争での帝国海軍の艦隊はロシア海軍の脆弱差によってその大半が戦争での活躍の場が存在できなかったが、それでもこの大艦隊は見るものを圧倒する力強さがあった。しかし、この艦隊の実態はその半数以上が建造から20年ほどが経過している旧式艦という状態であり、これらを更新するために大日本帝国は戦後すぐに議会において八八八八艦隊法を成立させ、予算措置を実施する。

八八八八艦隊法は、16int砲以上の主砲を持つ戦艦16隻と巡洋戦艦16隻、空母14隻、軽空母18隻、そしてその他多数の補助艦艇を建造すると言う極めて野心的な計画であり、この計画が完全に遂行された場合、日本海軍は既存の艦と会わせると戦艦30隻、巡洋戦艦30隻を中核とした大艦隊を有する事になる。これは数の上ではイギリス海軍に劣る(イギリス海軍はJ級戦艦4隻、巡洋戦艦4隻、前J級戦艦41隻の合わせて49隻を有している)が質の面ではアメリカを除く全ての列強を周回遅れにするものであった。

191: ホワイトベアー :2019/06/29(土) 23:45:41 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
この計画は従来の従来通り水上艦艇への攻撃能力に特化した重軽巡洋艦や艦隊型駆逐艦などの強力な補助艦艇を整備していく一方、日本海軍が満州戦争で新たに運用した潜水艦に対抗する為の装備を重視した駆逐艦の建造も進めていく事になる。

1906年度の計画では艦隊型駆逐艦としては特型駆逐艦を発展させた甲型艦隊型駆逐艦を、護衛駆逐艦とては新規に設計された丁型護衛駆逐艦の建造が予定される。

甲型駆逐艦の大まかなスペックは基準排水量2,500tと言う当時の駆逐艦としては破格の大きさを誇る船体に、巡航速力(18kt)で5,000海里と言う長い航続能力と、最高速力35ktと言う高い速力を付与し、50口径12.7糎連装速射砲3基、25粍連装機銃2基、61糎四連装魚雷発射管2基、酸素魚雷16本、爆雷投射機1基、装填台1基、爆雷投下台水圧型2基・手動型4基、爆雷 100個と言う敵艦との殴り合いを前提としつつ、ある程度の対潜能力を有する装備を搭載した(建造時期により多少の変更あり)、当時の国際関係やパワーバランスから見ても過剰性能、過剰装備ぎみな駆逐艦であった(例としてあげると同年代の英国の最新鋭駆逐艦は初代F級駆逐艦ことトライバル級駆逐艦である)。

当然、性能が高ければ1隻当たりの建造費も高く、その為、大蔵省からはこの甲型駆逐艦の建造数の削減を要求される事になり、本来なら特型駆逐艦を除く全ての艦隊型駆逐艦(およそ220隻)を更新する予定であったが、最終的には148隻と当初の建造予定数の2/3ほどで建造は打ち切られてしまう。

この事もあって護衛駆逐艦として設計されていた丁型護衛駆逐艦にもある程度の対艦戦闘能力が求められる様になり、結果として基準排水量1,600tと甲型駆逐艦ほどではないが当時の他国の駆逐艦よりも大型化し、装備面でも12.7糎連装速射砲1門、12.7糎単装速射砲1門、25粍三連装機銃4基、25粍単装機銃12基、61糎四連装魚雷発射管1基、対潜弾投射機1基、片舷用爆雷投射機8基、爆雷投下軌条2条、爆雷180個と各国の駆逐艦よりも強力な船になってしまった。

当然、大蔵省は過剰性能だとして装備の削減か調達数の削減を求めるが、海軍は装備、調達数共にこれ以上の削減は無理だしてこれを拒否する。世論も海軍の味方であったため大蔵省もこれ以上の行動はできず、結果として230隻ほどが建造された。

日本海軍は小型艦も充実に整備しており、これらの後継艦の建造も行わなければならなかった。しかし、予算の問題でこれ以上の駆逐艦クラスの建造はさすがに難しかった為、排水量1,000tより少なく、外洋で運用可能かつ船団と共に行動できるように長い航続能力を有し、高い対潜水艦対処能力を有し、コストの安い艦の設計に迫られる。

これによって設計・建造されたのが日本初の海防艦である奄美型海防艦であった。この奄美型海防艦は設計段階から以下に建造コストを下げつつ、高い対潜水艦対処能力を維持するのかを意識していたため、各所の構造が大幅に簡易化、従来の曲面部分を平面化するなど簡略設計がなされている。その結果、基準排水量940tと言う(日本海軍では)極めて小型な船となった。機関には生産が用意な低出力ディーゼル機関を2基搭載し、最高速力は19.5ktと低速な反面、航続距離は14ktで6,500海里と極めて長い。装備は50口径12糎単装高角砲を前後に1基づつ、25粍三連装機銃2基、対潜弾投射機1基、片舷用爆雷投射機12基、爆雷120個であった。あくまでも潜水艦を仮想敵として設計されたこともあって魚雷は一本のつまれておらず、さらに居住性を落とした結果、この規模でこれ程の性能を誇る船が誕生した。

この奄美型海防艦はその性能の高さや調達コストの安さから大量に建造され、WWⅠまでに270隻が建造されることになる。

こうして駆逐艦や海防艦の計画が(海軍内では)スムーズに決まった一方、巡洋艦の計画は大いに荒れる事になる。

満州戦争までの日本海軍の巡洋艦は装甲巡洋艦、重巡洋艦、軽巡洋艦の三種類を有していたが、装甲巡洋艦はその役割を巡洋戦艦に譲る事が内定しており、巡洋艦としての代艦は建造する必要はなかった為、大した問題にはならなかったが、新たに建造する軽巡洋艦の運用方法で海軍内の艦政関係者はいくつかのグループに別れてしまう。

192: ホワイトベアー :2019/06/29(土) 23:48:27 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
日本海軍の軽巡洋艦(防護巡洋艦)は従来は艦隊決戦時に水雷戦隊を率いる旗艦として戦うことを主目的としていた。その為、戦隊の旗艦としての指揮能力は勿論、みずからも水雷戦に加わるため魚雷の発射能力が重視されていた。

しかし、満州戦争での航空機の有用性から更なる性能の向上が見込まれ、わざわざリスクの高い水雷戦を挑むより航空機で一方的に敵艦隊を叩いた方が最終的には被害は少なくすむのではないかという航空機主兵論が大きな支持を得ており、これかは駆逐艦や航空機のみに雷撃戦を任せて、軽巡洋艦は雷装を無くしてその分に対空兵装の増加や指揮能力の向上を行うべきであるという意見が多数出ていた。その一方、水雷屋と呼ばれる人々は、航空機は天候や夜間での障害を克服する能力が不十分であるなどの理由で反論を行い、激しい論争が行われる事になる。どちらの意見も間違えではないだけにこの論争は一向に纏まらず、最終的には水雷戦隊向けの軽巡洋艦として基準排水量7,800tの阿賀野型軽巡洋艦と、雷装をなくし、指揮能力と防空能力を向上させた大淀型軽巡洋艦(基準排水量11,800t)の双方を整備することで決着する。

軽巡洋艦が運用思想のぶつかりあいによって荒れる一方、重巡洋艦の要求仕様の策定は別の理由で遅れる事になる。その理由は重巡洋艦をどの様に運用すべきかを日本海軍自体が決めかねていたからだ。と言うのも、水雷戦隊の指揮統率や艦隊の防空程度なら軽巡洋艦で十分であるし、軽巡洋艦が相手にならない敵に対しては巡洋戦艦で対処すればよいと考えていたからだ。

結局、日本海軍上層部は重巡洋艦を旧来の装甲巡洋艦と同様の運用思想で運用する事を決定、その要求仕様もミニ巡洋戦艦(高速戦艦)と言える内容となった。

この要求の基に鞍馬級重巡洋艦が1910年代より建造されはじめる。この鞍馬級重巡洋艦は基準排水量14,500tと言う前J級戦艦に匹敵する船体を有しており、最大速力35kt、巡航速度なら8,000海里の構造距離を有する事になる。

兵装は20.3糎三連装砲3基、12.7糎連装高角砲6基、40粍4連装機関砲12基、20粍連装機関砲20基と言う強大な兵装と強靭な装甲を有する巡洋艦として完成し、対艦と対空の双方をこなすことができる汎用艦として運用が可能な優秀な重巡洋艦となる。そして、この重巡洋艦が日本海軍の今後建造する全ての巡洋艦の基準となって行く。

満州戦争で新時代の主力としてのポテンシャルを見せた航空母艦の整備も海軍は精力的に進めていく事にいく。

日本海軍初の正規空母であり満州戦争で活躍した蒼龍型航空母艦の設計を発展させた新鋭空母である瑞鶴型航空母艦の建造を開始する。この瑞鶴型はそれまでの日本海軍が得た経験を活かして設計・建造された空母であり、基準排水量45,000t、全長306mと言う巨艦を持ち、飛行甲板には89mmの、舷側にも、20.3センチ砲に抗堪しうる装甲が施される。格納庫は蒼龍型でも採用された開放式を採用する。艦首にはエンクローズド・バウと言う新しい形が採用された。また、本空母の甲板には4基の油圧式カタパルトと9度のアングルド・デッキが採用され、各国の目を引く艦として完成する。

また、日本海軍は船団護衛用の小型空母、俗に言う護衛空母の建造も開始、こちらは瑞鳳級軽空母の設計を基に排水量10,000tほどの艦としてWW1時に日の目を見る事になる。

こうして、水上艦艇の整備が豪華に進んでいく一方、潜水艦の整備も進んでいく事になる。特に日本海軍の仮想敵国は欧州最大最強の海軍国であるイギリス海軍であり、有事の際には彼らの補給網を破壊するべく通称破壊を目的として設計・建造されていく事になり、第一次世界大戦が勃発する頃には100隻近い潜水艦を運用していた。これらの潜水艦は史実の反省から騒音防止対策にも力が入れられており、建造には電気溶接が施されるなど圧倒的な技術が使われる事になる。

当然、これらを完遂するには膨大な金が必要であったが、この時の日本は内需の拡大や、満州を自らの勢力圏に入れられたことのよって景気は拡大しており、経済成長を続けながらの軍備拡大も問題なく継続できたのであった。

この一連の軍備再編成により日本軍は新たな時代の戦争に対応できる体制を構築した状態で大戦を迎える事になる。

193: ホワイトベアー :2019/06/29(土) 23:54:10 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
以上になます。wikiへの転載はOKです。

今回は閑話として日本の軍備みついて書かせていただきました。次回は青年トルコ人革命と伊土戦争を書く予定ですが、予定は未定と言う言葉もあり別の話になるかもしれません。

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最終更新:2019年07月09日 10:27