241: 透過の人 :2019/06/30(日) 23:02:37 HOST:softbank126077075064.bbtec.net
日墨ルート
1911年に勃発した辛亥革命において、列強各国が清と革命派に分かれてそれぞれを支援を表明する一方で、北アフリカでは新たな問題が起こっていた。
日露戦争後、経済が悪化しつつあったイタリアでオスマン領土であるトリポリタニア領有論が囁かれはじめたからである。
1911年9月29日、イタリアがオスマン帝国に宣戦布告するとドイツを除く列強各国は中国大陸から注意をそらすためのドイツの策謀ではないか、と疑ったが実際にはイタリアの国内問題に起因した完全な暴走だった(注1)。
この戦争に際し、隣国エジプト王国はオスマン軍に領内通行権を与えるとともに自らも義勇軍を派遣した。
この義勇軍は日本から給与された村田式22年式連発銃(注2)を装備しており、イタリア軍とも互角に戦うことが出来た。
また、辛亥革命に関しては動けなかったフランスやイタリアと対立するオーストリアも武器弾薬をオスマン側に給与している。
戦場ではイタリア軍が投入した装甲車や航空機に対して、それを上回る性能を持つオスマン軍、エジプト義勇軍両軍の航空機が投入された(注3)。
こうした、オスマン側の反撃によってイタリア軍の短期決戦という作戦は見事に瓦解し、元々反戦的だったイタリア社会党を中心にイタリア国内では政治的混乱が巻き起こっていった。
イタリア軍は反撃の為にオスマン本土の諸都市をイタリア海軍が砲撃することでオスマン側の動揺を誘おうとし、ベイルート砲撃の為に出撃したが、逆に戦艦アブデュル・カーディル(注4)を中心とした艦隊によって無視できない損害を負ってしまい、事実上失敗した。
こうして、伊土戦争はイタリアにとって何も得るものもないまま終結した。
こうして、伊土戦争は終わったが中国では依然として激しい戦火が燃え広がっていた。
もっとも激しかったのが革命派と清軍の戦いだったのは言うまでもないが、革命派内部での対立も多々あった(注5)。そんな中で、アメリカとイギリス双方からの支援を受けた一人の男が頭角を表す。彼の名は孫文、後に中華民国総統になる男だった。
孫文は帰還後早速、その支援を背景に権力の掌握を進めるとともに、三民主義を軸にした新政権の樹立を宣言しバラバラだった諸政権をまとめ上げて中華民国の建国を宣言し、清朝との決戦に備えた。
一方、清朝の側もドイツ、ロシアからさらなる支援を募り、中華民国との決戦に備えるも、清朝はあっけなく瓦解する事になる。

支援国たる列強同士の戦争、第一次世界大戦が始まったからである。

注1このため戦後トルコは英仏側にすり寄ることになる。
注2史実99式小銃相当の銃だが高価すぎてあまり数が作られなかった。
注3基本的に日本から売られた民間機を武装化したものだが、イギリス、フランス、オーストリア、ドイツなど各国から買い入れた軍用機もあった。
注4海外の戦艦で初めて日本式設計を取り入れた戦艦であり、オスマン朝初の12インチ砲搭載艦。
注5大体はどこの軍(軍閥)が支援を多くもらうか、で揉めており、黄興らはこれを収めようと努力していたが、それより先にこれらの争いに辟易した英米が黄興らを見限り、半ば失脚していた孫文を共通した指導者して支援することに決めた。

242: 透過の人 :2019/06/30(日) 23:05:05 HOST:softbank126077075064.bbtec.net
投下終了です。伊土戦争と中華の内乱話ばかりになってしまった。…

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最終更新:2019年07月09日 10:29