262 : ホワイトベアー sage 2023/01/17(火) 21:32:02
日米枢軸ネタ 第22話改訂版

満州戦争が終結した直後の大日本帝国海軍は戦艦36隻、航空母艦16隻、装甲巡洋艦44隻を主力艦として保有する世界最大最強の海軍であった。

しかし、満州戦争後のロシア帝国は満州戦争初期に文字通り全滅させられた太平洋艦隊の再建事実上不可能であった。
次いで日本の仮想敵国足りうるイギリスも欧州での建艦競争によってアジアに大規模な海軍力を貼り付ける余裕はなくなっていた。

東アジアにおける軍事バランスは大きく日本に傾いたのだ。
アジアにおける軍事的脅威が事実上消失した日本政府ならび議会は、欧州で活発化していた建艦競争のことを勘案しても現状ほどの海軍力は不要だと判断。海軍にも陸軍と同様に大規模な軍縮を行うよう指示する。

日本は民主主義国家であり文民統制を原則としている。如何に高い国民人気を誇る海軍と云えども、文民側の要求を拒否することは許されない。
政治家達の指示を受けた海軍省は、単一巨砲型戦艦や単一巨砲型装甲巡洋艦(巡洋戦艦)の登場によって陳腐化していた既存の戦艦24隻と装甲巡洋艦32隻を中心とした戦力的価値が低い約600隻の旧式艦艇を退役させることを検討する。
海軍省側の案は大規模な艦艇の退役はそのインパクトの高さから政治家達からの受けはよかった。
しかし、海軍内、特に軍令部では海軍省の軍縮案に反対の声が上がった。

ただの艦艇更新であれば問題はなかった。
何しろ退役が検討されていた艦艇はどれもが艦齢30年を超える老朽艦艇だ。

運用を継続するには大規模な再整備と近代化改修が必要になるが、たとえ大規模な近代化改修を施したとしても投じた予算以下の働きしか望めず、多額の予算をかける価値はすでにない。
それならばさっさと退役させ、戦力的に価値のある代艦を整備したいと海軍が望むのはあたりまえのことだろう。

だが本格的かつ大規模な軍縮の中での退役となると話は別である。何しろ退役させた艦艇の代艦の整備は困難となることは想像に難くない。
それはすなわち海軍内で大量のポストが減ってしまうことを意味している。
官僚組織たる海軍にとっては文字通り死活問題だ。

陸軍では満州戦争での失態で隙をみせた【旧諸藩派】に軍縮によるダメージを押し付けたため、こうした反発の声を無視して軍縮を行えたが、海軍ではそうはいかない。

何しろ海軍は夢幻会も属する〘旧幕府派〙のほぼ一強状態である。
今回の退役リストに乗っている戦艦や装甲巡洋艦といった主力艦の艦長や各科の長なども旧幕府派の人間が多数を占めていた。
当時の日本海軍は戦艦4隻で戦隊を、装甲巡洋艦4隻で巡洋戦隊を構成していたことからこれらの戦隊の司令官及び幕僚等戦隊司令部要員のポストに座る人間も〘旧幕府派〙に属している人間が多い。
つまり主力艦艇だけでも6個の戦隊司令官(准将職)と8個の巡洋戦隊司令官(准将職)及び14個戦隊司令部要員、56個の主力艦艦長(大佐職)と各科の長のポストが消え、これらに就いていた〘旧幕府派〙の人間が最悪海軍を叩き出されることになるのだ。

当然、退役予定艦艇は主力艦よりも巡洋艦や駆逐艦、潜水艦などの補助艦艇の方が多い。これらの艦艇にも艦長や各科の長などが存在し、退役予定艦を麾下におくがゆえに解体が検討されている水雷戦隊や潜水艦戦隊等にも司令官や戦隊司令部要員もいる。

一応は新設される統合輸送本部の主要ポストを海軍の人間で独占するなどかわりとなるポストを一定数確保していた。
それでも全体としてみれば焼け石に水でしかなかいのが実情であった。

このような状態で文民に言われるがまま自派閥の人間が就いているポストの削減を了承しようものなら、〘旧幕府派〙が海軍内で派閥を維持することが不可能になってしまうのは子供でもわかる。

政府や議会内の〘旧幕府派〙としても、いくら組織が違うと言っても敵対派閥の人間ならともかく(一応は)同じ派閥に所属する人間のポストを一方的かつ大規模に削ることははっきり言って派閥の統制上あまりよろしくない。

国民世論も海軍の削減に否定的な意見が体勢を占めていた。
何しろ海軍は開国後に日本が参戦した全ての戦争において赫赫(かっかく)たる戦果を上てきた。
現在の日本の地位を確立した功労者であるがゆえに国民の好感度が高く、さらに欧州での苛烈な建艦競争に対して危機感を抱く人間も多くいた。
そうした状況で海軍の軍縮を行うことは、国民の目線からしたら余り望ましいものではなかったのだ。

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263 : ホワイトベアー sage 2023/01/17(火) 21:32:37
海軍内政治や他の組織を跨った派閥内政治、さらには民主主義国家では最も力を持つ国民の世論への対応など様々な思惑が交錯した結果、政府や議会は旧式艦艇を軒並み退役させることには変わりないが、一定数の代艦建造や部隊の維持を認める。

それでも満州戦争の戦訓や軍全体の組織改革、それに従来よりも軍備が削減されることもあって組織改革は容赦なく行われた。

満州戦争集結時の日本海軍は、保有する艦艇を艦隊総軍隷下の7つの常備艦隊と海上輸送総隊、各地方隊の指揮下にある14つの警備艦隊に分け運用していた。
さらに海兵隊を海兵隊陸戦総軍が、基地航空隊を航空総軍が、各地の海軍基地を各地方隊が管轄。

平時から大西洋や地中海地域に展開する全ての部隊の上級部隊として機能していた大西洋艦隊や地中海艦隊といった例外こそあれど、基本的に艦隊総軍と地方隊、海上輸送総隊、航空総軍、海兵隊陸戦総軍は平時は独立した指揮系統の下に運用されていた。

しかし、満州戦争後になると平時からこれらの部隊を統合的に運用する必要性が認識される。
軍縮による総戦力の低下を補うためにも戦力運用の合理化は必須であり、大西洋艦隊や地中海艦隊をモデルに本国艦隊(日本本国周辺海域)、太平洋艦隊(本国艦隊管轄外の太平洋海域)、インド洋艦隊(インド洋全域)の3つの地域艦隊が管轄地域に展開する全ての海軍軍令部隷下にある部隊の上級部隊として新設された。
また、海上輸送総隊は海軍艦艇への補給等を担当する戦闘兵站部隊以外の部隊の指揮権が軍令部から統合輸送本部に移転。
艦隊総軍、航空総軍、海兵隊陸戦総軍は隷下部隊の育成・訓練を管轄し、必要に応じてフォース・ユーザーたる各地域艦隊(の隷下部隊)に戦力を提供するフォース・プロバイダーとして再編が行われた。

地域艦隊の新設および3つの総軍の改編と合わせる形で、各地方隊の指揮下にあった警備艦隊と艦隊総軍の指揮下にあった常備艦隊は
各地域艦隊の隷下におかれる序数艦隊へと改編される。

地域艦隊の新設や序数艦隊への改編と同時に艦隊の編成にも変更が加えられた。
これまでの日本海軍の艦隊構成は戦時・平時を問わずタイプ編成をその基本としていた。
具体的に言えば艦隊編成は艦隊ー戦隊ー大中型艦艇(主力艦・巡洋艦等)or隊ー小型艦艇(駆逐艦・フリゲート・潜水艦等)といった形を採用していたのだ。
しかし、今回の軍縮によってその規模の縮小を余儀なくされた日本海軍は、柔軟に編成を変更可能とすることで戦力の縮小を補おうとタスク編成を導入。
艦隊ー任務部隊ー任務群ー直轄艦or戦隊or隊ー艦艇といった形にその艦隊編成を変更する。


戦力の配置も大きく見直された。

満州戦争が終結した1905年時点で日本海軍は太平洋地域にその主力を配置しつつも、地中海に戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻、防護巡洋艦10隻、駆逐艦32隻、通報艦6隻を主戦力とした地中海艦隊を、アメリカ東海岸に戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻、軽巡洋艦4隻、防護巡洋艦10隻、駆逐艦48隻、その他48隻からなる大西洋艦隊を駐留・展開させていた。

これらの艦隊に属する艦艇は基本的にどれもが今回の軍縮において退役対象である旧式艦艇で、本国から派遣されてきた艦艇と入れ替わる形で順次本土に回航することになった。
ただ、軍縮の影響もあって本国に回航する艦艇よりも本国から派遣されてくる艦艇の方が少なく、1908年までに地中海艦隊は戦艦4隻、重巡洋艦2隻、軽空母2隻、軽巡洋艦5隻、駆逐艦16隻、潜水艦6隻、その他艦艇12隻の計47隻、
大西洋艦隊は巡洋戦艦4隻、重巡洋艦8隻、空母4隻、軽巡洋艦6隻、駆逐艦40隻、潜水艦12隻、その他艦艇26隻の計100隻にまでその規模を縮小させてしまう。

当時の欧州では猛烈な建艦競争が行われていた。
そのような状況で大西洋艦隊と地中海艦隊の縮小を実施することは、両海域及びその周辺地域における日本のプレゼンテーションの大規模な低下を招くと多くの人々が懸念した。

この懸念を払拭するために日本海軍は数の低下を質で補うべく16インチ砲搭載戦艦(巡洋戦艦)を中核とした強力な艦艇達はアメリカ東海岸や地中海へと派遣される。

さらに満州戦争によって航空機が大々的に世界に公開されたことで、機密保持に気をつかう必要がなくなった日本軍航空戦力の世界的な展開を満州戦争終結後に開始。
地中海や米東海岸にも日本陸海軍の航空部隊が進出したことも合わさり総合的な戦力は再編前よりも大きく向上する。

これらの組織改編や戦力配置の見直しは、海軍全体の効率化と合理化を図るのと同時に軍縮によって失われることになったポストに変わる新ポストの創設という意図もあった。
そのため海軍の大規模な改革と再編は官僚組織としては異様な程に抵抗なく受け入れられ、積極的かつ迅速に実施されていった。

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264 : ホワイトベアー sage 2023/01/17(火) 21:33:23
組織改編と同時に退役が決定された艦艇群の代艦整備に関する措置も行なわれることになる。

帝国軍再編計画が開始された1908年には代艦整備に関する予算措置を定めた〘1908年度海軍補充法〙が、1912年には〘1912年度海軍補充法〙が帝国議会を通過した。

2つの海軍補充法では新規の戦艦や巡洋戦艦等の建造は認められなかった。
一方、満州戦争においてその価値を示した航空戦力の拡充は認められ、新たに14隻の正規空母と8隻の軽空母、その護衛・支援のための多数の補助艦艇及び航空機の整備が行われる。

〘1908年度海軍補充法〙において日本海軍は満州戦争でも活躍した37,000トン級の『蒼龍型航空母艦』を新たに4隻、新鋭軽巡洋艦として整備が決定した『大淀型軽巡洋艦』の船体設計を流用する形で新たに設計された
基準排水量15,000トン、搭載機数約50機の『御嶽型航空母艦』を2隻建造することが認められる。
〘1912年度海軍補充法〙が成立するとさらに2隻の『蒼龍型航空母艦』と4隻の『御嶽型航空母艦』、そして8隻の『瑞鶴型航空母艦』の建造に着手する。

『瑞鶴型航空母艦』は基準排水量64,000トン、全長330mを誇る超大型空母で、『蒼龍型航空母艦』『鳳祥型改装空母』『御嶽型航空母艦』の設計・建造・運用で日本海軍が得た知見を活かして設計・建造された。
『瑞鶴型航空母艦』の船内には蒼龍型などでも採用されていた開放式の航空機格納庫が設けられていた。
艦首にはエンクローズド・バウと言う新しい形を採用、甲板には4基の蒸気式カタパルトを装備するのと同時にジェット機の運用も見越してアングルド・デッキなどが採用されている。
また、飛行甲板には89mmの、舷側には20.3センチ砲に抗堪しうる装甲が施され、装甲空母と呼ぶにふさわしい防御性能が与えられていた。

艦隊型駆逐艦としては満州戦争で活躍した特型駆逐艦を発展させた『甲型駆逐艦』の整備が計画された。
さらに満州戦争後に欧州列強でも整備が進められていた潜水艦の脅威に対抗するため、護衛駆逐艦という新たな艦種とて設計された『丁型護衛駆逐艦』の建造も決定。
対空誘導弾を持つ次世代の防空艦のプロトタイプである『乙型駆逐艦』の整備も海軍補充法では行われた。

『甲型駆逐艦』は基準排水量2,750トンと言う当時の駆逐艦としては破格の大きさを誇る。

兵装として敵艦や敵航空機との殴り合いを前提としつつある程度の対潜戦闘も可能な重武装が施されていた。

武装は54口径12.7cm単装速射砲3基、50口径76mm連装速射砲2基、92式対潜迫撃砲2基533mm四連装魚雷発射管1基、爆雷投下軌条×1条を搭載。
電子兵装として3式射撃指揮装置、2式水中攻撃指揮装置、95式射撃指揮装置、6式対空捜索用電探、3式対水上捜索用電探、4式音波水中探知機等を装備する。

巡航速力(20kt)で4,500海里と言う長い航続能力と最高速力34ktと言う高い速力を発揮できる、はっきり言えば当時の国際関係やパワーバランスから見ても過剰ぎみな能力を有する駆逐艦であった。
(例としてあげると同年代の英国の最新鋭駆逐艦は史実アドミラルティV級相当のものであった)。

性能が高ければ1隻当たりの建造費も高くなる。その為、帝国議会軍事委員会からはこの『甲型駆逐艦』の建造数の縮小を要求されてしまい、本来なら96隻の建造を予定していたが予算が認められたのは64隻と当初の建造予定数の2/3ほどにまで建造数を削減されてしまう。
(この背景には初代あきづき型護衛艦相当の艦隊型駆逐艦を3桁隻保有していたことも大きかったが)

艦隊型駆逐艦の調達数削減により、護衛駆逐艦として設計されていた『丁型護衛駆逐艦』にもある程度の対艦戦闘能力が求められた。
結果、護衛駆逐艦でありながら基準排水量1,700トンと当時の他国の駆逐艦より一回り巨大であるまで大型化してしまう。
装備面でも37口径12.7mm単装速射砲2基、56口径40mm連装機関砲2基、70口径20mm単装機関砲20基、533mm糎三連装魚雷発射管1基、92式対潜迫撃砲1基、片舷用爆雷投射機8基、爆雷投下軌条2条を武装として搭載。
電子兵装として90式射撃指揮装置、93式水中攻撃指揮装置、98式対空捜索用電探、3式対水上捜索用電探、96式音波水中探知機と護衛駆逐艦とが名ばかりで各国の駆逐艦と同程度、あるは上回るの戦闘力を持つ強力な艦艇として仕上がった。

当然、帝国議会両院軍事委員会は本艦の性能は過剰だとして装備の削減か調達数の削減を求め、海軍も建造数の削減を受け入れたことで〘1908年度海軍補充法〙と〘1912年度海軍補充法〙における調達数は当初計画されていた200隻から120隻まで削減されてしまった。

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265 : ホワイトベアー sage 2023/01/17(火) 21:33:56
『乙型駆逐艦』は史実チャールズ・F・アダムズ級ミサイル駆逐艦をそのモデルに甲型駆逐艦の設計を発展させる形で設計された防空駆逐艦である。
本型は他の駆逐艦とは違い、ミサイル駆逐艦のプロトタイプ兼運用ノウハウの獲得を目的とした実験艦として整備が計画された。
そのため建造数も18隻と『甲型駆逐艦』や『丁型護衛駆逐艦』より遥かに少ない数に抑えられた。
あくまでも少数(当国比)しか計画されなかったため、2クラスと違い本型の建造予算は帝国議会軍事委員会より無事全額が認められる。

日本海軍は小型艦も大量に整備してきた。そのため〘1908年度・1912年度海軍補充法〙ではこれらの後継艦の建造も盛り込まれていた。
しかし、予算の問題でこれ以上の駆逐艦クラスの軍艦を建造するはさすがに難しかった為、外洋で運用可能かつ船団と共に行動できるように長い航続能力と高い対潜水艦対処能力を有し、コストの安い艦の設計を迫られる。

これを受けて丁型護衛駆逐艦と装備を共通化しつつ、値段のかさむ魚雷を取り除き、商船構造を採用することで建造コストを大きく低下させた『佐渡型巡防艦』と日本初の海防艦である『奄美型海防艦』が設計・建造される。

『奄美型海防艦』は設計段階から以下に建造コストを削減しつつ、高い対潜水艦対処能力を維持するのかを念頭に設計された基準排水量940トンと言う(日本海軍では)極めて小型化に成功した日本海軍初の近代コルベットである。
兵装は最小限に収められ、各所の構造を大幅に簡易化、居住性などを任務に直接影響を及ぼさない性能を極限まで削ぎ落とし、従来の曲面部分を平面化するなど簡略設計が施された。
船団護衛に従事する護衛艦艇であるため速力が求められなかったため、機関には生産が容易な低出力ディーゼル機関を2基搭載する。
最高速力は19.5ノットと低速な反面、航続距離は16ノットで5,000海里と長く確保されていた。

兵装としては37口径12.7mm単装速射砲を前後に1基づつ搭載している他、56口径40mm連装砲を2基、70口径20mm単装機関砲を6基、92式対潜迫撃砲1基、片舷用爆雷投射機10基、爆雷投下軌条1条を備える。
電子兵装としては3式砲射撃指揮装置、96式音波水中探知機、93式水中攻撃指揮装置を装備するなど対艦・防空能力を最低限に抑え、対潜戦闘を主眼においた構成となっていた。

しかし、〘1908年度海軍補充法〙では『甲型駆逐艦』や『乙型駆逐艦』、『丁型護衛駆逐艦』など高価な大型駆逐艦の整備に予算が優先されてしまい、『佐渡型巡防艦』は8隻、『奄美型海防艦』は17隻とその調達数は大きく抑えられた。
〘1912年度海軍補充法〙でも『佐渡型巡防艦』は6隻、『奄美型海防艦』は29隻とあくまでも少数しか整備がされず、巡防艦や海防艦といった低コスト艦たる艦種が大量に建造されるのは世界大戦勃発による護衛艦艇の需要拡大を待たなければならない。

駆逐艦や海防艦に関するあれこれが(海軍内では)スムーズに決まった一方、巡洋艦に関してはそうはいかなかった。

満州戦争までの日本海軍は装甲巡洋艦、重巡洋艦、軽巡洋艦の三種類の巡洋艦を運用していた。
このうち装甲巡洋艦はその役割を巡洋戦艦に譲り、巡洋艦としての代艦は建造する必要はなかったため大した問題にはならずに済む。
しかし、これからも長期間の運用が見込まれる重巡洋艦や軽巡洋艦はそうはいかない。
これらの運用方法や仕様要求を巡ってで海軍内の艦政関係者と用兵側がいくつかのグループに別れて対立しあう事態にまで発展してしまう。

とくに次期軽巡洋艦を巡っては荒れるに荒れた。
日本海軍では軽巡洋艦を艦隊決戦時に水雷戦隊を率いる旗艦として運用しており、駆逐艦を率いて敵艦隊に切り込むという役割上軽巡洋艦には戦隊の旗艦としての指揮能力は勿論、一定以上の対艦能力も求められていた。

しかし、満州戦争によって航空機のみで艦隊を撃破することが可能であると実証されると、軍令部内では
「わざわざリスクの高い水雷戦を挑むより航空機で一方的に敵艦隊を叩いた方が最終的には被害は少なくすむのではないか」
という考えが台頭。
対艦戦は駆逐艦や航空機に任せて、軽巡洋艦は雷装を無くして対空兵装の増加や指揮能力の向上を行うべきであるという意見が海軍軍令部や艦政本部の主流となってしまう。

その一方、水雷屋と呼ばれる海軍軍人たちを中心に現場に近い人間達は航空機は天候や夜間での障害を克服する能力が不十分であるとして軍令部や艦政本部の意見に猛烈に反対。
海軍内では軽巡洋艦の要求仕様を巡って現場と軍令の間で激しい論争が行われことになる。

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266 : ホワイトベアー sage 2023/01/17(火) 21:34:28
どちらの意見も間違えではないだけにこの論争はなかなか纏まらず、軽巡洋艦の仕様策定は遅れに遅れることになった。
最終的には最新の艦隊型駆逐艦たる『甲型駆逐艦』が雷装を最小限に抑えて防空能力を優先させることとなったため、軽巡洋艦においても指揮能力と防空能力を向上させた和製ウースター級と言える『大淀型軽巡洋艦』を整備することで決着を迎えることになった。

『大淀型軽巡洋艦』とは別に、日本海軍はミサイル巡洋艦のプロトタイプとして6,100トン級巡洋艦である『最上型軽巡洋艦』を4隻整備することも認められ、〘1912年度海軍補充法〙の成立後に建造が開始される。

軽巡洋艦が運用思想のぶつかりあいによって荒れる一方、重巡洋艦の要求仕様の策定は別の理由で遅れてしまった。
その理由とは何か、それは重巡洋艦をどの様に運用すべきかを日本海軍自体が決めかねていたことだ。

と言うのも、当時の日本海軍からしたら水雷戦隊の指揮統率や艦隊の防空程度なら軽巡洋艦で十分である。
巡洋戦艦や装甲巡洋艦などの軽巡洋艦が相手にならない敵に対しては空母艦載機や巡洋戦艦で対処すればよい。

このため、言い方はあれだが日本海軍は中途半端な性能にならざるを得ない重巡洋艦をどのように運用するべきかから決める必要があったのだ。

軍内ではあーでもないこうでもないと長々と会議を踊らせることになった
最終的にはポストの兼ねないや削減される水上打撃戦力の代替として、重巡洋艦を旧来の装甲巡洋艦と同様の運用思想で運用することが半ば妥協的に決定される。

新たに定められた重巡洋艦の運用方針もあって、策定された新型重巡洋艦の仕様要求はミニ巡洋戦艦(高速戦艦)と言える内容で纏まった。
日本海軍はこの要求に基づいて設計された『伊吹型重巡洋艦』を、〘1908年度・1912年度海軍補充法〙で14隻建造することになる。

『伊吹型重巡洋艦』は両洋艦隊計画で整備された『筑波型重巡洋艦』を拡大改良する形で設計された和製デモイン級と言うべき重巡洋艦で、基準排水量約17,300トンと言う旧式戦艦を凌駕する船体規模を誇り、35ノットという高速と最大航続距離10,500海里と足の長さも備えていた。
兵装は自動装填装置を装備し限定的ながら対空射撃も可能とした55口径20.3cm三連装砲を主砲として3基9門搭載する他、
副兵装として6基の38口径12.7cm連装高角砲と12基の50口径76cm連装速射砲を、
対空兵装として12基の70口径20mm連装機関砲を装備。
防御性能も日本海軍が建造してきた巡洋艦の中でも最高峰のもの与えられ、極めて強力な重巡洋艦として完成した。

〘1908年度海軍補充法〙では計26隻の呂-1500型潜水艦の建造が認められるなど、水上艦艇の整備が豪華に進んでいくのと同時並行で潜水艦戦力の整備も進められた。

潜水艦整備の一環として海軍省、陸軍省、国家エネルギー省、国立理化学研究所、国立知床研究所の合同プロジェクトであるNE計画によって実用化に成功した原子力発電機関を動力源とした原子力潜水艦の建造も認められた。
1908年から1917年までの約9年間で日本海軍では帝国議会軍事委員会の了承の下で実験/技術検証のために6隻の攻撃型原子力潜水艦の整備がおこなわる。

政府無いではSSBMを搭載した戦略型原子力潜水艦の整備も検討され、最終的には核戦力の整備は未だに時期尚早として大規模な戦略型原子力潜水艦の整備は退けられる。
しかし、ノウハウを確率するためには実際に建造して運用してみることが一番効率的なことには変わりない。
政府もそのことは理解していたため、技術実験艦として通常弾頭型の潜水艦発射弾道弾を備える3隻の6,400 トン級SSBM搭載型原子力潜水艦の整備も攻撃型原子力潜水艦の整備とともに承認された(中1隻は建造中に特殊作戦支援潜水艦に改装されたが)。

これらの強大な戦闘艦艇を後方から支える支援艦艇の建造も認められ、補給艦や潜水艦母艦、掃海艦なども多数整備されることになる

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267 : ホワイトベアー sage 2023/01/17(火) 21:35:15
航空機についてだが、満州戦争において海軍は空母艦載機として史実F4Uを基に三菱重工が開発した0式艦上戦闘機と史実A-1を基に倉崎重工が開発した2式艦上攻撃機、史実SB2C相当の2式艦上爆撃機を運用していた。

しかし、陸軍と同様にレシプロ機をすでに成熟した技術と見していた海軍は満州戦争前からジェット機の研究・開発に力を入れていた。
西暦1908年には全長12.22 mというレシプロ機並みの大きさでありながら、最大推力として41kNを発揮できるKT−5ターボジェットエンジンを搭載することで、最大で4,490 kgまでの兵装を搭載可能な積載量と軽快な運動性と高い機動性を実現。
さらに完成度の高さと簡潔さを併せ持つ機体設計によって高い信頼性・整備性・経済性も兼ね備えた8式艦上戦闘攻撃機の配備が開始される。
『1912年海軍補充法』が成立すると瑞鶴級航空母艦の搭載機として10式艦上戦闘機の大規模調達が認められるなど航空戦力のジェット化を急速にすすめることができた。

欧州列強で航空戦力や潜水艦戦力の整備が進められていたことを受け、日本海軍はこれらの脅威から艦隊をより効率的に守るために、
双発機という従来の艦載機よりも遥かに大きな機体に大型の円盤型レドームと種多様な電子機器を搭載し、対空警戒・監視を行なえる12式艦上早期警戒機や、
磁気探知機や水上監視レーダーを搭載し、機外に複数のソノブイを装備可能なステーションを、胴体底面には爆雷や対潜誘導魚雷を搭載可能な爆弾倉を備えることで単機で潜水艦の探索から対潜攻撃までを行える8式艦上哨戒機などの支援用航空機の整備にも力を入れていた。

8式艦上攻撃機を除くジェット航空機はその大きさから、日本海軍航空母艦の数的主力を担う蒼龍型航空母艦や御嶽型航空母艦、鳳祥型改装空母には搭載することが難しかった。
そのためこれらは瑞鶴型航空母艦の搭載機として調達数は抑えられたが、それでも1908年度海軍補充法と1912年度海軍補充法によって日本海軍空母航空戦力は数・質ともに大きく向上することになる

基地航空隊としてもジェットエンジンを有した超大型大陸間戦略爆撃機である10式戦略爆撃機や史実P-3に相当する12式対潜哨戒機、史実U-2相当の7式高高度戦術偵察機の調達が小規模ながら1912年海軍補充法によって開始された。
また、海軍は捜索救難やトンボ釣り 、航空救急、射弾観測、連絡輸送、偵察、対潜哨戒などの多様な任務を行える艦上ヘリコプターとして12式回転翼多目的機の、
対潜戦の任務での使用を主としつつ、対艦攻撃、捜索救難、兵員輸送、通信、要人輸送、早期警戒など様々な用途にも使用することも可能な11式艦上回転翼哨戒機の調達も開始かいしされるなど固定翼機とは別にヘリコプター戦力の整備も開始されていった。

当然、これらを完遂するには膨大な予算が必要であったが、この時の日本は内需の拡大や北米市場の発展、満州を自らの勢力圏に入れられたことによる景気の拡大によって経済成長を続けながら実施することができた。

この一連の軍備再編成により日本軍は新たな時代の戦争に対応できる体制を構築した状態で大戦を迎える事になる。

1908年度・1912年度海軍補充法
主要戦闘艦艇 一覧

瑞鶴型航空母艦  8隻
蒼龍型航空母艦  6隻
御嶽型航空母艦  8隻
伊吹型重巡洋艦 14隻
最上型軽巡洋艦  4隻
大淀型軽巡洋艦 27隻
乙型駆逐艦   12隻
甲型駆逐艦   64隻
丁型駆逐艦  120隻
佐渡型巡防艦  14隻
奄美型海防艦  36隻
攻撃型原子力潜水艦 6隻
SSBM搭載型原子力潜水艦 3隻
呂-1500型潜水艦 26隻

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最終更新:2023年06月23日 22:52