300 : ホワイトベアー sage 2023/01/18(水) 21:44:15
日米枢軸ルート 23話改訂版

《青年トルコ人革命とボスニア危機》
1908年、満州戦争終結から3年の月日が流れ、日本では本格的な軍備の再編が開始された頃、中東アジアと欧州の中間に位置するオスマン帝国では親ドイツ派の青年将校達が中心となってバルカン半島各地の都市で武装蜂起を決行、
後に青年トルコ人革命と呼ばれる軍事クーデターが発生した。

これを受けたアブデュルハミト2世は軍に対して即座に鎮圧を命じ、オスマン帝国各地から日本式の教育を受け、日本製の装備を装備したオスマン帝国正規軍がバルカン半島に派遣される。

これらの部隊は日本式の訓練を受けているだけあって史実の様に様に反乱軍に寝入る事はなかったが、それでもドイツ式の教育を受けた青年将校を中心とする反乱軍が決死の様相で抵抗したことから反乱の鎮圧には多大な時間と労力がかかってしまい、
オスマン帝国のバルカン領では反乱軍と正規軍の間で血で血を洗う戦闘が繰り広げられていくことになった。

最終的にこの反乱は日本製の兵器を装備するオスマン帝国軍正規軍の勝利に終わるが、結果としてオスマン帝国のバルカン半島におけるプレゼンテーションは大幅な低下を余儀なくされ、
この後、バルカン半島のオスマン帝国領では混乱が続いていくことになるが、それでも史実のように政治や経済の中心たるアナトリア半島へ混乱が普及することは避けられた。

この一連の革命の影響がボスニア・ヘルツェゴビナに現れるのを恐れたオーストリア・ハンガリー帝国は革命の混乱を利用してボスニア・ヘルツェゴビナの早期併合を行う事を決定する。
これは事前に日本の仲介の下行われた交渉で相応の金額をオーストリア・ハンガリー帝国がオスマン帝国に支払いオスマン側の了承を得ていたために平和下に行われ、住民にとっても大きな変更は生じなかった。
だが、この併合にボスニアを狙うセルビア(およびモンテネグロ)が猛反発を示したため、オーストリアはこれをきっかけにセルビアと戦端を開き、かねてよりロシアと計画していた同国の分割を実行に移し二重帝国における「バルカン問題」を一気に解決しようと動き出す。

しかし、オーストラリア・ハンガリー帝国の動きは英仏日がロシアのボスポラス=ダーダネルス海峡の通航権を承認しなかった為に史実同様ロシアと結ばれた密約を果たすことができず画餅に帰してしまった。

それどころかロシア国内ではセルビアに同情的な世論が高まり、ロシアは満州戦争後の軍の再建も終わっていない状況でありながらバルカン方面での南下政策にとって重要な同盟国であるセルビアの意向に応え、
パン・スラヴ主義の建前に立ち戻りオーストリアに対し強硬な態度を示したことでオーストリア・ハンガリー帝国はセルビアのバックについたロシアとの間で併合宣言後の約半年間にわたって開戦が危ぶまれる外交危機(ボスニア危機)が続くことになる。

その後、オーストリアが開戦準備が万端ではないとして開戦を断念したことや、オーストリアの同盟国であるドイツがロシアに圧力をかけた事によってオーストリア・ロシア間でセルビアを黙らせるという妥協案が成立、
欧州での戦争の危機は終息に向かっていく。

こうして、欧州での戦争の危機は去り、欧州で続く永遠ならざる平和は続くことになる。

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301 : ホワイトベアー sage 2023/01/18(水) 21:46:13
《朝鮮独立と辛亥革命》

西暦1910年3月13日 史実なら立憲国民党が結党したこの日、朝鮮戦争終結15周年を祝う式典が日米連合軍総司令部のおかれている漢城で開かれる事になる。
この式典には日米や対戦国であった清は勿論、イギリス・フランス・ドイツ・ロシアなど周辺国や中国に利権を持つ列強からも参加者が出席し、盛大な式典となった。

その式典の最後に日米連合軍朝鮮司令部司令官を務めていたジョージ・デューイ大元帥は、段階的に朝鮮半島における日米連合軍朝鮮司令部の権限を朝鮮自治政府に移行させ、
最終的には朝鮮戦争終結20周年を迎える西暦1915年までに朝鮮半島の独立を完全に回復させることを宣言、これはすでに日本外務省とアメリカ国務省が欧州列強各国に根回ししていた事もあって各国もこれに歓迎の声で答えた。

もっとも、朝鮮の独立を回復させると言っても朝鮮戦争前に朝鮮に暮らしていた住民の大半は戦争終結直後に清国に追い出されており、この頃の朝鮮半島の住民はその大半がアメリカや日本から移住してきた人間が占めていたことや、
独立後の参政権が朝鮮国籍に合わせて日米どちらかの国籍を有する者に限定されることを知っていた欧州列強はこの独立の回復そのものが日米による茶番劇でしかなく、その実態は依然として日米の植民地状態が維持されることなどわかりきっていていた。

それでもこうした日米の動きは彼らの目がアジアに向いてくれることを意味しており、欧州におけるこれ以上の日本の影響力拡大を望まない欧州列強は大いにこの独立を歓迎した。
また、この一見すると植民地解放とも言える日米の行動は“自称”進歩的知識人達からも称賛されることになる。

満州戦争終結から朝鮮半島は日米連合軍の軍政下のもとで日米からの資本や移民によって戦争による荒廃から完全に復興しており、連合軍朝鮮司令部の下ではあるが行政・立法・司法を有する独自の自治政府により統治されていた。
そのため独立後も大した問題もなく内政を回す事ができる状態で、さらに1910年から朝鮮防衛軍や外務設立準備局の設立など独立を見据え動きを行っていたこともあって、
記念式典での宣言通りのタイムスケジュールで連合軍朝鮮司令部から朝鮮自治政府への段階的な権限譲渡を行うことができた。

そして連合軍朝鮮暫定統治区は朝鮮戦争の講和条約であるシンガポール条約が締結されてちょうど20年を迎えた西暦1915年1月14日に朝鮮連邦共和国として無事に独立を回復することになる。

余談であるが日米は形式的には朝鮮の独立を回復させた一方でその実権を手放すつもりは毛頭なく、朝鮮連邦共和国(以後F.R.Kもしくは朝鮮と記載)は独立時に日本およびアメリカと安全保障条約を締結、
それまで駐留させていた日米連合軍はそのまま朝鮮に駐留し続けていく。

こうして朝鮮戦争後に日米の占領統治化にあった朝鮮が表向きには平和下にその独立を回復させる一方で、もともと朝鮮の宗主国であった清国ではその存続を脅かす大事件がおきる。
そう、辛亥革命の始まりの合図である保路運動が勃発したのだ。

この保路運動ははじめは四川・広東・湖南を中心に広まった清国が列強からの融資受けるために発表した国内の全鉄道の国有化反対運動であったが、
こうした反対運動を受けても清国政府が国有化手続きを進めていったことで徐々にだが反清運動へとその性質を変化させていき、各地での反清運動の活発化を招いてしまった。
特に四川ではこうした動きが激しく、西暦1911年10月には長江上流に位置する重慶が暴徒と化した民衆に占領されかかってしまうほどに事態が悪化してしまう。

それまでは何とか穏健に解決しようとしていた清国政府も重慶での騒乱を受けてついに穏健的な解決を放棄、四川総督であった趙 爾豊に武力鎮圧を命じるとともに
これを支援するために湖北新軍に所属する1個旅団(2個歩兵連隊+1個砲兵大隊)を増援として四川に送り込む。

そして暴徒とかした民衆と清国軍は衝突、死傷者380名、拘束者2,900名(清国政府発表)を出す大規模な都市戦がおきる事になる。

この事件は非常に大規模かつ列強の利権にも影響を及ぼしかねないとして列強各国や清国の目を集めることになるのだが、彼らの目が四川に集中している隙をついて同年10月6日に
湖北省 省都 武昌にて清国軍の一部が決起、満州兵以外の部隊を味方につけた反乱軍が湖北総督府を陥落させる。
これにより四川にて暴徒鎮圧を行っていた清国正規軍と湖北の守備部隊はその指揮統制が崩壊してしまい、10月10日には武昌全市が反乱軍の支配下に落ちる事になる。

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302 : ホワイトベアー sage 2023/01/18(水) 21:52:35
同日中に反乱軍は当時湖北駐留清軍の高級将校であった黎元洪をそのトップにして湖北省を代表する軍政府を設立し、他省にも同様の蜂起を呼びかけつつ近隣地域に侵攻を開始する。
武昌蜂起の成功は他の省の革命派に希望を与え、この湖北軍政府の呼び掛けに応じる形で清国各地で反乱や暴動が多発していった。

こうした情報は現地に滞在していた各国のマスメディアや公使館、租借地などを通じて短期間のうちに各国に知れ渡ることになり、
清国に利権を持つ列強諸国は大まかにではあるがイギリス・フランス・ドイツなどの軍政府を支持するグループと日本・アメリカ・ロシアなどの清国政府を支持するグループの2つに別れていく。
彼らは新たなる支那での利権や権益を求めてそれぞれ支持する政権に資金や軍事物資などの援助を与えていき、清国南部での騒乱は列強間の代理戦争の様相を成していく。

また、革命の発生を受けて日米は日米連合軍満州駐留軍および朝鮮駐留軍、日本支那派遣艦隊、アメリカアジア艦隊を、ロシアはロシア極東軍を、イギリスは中国戦隊とビルマ、インド軍を、
ドイツ帝国はドイツ東洋艦隊を、フランスはインドシナ駐留軍と東洋艦隊の動員を開始するなど何かあればの即座に軍事介入を行えるように準備も進められていった。

こうした事態を受けて清国は満州や朝鮮に軍を駐留させる日米の支持や清国中央政府の同意なしでの軍事介入を行わない旨を確認すると、
これ以上混乱を拡大させないように大本である湖北軍政府の討伐を決定、袁世凱を内閣総理大臣に任命して北洋軍を反乱軍の鎮圧に向かわせる。

北洋軍は朝鮮戦争とロシアによる満州侵攻を受けて淮軍と新建陸軍を統合する形で創設された清国中央政府直轄の軍隊であると同時に、日本からの支援のもとで日本式の訓練を受けた将兵と
『86式半自動小銃』や『88式自動騎兵銃』、『93式短機関銃』、『67式自動小銃』、『82式105mm榴弾砲』、『77式75mm榴弾砲』などの日本から供与された装備を有する清国軍の最精鋭部隊で、
英米独といった列強の支援を受けたとはいえ練度の低い地方軍と暴徒の集団でしかない革命軍では反乱鎮圧の為に侵攻する北洋軍を相手に抵抗を行うが圧倒的な練度の差を覆せず、
2万強と言う犠牲を出しながら江南武昌に撤退していった。

革命軍の撤退を受けて北洋軍は追撃の構えを見せるも反乱軍は武昌防衛を堅持し続け、さらに北洋軍主力が革命軍の討伐に動員された隙をつく形で清国の内地十八省のうち十三省で大規模な反乱が連鎖的に発生、
これらの地域を制圧した反乱軍は次々と清朝からの独立を宣言してしまう。

この時点では依然として内モンゴルの王公たちは清国支持を表明していたものの、相次ぐ反乱によって内地十八省内で清朝の統治が及ぶのは直隷、山西、陝西、山東、甘粛のみとなってしまった。

当時の清朝はいまだに北京をその首都としていたが、度重なる内地18省内での反乱や北京は革命派の勢力地に近すぎると言う理由から1910年10月13日に内閣総理大臣に就任し、
行政権を得ていた袁世凱は奉天への遷都を上奏。光緒帝はこれを受け入れ満州における要衝の地であり、日米の投資もあって近代都市として目まぐるしい発展を遂げていた奉天を新たなる首都として清国中央政府の機能を移転させる。

同時に袁世凱はイギリス駐漢口総領事ハーバード・ゴッフを通して軍政府及び各省代表に停戦の実施、独立を宣言した13の省の清国からの独立の承認、
清国に残った省内にいる革命派を一定額の補償金を支払った上で清国から追放の3つの条件を講和三条件として提示することで交渉の用意があることを明らかにし、
11月26日には唐紹儀を自身の代行として反乱軍の中心となっていた武漢に派遣、唐紹儀は武漢に赴き黎元洪やその代表との会談を実施する。
これらを受けた同日各省代表は伍廷芳を停戦交渉の全権代表に選出、イギリスの仲介の下で革命政府と清国政府は水面下での交渉が始められる。

1912年1月1日には未だに清国側との交渉が纏まっていないにもかかわらず、昨年12月28日に臨時政府臨時大統領に選任された孫文が中華民国の成立を宣言、
中華民国が国民主権の国家であり、漢満蒙回蔵諸民族による国家体制を強調した『臨時大総統職宣誓書』の宣誓が行なわれる。

これに対して清国側では交渉の打ち切りも検討されたが、中華大陸における混乱の早期終結を望む列強諸国からの圧力もあり、清朝政府代表の唐紹儀と各省代表の伍廷芳は上海租界で本格的な交渉を継続することを余儀なくされる。

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303 : ホワイトベアー sage 2023/01/18(水) 21:53:06
この時、革命政府は基本的に袁世凱がハーバード・ゴッフを通じて提示していた案に賛成していたが、その一方で現状清国が統治している地域にも清朝からの独立を望む人々がいるとして清国全十八省で清国に留まるか独立するかの選挙を実施することを要求する。
また、こうした外交的交渉の他に五廷芳は袁世凱が光緒帝の退位を支持するなら各省代表は袁世凱の中華民国大総統への就任を支持するといった北洋軍の切り崩しも行うが、
これは日米の恐ろしさを嫌と言うほど知ると同時に中華民国側のヤバさを見抜いた袁世凱が皇帝や部下を見捨てられないとして謝辞するなど失敗に終わった。

この交渉は結果として内地十八省での選挙の実施が拒否されるなどより距離が近い列強のバックを有する清国側の主張がほぼ丸々のまれる事になった。
それでも国際法的な清国の継承国家の座は中華民国に譲られ、中華民国臨時軍政府支配領域内の清国国有財産と国外財産などはその全てが中華民国に無償で譲渡されるなど幾分かは中華民国側に譲歩がおこなわれたが。

一連の交渉の結果、多くの漢民族が悲願とした漢民族による国家である中華民国が正当なる清朝(大陸王朝)の後継国家として誕生することになるのだが、
光緒帝がこの交渉が纏まる直前に発した最後の勅令によって中華民国の誕生後の姿は中華民国臨時政府の思惑とは大きくかけ離れたものとなった。

この光緒帝が発した勅令の内容を簡潔に意訳すると「清国から独立したい民族の独立を許可する」と言う内容で、一見するとあくまでも清朝は革命に屈したのでなく、
皇帝がそれを許したから漢民族の独立を許したという建前のために発した勅令に見えた。

しかし、示し合わせたようにこの勅令を受けてチベットや東トルキスタン、モンゴルなどの漢民族以外の民族が多数派を占める地域が次々と独立を宣言すると勅令内の民族が指すのが漢民族のみでないことが誰の目から見ても明らかになる

当然ながら光緒帝の発した勅令とその後の辺境地域での動きは『臨時大総統職宣誓書』で漢満蒙回蔵諸民族による国家体制を強調していた臨時政府臨時大総統 孫 文ら中華民国側からしたら到底受け入れられる話ではなく、
内容を知った彼らは激怒し、清国側と独立を宣言した辺境地域に対して即座に撤回を要求しようとした。

しかし、ここでも光緒帝ら清国側の方が一枚上手であった。
清国側はこの勅令を正式に下すよりも前に内々に日米英露に話をつけており、これらの国々から支持を取り付けていたのだ。
そのため日米英露は勅令が布告されるやいなや即座に清国の勅令への称賛と支持を表明し、清国からも中華民国からも独立を宣言した諸地域の独立を承認してしまう。

流石の中華民国も軍事力をチラつかせての列強の説得に屈する以外の選択肢はなく、結局は光緒帝の勅令と諸地域の独立を受け入れるしかなかった。

これによってチベットはイギリス、モンゴルは日米、東トルキスタンはロシアとそれぞれ列強の庇護下のもとで清国、中華民国双方から独立、
中華民国は結局のところ清国からの独立を宣言した13の省のみを領土とする国家として歩みだすしかなくなってしまう。

しかも、元が各地の反乱軍の代表たちによる寄り合い所帯でしかなく、さらに華北や満州を中心とした旧清国派支配領域や少数民族が多数派を占める地域の独立を容認せざるをえなかったことや、
建国の正当性を得るために清国の継承国家となってしまったことでこれまで清国が積み上げてきた莫大な負債を背負うことになってしまったこと、
史実とは違い北洋軍が中華民国に参加しなかったために直接の軍事力をもっていなかったことなどが合わさり中華民国の中央政府となった中華民国臨時政府の求心力は大きく低下。
建国から時間をおかずに国内の統制すらおぼつかない状態に陥ってしまい、西暦1914年頃には軍閥が群雄割拠する軍閥時代に突入、事実上統一政府が存在しない混沌とした状態となってしまう。

一方、旧清国支配領域は愛新覚羅氏を帝室にいただき、清国の官僚組織を引き継ぐなど事実上の清朝の後継国家でありながら、国名を満州連邦に改めた上で国際法上は清国から独立した新興国家となった。

これは清国時代に光緒帝や彼に重宝されていた改革派の政治家、官僚達の頭痛の種であり続けた莫大な負債や欧州列強の利権や権益の多い地域をほぼ全て中華民国に押し付けることに成功したことを意味しており、
合わせて満州戦争後に日米の半植民地となった満州に駐留している日米連合軍に国防をほぼ全て任せるなど日本の庇護下に入ることで欧州列強からの干渉を大きく抑えられるようになる。

そして、内憂外患を最小限までに抑え込むと光緒帝や革新派はこれまで保守派の抵抗や国内・国外情勢によって遅々として進められなかった国内の近代化改革を断行。

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304 : ホワイトベアー sage 2023/01/18(水) 21:54:16
日本の支援や援助を受けながら日本をモデルに近代的な統治機構や官僚組織、法体系、司法制度、教育制度、社会インフラの整備、産業の育成、
近代的な金融・経済システムの導入など洋務運動では成し遂げられなかった本当の意味での近代化を精力的に進めていく。

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305 : ホワイトベアー sage 2023/01/18(水) 21:58:21
以上になります。wikiへの転載はOKです。
ちなみにこの世界線ではたぶん、というか確定で伊土戦争とバルカン戦争は起きないのでオスマン帝国君はそれなりの国威を保ち続けることができるでしょう。

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最終更新:2023年06月23日 23:04