506 : ホワイトベアー sage 2023/01/22(日) 17:32:18
日米枢軸ネタ 第24話 改訂版

1912年から始まったアメリカ合衆国大統領選挙は、ウィリアム・タフトが史実ではタフトを破り大統領に選出されたウィルソンを相手に歴史的な大勝を飾る。

1912年大統領選挙は史実と違いルーズベルトが満州戦争後のゴタゴタによって政界から引退していたこともあって、民主党代表のウッドロウ・ウィルソンと共和党代表兼現職大統領のウィリアム・タフトの一騎討ちとなった。


タフトは1908年に行われた大統領選挙で当選して以降、外交面ではドル外交とも呼ばれるアメリカ合衆国の経済力を背景とした外交を行うことで満州や中南米での影響力を強化してアメリカ(+日本)の市場を拡大させ、
内政面では日本企業のアメリカ誘致を積極的に行うことで国内の雇用を増やすなど積極的な経済政策を実施してきた。

タフト政権の経済政策によってアメリカの経済が良好な状態を維持できていた。さらに前年におきたアイルランド危機では毅然とした対応から彼の支持率は高く、
メディアに大きな影響力を持つ日系勢力の全面的なバックアップを受けることができたため、史実ではタフトを破り大統領に選出されたウィルソンを相手に歴史的な大勝を飾ることができたのだ。

再び大統領に選任されたタフトは、独立国家となった満州連邦や朝鮮連邦共和国などに大規模な借款や国債の購入と言う形で資本の投資を積極的に実施。
日本と歩調を合わせながらではあるものの東アジアへの進出をより積極的に推し進めていった。
同時にアフリカや中東においても自らの新市場を開拓しようと、日本と共同してアフリカや中東でも同様の手段で進出を図っていく。

タフト政権が継続したため、他の国への外交政策でも基本政策に大きな変更はなかった。
アメリカは日本に睨まれない限りは、欧州で何かと問題をおこすドイツ、新興国である中華民国、満州戦争時に敵国であったロシア帝国とも親善的に外交を行い、貿易も積極的に実施していくなど米日同盟を中核とした全方位的親善外交を引き続き取り続けた。

一方、国内では彼は議会を協力して第二合衆国銀行の失敗以降存在しなかった中央銀行としてアメリカ合衆国中央銀行の創設。
セオドア・ルーズベルトが行おうとしていた罰則付の独占禁止法の制定や、純正食品・薬事法を次々と成立させることで消費者の健康や権利の保護を図る。
自然環境に対しても急速に破壊されていく自然を保護するため国有林の保全と統制のとれた農地開発事業を推し進めるなど、
それまでの共和党本来の「小さな政府」と経済の自由放任主義からはある程度離れた改革を推し進めていった。

無論、こうした改革は野党はもちろん与党である共和党の保守派からも強い反発をウケる。
しかし、すでに財界を抑える日本資本達やその裏にいる人々からの支持を取り付けていたタフトはこうした声に屈することはなく、この大改革は成功裏に終わった。

軍備面では欧米にて発生している建艦競争に対抗する為にタフト政権二期目では軍備の増強も実施。戦艦17隻、空母3隻、巡洋艦27隻、駆逐艦155隻などの追加建造を含んだ第三次海軍拡張法連邦議会を始め、
合衆国軍の増強のための予算を認めるいくつかの法律が連邦議会で可決。
多彩な海上保安機関を統合した沿岸警備隊が創設されるなど軍拡と組織の合理化が進められていった。

大日本帝国もアメリカ同様に膨大な円を満州連邦や朝鮮に投資や大規模な借款と言う形で流し込みながら、両国に向けて東アジアの開発の為の大量の工作機械、工事車両などから食料、軽工業品などを様々な商品を次々と輸出していた。
また、この頃になるとアメリカ合衆国でも急速にモータリゼテーションが進み、アメリカ向けの車両や工作機械の発注も大量に日本に届けられ、日本の貿易黒字は史上最大を更新し続けていった。

アメリカで確固たる影響力と地位を確立させることに成功した日本政府及び日系資本は、次の目標を有力な資源地帯である南米に定める。
国々にも膨大な円が注ぎ込まれ、東アジアへの進出と並行する形で南米でも囲い込みも本格的に開始した。

東アジアでは良好な日米関係とそれによる満州連邦の発展をこころよく思う国家は多くあったが、こころよく思わかった国もあった。その筆頭が中華民国である。

そもそも中華民国やその指導者である孫文にとって、満州連邦の独立など認められるはずはなかった。
彼らにとって満州や華北は中華民国が中華を名乗るには必要不可欠な地域であり、それゆえに最終的には満州連邦は自国が奪還しなければならない地域であると考えていたのだ。
しかし、満州連邦の背後には大日本帝国とアメリカ合衆国と言うアジアで2強を誇る列強がいる。
圧倒的な軍事力を前にしては混乱から完全に回復していない現状での奪還は二の足を踏んでいた。

HOST:om126033109020.35.openmobile.ne.jp
507 : ホワイトベアー sage 2023/01/22(日) 17:33:09
その間にも満州には日米からの怒濤のような資本投下や各種支援が行われた。
満州連邦は安価な労働力は自国で賄え、質の高い労働者についても日本やアメリカから移民として一定数確保できた。
これらが相まって満州連邦では経済成長に拍車がかかると同時に急速に国力を拡大させていく。

満州連邦は経済成長に力を入れていく一方、国防面では日米からの支援に頼りきるなど比較的に軽軍備路線をとっていく。
一応、満州連邦は北洋軍と禁衛軍を母体とした満州連邦陸軍と北洋艦隊を母体とした満州連邦海軍こそ編成していた。
しかし、日米が要求する軍事費の増大は当面の間は経済的に難しいと断る。
装備の面でも特に満州連邦海軍に至ってはその必要性の無さからと予算が最低限しか出されず、朝鮮戦争時から一切更新されていないと言う状態であった。

と言うのも満州連邦の仮想敵国である中華民国は一応の中央政府として南京を首都としている中華民国臨時政府が存在していたが、その臨時政府直轄の軍事力は僅かしか存在しなかった為、早々に中央政府としての主導権を喪失していた。
中華民国では国土全土を完全に統治する「統一政府」が存在しない状態が生まれ、軍閥が群雄割拠する軍閥時代となっていたため大した驚異となり得なりえなかったのだ。
無論、清国時代から仮想敵国であったロシア帝国と言う巨大な相手も存在していたが、ロシア帝国を相手にする場合は多少の軍拡程度では無意味である。
国内には満州戦争においてロシア帝国軍を一方的に撃滅した日米連合軍が駐留しているため、有事の際には完全に日米に対応を任せるつもりであった。

アジア太平洋地域での日米は大した混乱もなく平和的に発展を享受する一方、大西洋側では事情が少し変わってくる。

1911年6月、第二次モロッコ事件による英仏とドイツの対立が激化していることを受け、日米は示威も兼ねて北大西洋にて大日本海軍大西洋艦隊とアメリカ大西洋艦隊が合同での軍事演習を開始。
これと同時にアメリカ西海岸地域でも在米日本軍とアメリカ合衆国海兵隊総勢6万が参加する合同演習が開催されるなど大西洋地域での活動を活発化させていく。

日米の戦力が大西洋に集結し、合同演習を名目として即座に動ける状態にあるなかでその事件はおきた。

当時デンマーク領であったアイスランドに親善訪問中であったアメリカ海軍装甲巡洋艦《クインシー》が突如として爆発、アイスランドにて多くの乗組員と共に轟沈すると言う事件が発生したのだ。
これとほぼ同時にアイスランド付近を航行中であった日本国籍の貨物船《ふくじん丸》がアイスランド近海にて雷撃を受け沈没すると言う大事件も発生してしまう。

一連の事件を受け、デンマーク側は即座に犠牲者への哀悼と自身が無関係であることを表明するが、日米のメディアはこのデンマーク側の意見を無視してテレビやラジオ、新聞などを通してデンマークが卑劣な攻撃を行ってきたと連日連夜大々的に報道し続けた。
そして、メディアに煽られた世論はこれを真に受けデンマークへの報復を声高に叫ぶようになる。

世論の後押しを得た日米両国政府は時間をおかずに日本海軍大西洋艦隊とアメリカ海軍大西洋艦隊、日本海軍海兵隊第3海兵陸戦軍、
合衆国海兵隊をその指揮下におく日米連合軍大西洋軍の編成を発表。日本大西洋艦隊司令官兼在米日本軍司令官稲葉 景光海軍大将を司令官にする
また、同軍の編成と同時にデンマークに対して外交ルートを通じて謝罪と賠償、無条件でのデンマーク領内への日米連合軍の進駐受け入れ、全デンマーク軍の武装解除、デンマーク内での事件捜査権及び容疑者の身柄拘束権、
日米が事件に関わっていると判断した人間の無条件での身柄引き渡しを覚書という形でではあるが提示した。

見に覚えのない言いがかりと、日米の外交担当者はクスリでもキメているのかと言いたくなるような国際常識を何処かに放り投げたこの要求にデンマーク政府とデンマーク人達は驚愕するのと同時に怒りに震えた。
しかし、日米同盟はロシア帝国を一方的に破り、大英帝国すら凌駕する海軍力を有してい
る。
対してもデンマークは列強の末席にすら座れない小国。両国の間には隔絶した国力差が存在し、デンマークは何も言い返すことができなかった。

しかし、ここで欧州列強からデンマークに救いの手が差し伸べられる。

HOST:om126033109020.35.openmobile.ne.jp
508 : ホワイトベアー sage 2023/01/22(日) 17:33:44
アイルランドでの事件と日米がデンマークに投げつけた要求は欧州列強にも強い衝撃を与えていた。
何しろ彼らからしたらデンマークと日米との戦争が勃発しても、デンマークが戦争を避けるために日米の要求を飲んだとしてもどちらにしろ欧州における日米の影響力拡大を招くことになるからだ。

特にスカンジナビア半島から鉄鉱石を輸入し、バルト海側に大規模な海軍拠点を有するドイツ帝国とロシア帝国、過度な日本の影響力拡大を望まないイギリスに齎された衝撃は極めて高かった。
3カ国はこれまでの緊張が嘘だったかのように短期間のうちに第二次モロッコ事件で対立していた英仏独の間で妥協が成立。
直後には今回の問題の解決を図るため、イギリス外相エドワード・グレイとドイツ外相ゴットリープ・フォン・イェーゴウ、ロシア帝国外相セルゲイ・サゾーノフの3名が連名で英・独・日・米・露・丁での国際会議を提案した。

欧州列強の提案は絶望的な状況にあったデンマーク政府にとってまさに天から伸びてきた一筋の希望であり即座に飛びついた。
日米も戦争をやらずに済むならそれが一番であることには変わりはないので、最後のデンマークに対する最後のチャンスという意味も兼ねてこの提案を了承、
西暦1911年7月28日、史実では英仏間の間で軍事協定が結ばれた日にイギリスのエディンバラにて日米丁の仲介のための国際会議が開かれる事になった。

この会議では欧州列強の必死の説得もあって日米側も先にデンマークに提示したものよりその条件を緩和、

1.日米両国に対してのデンマーク政府公式な謝罪
2.日米が指定した金額の賠償金を支払うこと
3.日米に攻撃を行った罪で日米両政府が一覧にして提示した全ての軍関係者と政府職員を解雇すること。
4.デンマーク領で見つけられる可能性のある、今事件の共犯者を法廷尋問するとともに、日米政府の一機関をこの手続きに参加させること。
5.武器と爆発物の違法売買の流通を効果的な方法によって防ぐこと。
6.破壊分子の運動の抑圧のために、日米政府の一機関との協力を受け入れること。
7.今後、このような事態を防ぐためにアイスランドおよびグリーンランドに日米の軍を駐留させる。なお、駐留費の一部はデンマーク側が負担する。

の7つの条件をデンマークに提示した。

これに対してデンマークは自国は無関係である事を改めて表明し、この要求は過酷過ぎるとして3.4.6の受け入れは保留、7の要求も軍の駐留こそ認めるもののデンマーク側の費用負担に難色を示した。
イギリスやドイツ、ロシアもさすがに要求が過酷過ぎるとさらなる譲歩を日米に求め、激しい日米と英独の交渉の末、日米側も要求の一部緩和を受け入れる。
最終的にアイスランドとグリーンランドを日米に無償で割譲することを対価に3.4.6の要求を完全に撤回、賠償金の減額も小規模ながら認めた。
しかし、これ以上の譲渡はないとして8月15日までにこの要求を飲まなければ宣戦布告を行うと一方的に交渉の打ち切りも同時に示唆する。

すでにアイスランド近海に日米連合艦隊と海兵隊を乗せた輸送船団が到着しており、脆弱な軍備しか持たないデンマークもこれ以上の交渉継続は破滅をもたらすと判断してこの要求を受諾。
西暦1911年8月11日、エディンバラ条約が日米丁の間で成立する。

この条約によってデンマークは自国の主権と自国本土の維持には成功したものの、アイスランドとグリーンランドはデンマーク領自治領から日米共同統治領へとその立位置を変える事になった。

条約が成立すると日米連合軍はアイスランド及びグリーンランドへと進駐を開始。
両島への進駐から僅か10日後には日米連合軍アイスランド民政政府がアイスランド自治政府及びグリーンランド行政府の上位組織として創設されるなど史実の沖縄をモデルとした行政体制の構築が行われていく。
同時にアイスランドやグリーンランドには多くの工兵隊が送り込まれ軍港や航空基地、防空レーダー基地、陸軍基地などの軍事施設の建設の建設が次々と開始されていった。

これらの施設は極めて急ピッチに建設が行われ、そのほとんどの施設が半年で機能を開始した。
当然ながら未完成部分があったものの、部隊の配置も異例の早さで行われる事になる。

1912年5月、アイスランドとグリーンランドが日米連合の統治下になって半年が経ち、軍事施設群が稼働を開始するようになるとアイスランド防衛隊とグリーンランド防衛隊が正式に発足する。
同時にこれまで暫定的に駐留されていた海兵隊部隊と入れ替わるようにアメリカ陸軍第8歩兵師団および第12歩兵師団を中心とした地上部隊が駐留を開始した。
海上戦力としては従来は大西洋艦隊所属の部隊が必要に応じてアイスランドに寄港する形であったが、これでは即応体制に不安があったため、常設の水上部隊として軽巡洋艦1隻、駆逐艦12隻、魚雷艇30隻からなる第36任務部隊がアイルランド防衛隊の指揮下に置かれることになった。

HOST:183-180-102-134.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
527 : ホワイトベアー sage 2023/01/22(日) 21:11:02
両島防衛隊は地上部隊と水上部隊こそ比較的小規模なものであったが、航空戦力としては日本軍の93式戦闘攻撃機や6式戦術輸送機、0式哨戒爆撃機やアメリカ製のP-84(米製四式戦闘機)、
PV-4(米製一式陸上攻撃機)などレシプロ式の旧式機をその主力としてはいたものの戦闘機200機、爆撃機100機、輸送機60機、水上飛行艇26機、その為航空機13機と400機近くをアイスランドに駐留させるなど強力と言うしかないものが配置されていた。

旧デンマーク領への軍部隊の配置は日米が隠そうとせず、欧州列強も旧デンマーク植民地での動きを注視していたこともあって欧州列強もほぼ正確に把握できていた。
しかし、配備される水上戦力の少なさや欧州本土まで距離が離れていたことによる航空戦力の脅威度の低さ、そして英独建艦競争という差し迫った脅威もあって次第にその警戒レベルを引き下げていってしまう。

日米が自分たちの軍備や経済力を背景に東アジアや南アフリカへの進出を強めつつ、アイスランドの拠点化や軍備の再編を推し進めていた一方、欧州ではようやく不安定化していた国際状況が安定した状態へと向かい始めていた。
アイスランド危機への対応の為に行った英仏独露の連携とモロッコ問題の最終的解決により仏独間の関係が一定程度ではあるが接近し、1914年初頭にはドイツ側の建艦競争からの撤退と言う譲歩(大きすぎる負担に根を上げたとも言う)により英独間の関係もある程度は回復していた。
バルカン半島は未だにオーストリア・ハンガリー帝国とセルビアの間で緊張状態にあったが、セルビアのバックに立つロシアは未だに満州戦争での傷が完全に癒えておらず、セルビアもそこまで表だって反オーストリアを表に出してはいなかった。
とは言え、いやむしろ表に出せないだけセルビアの反オーストリア感情は史実より大きくなっており、ボスニア危機以降は何かあれば爆発する可能性すらあった。

そんな時に、オーストリア・ハンガリー帝国はハンガリーやボスニア内の反オーストリア勢力に圧力をかけるべく軍事演習を実施、その視察の為に1914年6月28日、
オーストリア・ハンガリー帝国皇太子フランツ・フェルディナントは自らの妻であるゾフィー・ホテクとともにサラエボへと向かった。そして、時代は一気に破局へと動き出す。

HOST:183-180-102-134.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
528 : ホワイトベアー sage 2023/01/22(日) 21:11:49
以上になります。wikiへの転載はこちらでお願いします。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2023年07月27日 22:03