573 : ホワイトベアー sage 2023/01/23(月) 21:39:10
日米枢軸ネタ 第25話改訂版

後の世に世界大戦と記録されることになる欧州での大戦争がおきてしまった背景には複数の要因が複雑に絡み合っていたといわれている。

要因の1つとしてよく挙げられるのがビスマルク体制の崩壊と、それに伴う欧州における列強間の対立の激化である。
ビスマルク体制時のドイツ帝国は自国の平和を欧州列強の関係を利用しながら維持していく方針をとっていた。
そのため欧州のバランサー、正直な仲介人としてヨーロッパの勢力均衡を平和なまま現状維持されることを望み、
列強間の利害対立を積極的に調停していくなど欧州は平和の維持に尽力してきた。

ドイツ帝国の外交政策はビスマルクの天才的な外交手腕によりフランスを孤立させ、19世紀の四半期は国際連盟や国際連合のような国際平和組織のない時代でありながら、ヨーロッパにおいてはほとんどと言って良いほど戦火が存在しない平和な時代を作り出すことに成功した。

その一方、ビスマルクの外交政策はドイツが成長する可能性や余地を切り捨て、現状の英仏主導の国際秩序の下で国家の運営を行うといったものであった。
これを消極的と捉えたヴィルヘルム二世は自らが皇帝となるとビスマルクを更迭すると、他の列強との協調関係よりもドイツの帝国主義的利害を重視する外交政策へと転換。
いわゆる「新航路政策」(世界政策)を本格化させ、独露再保障条約の更新を拒絶するなど欧州におけるビスマルク体制の解体を積極的に行っていってしまう。

ビスマルク体制の崩壊以外にもヴィルヘルム二世の稚拙極まりない外交政策(英独建艦競争、モロッコ問題など)によってドイツ帝国は周辺諸国との関係を悪化させていった。
その隙をついたのがビスマルク体制時には孤立させられていたフランスで、彼らは独露再保証条約が消失したロシア帝国と露仏同盟を締結。
露仏同盟を皮切りに三国同盟の無効化(独仏開戦の場合のイタリア中立化協定)や英仏協商を成立させるなど、外相デルカッセの巧みな外交によってドイツ帝国と対立する列強に接近することで徐々に孤立状態を脱し、20世紀初頭にはビスマルク体制時とは打って変わって欧州ではドイツ包囲網というべき同盟関係を築き上げる。


また、不安定化していたバルカン半島情勢も世界大戦の火種の1つであった。
この時のバルカン半島ではオーストリア・ハンガリー帝国によるボスニアとヘルツェゴビナの併合を契機としたボスニア危機以降、
ドイツ帝国の同盟国であるオーストリア・ハンガリー帝国とロシアの支援を受けるセルビアとの間で高い緊張状態にあった。

そんな状況下にある1914年にオーストリア・ハンガリー帝国はセルビアやロシアへの圧力の為に併合したばかりのボスニアでの大規模な軍事演習とサラエボでの軍事パレードの実施を決定。
オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子であったフランツ・フェルディナントがこの演習とパレードの閲兵を行うことになった。

そして、1914年6月28日 彼が妻であるゾフィー・ホテクとともに演習の閲兵を終え、新設される国立博物館の開館に立ち会うためにボスニア・ヘルツェゴビナ最大の都市であるサラエボに訪れた時に事件はおこってしまう。
フランツ・フェルディナントが乗る車のすぐ近くで銃声が鳴り響いたのだ。
後の世にて大戦の引き金を引いたと言われることになるサラエボ事件の勃発である。

幸い、この銃弾はオーストリア側の警護が自らの身を盾として防いだことによりフランツ・フェルディナントとゾフィー・ホテクは傷らしい傷もおわずに済むことができた。
犯人は暗殺失敗を知ると即座に自殺を図るが、オーストリア側はこれも阻止することに成功。暗殺者とその仲間たちは現地の警察にその身柄を確保されてしまう。

その後、彼らに行われた拷問に近い取り調べや憲兵すら動員した徹底的な調査によって暗殺グループの三人の指導的メンバーはベオグラードで長期間滞在した後、
かなり最近になってセルビアから国境を越えてきたこと、暗殺未遂をおこした犯人やその仲間たちがセルビア製の武器や爆弾を所持していたことが明るみになると事態は思わぬ方向へと転がっていく。

この事件はヨーロッパ中の王室に大きな衝撃を与え、オーストリアの境遇に多くの同情が集まることになった。
そうした状況のなかで事件にセルビアの関与があると主張できる証拠を抑えたオーストリア・ハンガリー帝国は、この欧州諸国からの同情を追い風としてこの暗殺未遂事件を口実にセルビアに宣戦布告をおこない、
バルカン問題を一気に解決させようと動き出す。
しかし、この時のセルビアはロシアの影響下にあり、最悪の場合にはロシアとの戦争がおきかねないとしてティサ・イシュトヴァーン ハンガリー首相を筆頭にセルビアとの開戦に反対する政治家も少なくなく、
オーストリア・ハンガリー内では一旦はこうした対セルビア強硬路線に歯止めがかかった。

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574 : ホワイトベアー sage 2023/01/23(月) 21:40:06
しかし、ドイツ……というか我らがウィリーことヴィルヘルム2世が対セルビアでのオーストリア無条件全面支援、いわゆる白紙小切手をオーストリア・ハンガリー帝国内の対セルビア強硬派に切ったことや、
対セルビア強硬派に煽られたオーストリア・ハンガリー帝国内の世論もあって、最終的には穏健派も戦争もやむ無しと強硬派に賛成せざるをえなくなる。

穏健派が開戦に同意したことを受け、オーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに対する最後通牒という形で

  • 二重帝国に対する憎悪を扇動するすべての出版を禁止すること。

  • 反二重帝国的な思想を掲げる全ての団体を即時に解散させ、その構成員たちが政治的活動を行うあらゆる手段を即時に没収すること。

  • 二重帝国に対するプロパガンダを助長しているもしくは助長する恐れがあると判断したあらゆものを(教師も教材も含めて)全てセルビアの公教育から遅滞なく削除すること。

  • 二重帝国に対する憎悪・軽蔑を扇動するプロパガンダを行った罪で、二重帝国が一覧にした全ての軍関係者と政府職員を無条件で解雇すること

  • 二重帝国の領土保全に反する破壊分子の運動の抑圧のために、セルビア政府は帝国政府の治安維持機関とのあらゆる協力を無条件で受け入れること。

  • セルビア領で見つけられる可能性のあるサラエボ事件の共犯者の身柄拘束・尋問に二重帝国の治安維持機関を参加させること。

  • 二重帝国が行った予備捜査によって浮かび上がった2人の指名手配犯を直ちに逮捕すること。

  • 武器と爆発物の違法売買の流通を効果的な方法によって防ぐこと。

  • 国内国外を問わず、二重帝国に敵意を示したセルビア政府機関人間の陳述書を全て二重帝国に開示すること。

  • 上記9項目の要求全てについて実行する手段を、遅滞なく帝国政府に提示すること。

といった交戦権と帝国主義が大手を振る世界の列強らしい内容の要求を10項目もセルビアに対して突き付け、その返答までの猶予は48時間しか与えなかった。
これは上記したようにオーストリアが頭を悩ませていたセルビア問題を一挙に解決するためにセルビアとの開戦を臨んでおり、最後通牒が拒否されることを望んでいたからである。

オーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに最後通牒突きつけたことを受け、汎スラブ主義の盟主であったロシア帝国はオーストリアに圧力をかけ戦争を抑止するために陸軍および黒海艦隊とバルチック艦隊の部分動員を開始する。
その一方、未だに満州戦争とロシア革命で負った傷を完全には癒やしきれていないこともあってロシア帝国としては現段階ではオーストリア・ハンガリー帝国やその後ろにいるドイツ帝国との戦争を臨んでおらず、
セルビアに対してオーストリアの最後通牒に呑むように圧力を加えていく。

ロシアは自らを全面的に支援するであろうと言う楽観的観測のもと動いていたセルビアはロシアからの圧力に面をくらい、慌てて10項目の要求のうち8項目の即時受け入れを発表、
ただし5と6の要求に関してはセルビアの主権を著しく侵害しており、議会の了承が必要だとして受け入れ保留をオーストリアに通告した。
この事実上のセルビアの全面降伏によりオーストリアも矛を納め、欧州の平和は守られたと欧州各国の住民は思った。
実際、セルビアの回答を聞いたヴィルヘルム2世はバルト海へのクルージングに戻り、ロシアでも軍の動員解除の準備が開始され始めていた。

しかし、すでにセルビアを滅ぼして自国に併合することを内々に決定していたオーストリア・ハンガリー帝国としては大義名分ができた以上は矛を納めるつもりなどサラサラなく、
西暦1914年7月25日にはセルビアが指定した時刻までに最後通牒の完全な受け入れを通告してこなかったとして国交断然を発表。同時に軍の部分動員を開始し始め、
動員が終わるや否やセルビアに宣戦を布告をおこない、セルビア本国への侵攻を開始する。

オーストリア・ハンガリー帝国の対セルビア宣戦布告という衝撃的な情報が届けられたロシア帝国はニコライ2世が軍部からの圧力に負けたこともあって総動員体制への移行を開始する。
もっとも、この総動員令は満州で開催される日米満三国合同の大規模軍事演習であるサウス・サンダーを名目に100万近い兵力が満露国境近くに展開したこともあって翌日には撤回され、
部分動員のまま動員が進む事になるのだが、手違いからドイツやオーストリアにはその情報が伝わらなかった。

ロシアが総動員を開始したと言う情報は即座にベルリンにまで届き、ドイツはそれまでの調停が効果をあらわし始めるではあるもののロシアの動員が完了する前に対抗措置を取らざるを得ないと判断してしまう。

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575 : ホワイトベアー sage 2023/01/23(月) 21:40:41
無論、平和への動きが行われていなかったわけではなく、ドイツ帝国皇帝であったヴィルヘルム2世が従兄弟にあたるロシア皇帝ニコライ2世に対してロシアの総動員を取りやめるよう求めるなど独露間での交渉は続いており、
ドイツ首相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークは総動員の発令せずに7月31日までロシア側の回答を待った。

しかし、この時、ドイツは重大なミスをしてしまっていた。電報を介して総動員の撤回という要求を行う際に外交官が“totale”の単語をつけるのを忘れてしまったのだ。
これによりロシア側はドイツが“部分”動員の中止を求めていると誤解してしまい、ドイツ帝国の要求を拒絶してしまう。

ロシア側の誤解やロシア側が総動員を撤回したことを知らないドイツは、ロシアからの拒絶を受けてロシアの動員に対応するため
7月31日にシュリーフェン・プランに則り「戦争危険切迫事態(State of Imminent Danger of War)」を下令する。

ここまで来てしまえば最早、戦争と言う火が欧州に燃え広がるまであと一歩である。

しかし、未だに平和への望みを捨てない人々もいた。イギリス外相サー・エドワード・グレイ率いる英国外務省である。
彼らはイギリス・フランス・ドイツ・オーストリア・ロシアの五カ国による国際会議を提案、話し合いによる事態の平和的解決を提案する。
しかし、イギリス外務省が平和的解決を謳う傍らで欧州最強の海軍力を持つロイヤル・ネイビーがイギリス海相チャーチルの命令の下に艦隊を北海および英国海峡に集結させるなど
イギリス自体がドイツの警戒を買う行為を行っていたこともあってこの提案に賛同する国家は存在せず、この話は流れてしまう。

そして、8月1日、ドイツが総動員体制に移行すると同時に軍の8割を西に配置する配備計画「Aufmarsch II West」を発動させ、ロシア帝国に対して宣戦布告をおこなう。

ドイツの総動員体制移行とロシアへの宣戦布告を受けてロシアの同盟国であったフランスも総動員体制への移行を開始、同時に配備計画「プランXVII」を発動させ、
偶発的な衝突を防ぐために軍を国境から10km後退させながらも予備役の動員を開始する。

8月3日、ドイツはフランスに求めていた中立維持を断られた事を理由にフランスに対して宣戦を布告し、シェリーフェンプランを始動させる。
この時ドイツ帝国はシュリーフェンプランに則りフランス領に進行するためにベルギーに対して軍事通行の容認を求めたが
ベルギーがこれを拒否したため翌8月4日にはベルギーにも宣戦を布告、ベルギーに対する侵攻が開始された。

ベルギーを含めた低地諸国はイギリスの国土防衛上重要な価値を有しており、これらの国々の中立をイギリスが保証することでその安全を確保していていた。
そのこともあってドイツによるベルギー侵攻の知らせを受けたイギリスではそれまでは戦争反対派が多数を占めていた議会も遂に戦争に賛同、
イギリスはドイツに最後通牒を発し、ベルギーからの即時撤退とベルギーの中立の遵守を求めた。

しかし、いや当然ながらドイツの対仏戦争計画であるシェリーフェンプランはベルギーからフランス領土に侵攻をおこなうことを前提にした計画であり、
ドイツ帝国がイギリスの最後通牒を受諾することはなく、ベルギーへの侵攻も止まることはなかった。
これを受けたイギリスは西暦1914年8月4日にドイツに対して宣戦を布告、大戦の炎は欧州大陸に燃え広がっていった。

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576 : ホワイトベアー 2023/01/23(月) 21:41:12
以上になります。wikiへの転載はOKです。
ちなみにオーストリア・ハンガリー帝国の最後通牒は意訳しておりますがほぼ史実通りの内容となっております。

……史実の第一次大戦の開戦経緯とか見るとマジで時代が血を臨んでいたようにしか見えない。

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最終更新:2023年07月04日 01:09