385: 透過の人 :2019/07/11(木) 14:10:25 HOST:softbank126077075064.bbtec.net
日墨ルート 第一次世界大戦5
欧州で膠着した状態が続いたまま、1915年は過ぎ去ってしまった。
この間の特筆すべきことといえば、連合国による海上封鎖の完成とドイツ海軍のUボートによる通商破壊戦の開始だろう。前者は同盟国の経済と食料事情を悪化させ、後者は長きに渡り連合国軍を苦しめる事になった。
1916年4月24日、第一次世界大戦における最初の転機とされるイースター蜂起が起こった。
この蜂起はウルフ・トーンの1798年の反乱以来の大規模な蜂起であり、パトリック・ピアース、ジェームス・コノリーらに率いられたアイルランド人独立派が蜂起したものであり、それ自体はごく短期に鎮圧されたが、
問題は蜂起した人間の中にメキシコ製の武器を持った人間がいた。ということだった。これらは払い下げされた22年式小銃や30年式半自動小銃だったが、イギリスと日墨の間で秘密裏にではあるが外交問題化し、結果、1年以内に義勇軍という形で兵力を欧州に派遣することを日墨側は了承せざるを得なくなる。
この事はその経緯もあって厳しい情報統制がされ、長らく歴史の謎とされていた。
1916年5月31日に行われたユトランド海戦には戦艦扶桑を旗艦とする遣欧義勇艦隊がイギリス海軍と共同して、封鎖突破を試みたドイツ艦隊を打ち破った。
この戦いにおいて初の41センチ砲搭載艦である扶桑にドイツ艦隊が手も足も出なかったことは、「フソウショック」として長く語り継がれることになる。
また、この戦いにおいては、嶋田繁太郎が空母翔鶴(注1)の戦闘機隊隊長として参加、ドイツ海軍の水上機を撃墜する戦果をあげている。

バルカン半島ではブルガリア王国、ギリシア王国、モンテネグロ王国がオスマン帝国に降伏(注2)、残るルーマニア王国とセルビア王国はロシアとドイツの支援にてかろうじて抵抗が続けられている状態であり残り2国を崩すことで戦局を有利に変えようとした。
1916年9月2日、オスマン帝国軍によるルーマニアのトゥトラカン要塞攻略作戦が開始された。オスマン帝国の戦争大臣エンヴェル・パシャの肝いりのこの作戦は、かつてルーマニアを征服したスレイマン大帝にちなみカーヌーニー作戦と名付けられた。
カーヌーニー作戦は成功したものの、オスマン帝国側の損害もかなりのものであり、バルカンでも戦線は膠着してしまう。

同盟国側でも特に被害が甚大だったロシア帝国で政変の兆しが見え始め、これにより世界はさらなる混乱へと突き進むことになる。

注1 20センチ砲を搭載しているため、他国からは航空巡洋艦とも呼ばれ、3段式甲板を備え同じく同海戦に参加した空母鳳翔とともに異彩を放った。
注2一応、亡命政権は存在している。

386: 透過の人 :2019/07/11(木) 14:11:13 HOST:softbank126077075064.bbtec.net
投下終了です。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2019年07月14日 12:14