日米枢軸ネタ 第26話改訂版

1914年6月28日、サラエボ事件を発端として、史上類を見ない大戦争である世界大戦がその幕を上げた。

とは言ってもこの時点で戦争の脅威を感じていたのは欧州諸国のみであり、対ロシアのために一応はイギリスと協力関係を構築していた日本とアメリカ合衆国ですら
同盟陣営・協商陣営問わずに同盟関係を結んでいないことから開戦当初から局外中立を表明するにとどめるなど、太平洋・アメリカ大陸の国家群はこの戦争への危機感や関心は非常に薄かった。

当時の日本の世論はフランツ・フェルディナント皇太子が1892年8月2日から1893年2月16日までの約半年間おこなった日本見聞での姿勢から彼に非常に好意的で、
サラエボ事件でフランツ皇太子の暗殺を図ったセルビアに反感を持っていたことや、満州戦争では敵国であったロシア帝国やその属国であるセルビアを主敵としていた事から若干ではあるがオーストリアに同情的な世論すらあった。
それを表すように開戦後も対オーストリア貿易は変わらず継続され、食料や衣類、医薬品などの一般物資や鉄鉱石やボーキなどの鉱物資源、石油などの地下資源、
ゴムなどの天然資源などは戦争が勃発したあとも日本を通してオーストリア・ハンガリー帝国に供給され続けていく。
これはフランス・イギリスがアドリア海の封鎖を実行した後も同様で、アドリア海では日本地中海艦隊の護衛の下、封鎖を突破する日本国籍の輸送船団が往々にして見られることになる。

こうした中立政策をとる一方、世界大戦の発生を受けて日本では1914年度臨時海軍拡大法と1914年度陸軍補充法が新たに成立。
大型空母の建造こそ認められなかったが、艦齢30年に達する駿河型戦艦と金剛型巡洋戦艦の後継艦として計画されていた大型戦艦8隻と商船設計を採用した補助空母50隻、
巡洋艦46隻、駆逐艦108隻、護衛駆逐艦130隻、巡防艦167隻、海防艦229隻、潜水艦26隻の新規建造と多数の航空機の整備が新たに認められた。
また、地上部隊においても大規模な臨時予算が認められ、これまで遅々としか進められていなかった装備の更新が急速に進んでいくことになる。

軍備拡張と同時に世界的な日本軍の配置にも改変が加えられることになり、欧州に面する地中海艦隊や大西洋艦隊、スエズ運河地帯や一部オスマン帝国領に駐留する地中海方面軍、
在米日本軍や演習中であった満州方面軍などの海外駐留軍の増強を開始。それ以外にも戦争に参戦した場合を睨んで国内の弾薬の生産量を増加や内地師団の訓練増加などが行われていく。

アメリカでも戦艦10隻、巡洋戦艦6隻、巡洋艦10隻、駆逐艦50隻、潜水艦100隻の新規建造を決定した他、陸軍及び海兵隊の常備師団が準戦時状態にまで充足され、
陸海軍共に全ての兵器の弾薬は戦時配給となり、海軍も太平洋艦隊のほぼすべてを大西洋に回航するなど警戒度そのものは上げており、日米両国ともに自らにいらぬ火の粉がかかることを警戒して、
緩やかにだが軍備増強と戦争準備を進めていた。

太平洋や新大陸でイザという場合に備えた軍拡や世界的な軍の再編が行われていく一方、鉄火場となっていた欧州では同盟陣営が戦況を有利に進めていた。

西欧では西暦1914年8月4日、ベルギーがドイツ帝国の求める軍事通行許可を拒否したことを受け、ドイツ帝国がベルギーに対して宣戦を布告。
同時にドイツ帝国軍は第1騎兵軍団を先鋒にドイツ・ベルギー国境付近に集結していた3個野戦軍37個師団を中核とした大軍勢をもってベルギー国境を突破、
地上軍の進軍を支援するためにドイツ帝国陸軍航空隊も第2、第3、第4航空艦隊に所属する1200機近い航空機がベルギー方面の空に飛び立っていった。

ベルギーに侵攻したドイツ帝国軍の部隊は対仏露戦争計画であるシェリーフェン・プランに基づいて動いているドイツ帝国軍の主力部隊で、通常部隊はもちろん機甲戦力も多く取り揃えていた。
先鋒を担った第1騎兵軍団は中戦車だけでも最新鋭と言える『Pkw27』を400両、軽戦車も含めると700両近い装甲戦闘車両を有し、
貨物自動車や小型自動車などの輸送車両も多数装備している機械化部隊で構成された軍団で、その後に続く後続部隊は徒歩や馬を移動手段とする従来式の部隊ではあったが、火砲や歩兵装備などは当時の欧州でも最優良のものを揃えていた。
当然、それらを扱う将兵もその大半が現役、もしくは現役を退役したばかりの即応予備がその大半を占めており、欧州でも指折りの精鋭たちである。

一方のベルギーであるが、彼らはドイツ帝国からの最後通牒を受けて予備役の動員と戦時体制への移行を開始していたこともあって、ドイツ帝国の侵攻が開始された時点で15万近い兵力を動員していた。

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これは一見するとある程度の戦力が動員されているように見えるが、本来のベルギーの戦争計画では野戦軍として約12万人を、各要塞の守備を行う要塞軍に約20万人を動員するとされている。
つまり、ドイツ軍の侵攻が開始された時点では計画の1/2以下しか動員できておらず、野戦軍の中核を担う予定であった6個師団と各要塞守備隊を完全に充足させられてはいなかった。

さらに歴史的経緯からベルギーでは軍備を軽んじる意識が根強かったこともあって、装備に関しては日米視点では未だに南北戦争の頃のものを主力としているなどと言う有り様な上に、
予算の問題から弾薬や軍服などの基本的な物資すら不足気味という状態で、航空戦力や機甲戦力に関しては影も形もないというオブラートに包まずに言えば軍事力に関して言えば欧州諸国でも最悪の部類に入るレベルであった。
(ベルギー側を擁護すると西暦1913年から軍の近代化などを開始してはいた)

数少ないの長所を上げるとしたら国土防衛戦と言うことから全軍の士気が高かったことだが、このような状況で曲がりなりにも航空戦力や機甲戦力を有するドイツ軍にまともな手段で対抗できるはずがない。
唯一の希望である協商軍もその中核を担うフランス軍がプラン17によって独仏国境付近に戦力の大半を配置しており、
ベルギーに救援として送り込まれた戦力は騎兵師団3個、歩兵師団10個からなるフランス第5軍と騎兵師団1個、歩兵師団5個からなるイギリス海外遠征軍のみで、
航空戦力に関しても600機程度とドイツ帝国軍の半分程度だった。

脆弱な戦力しかないベルギー軍は短期間のうちに各地でドイツ帝国軍に粉砕され、これに焦った協商軍は政治的な決定もあって部隊の準備が完全には整っていないにも関わらずベルギーに進出することを余儀なくされ、
8月中盤にはベルギー軍を他所にベルギー中部にて協商軍とドイツ帝国軍が衝突、シャルルロワ会戦とモンスの戦いと呼ばれる大規模な航空戦や戦車戦すら実施された大規模な戦闘が発生するにいたる。

ドイツ帝国軍はベルギー侵攻に18トンという当時の欧州では比較的大型な車体を有し、18.4口径57mm戦車砲を主砲として1門、7.92mm機関銃3丁を装備する多砲塔戦車である『Pkw27』中戦車と、
『Pkw27』を小型化させた『Pkw29』軽戦車を投入しており、この戦いにおいてもこれらの戦車を中核とした第1騎兵軍団を先鋒にドイツ帝国地上軍は攻撃を開始した。
対する協商軍はイギリス軍の『ホーネット』中戦車や『エクスプローラ』軽戦車とフランス軍の『ルノーFT-10』中戦車、『ルノーFT-8』軽戦車を主力とした戦車部隊でこれを迎え撃つ。

協商軍は戦車の数でも総兵力数でも多少は劣ってはいたが、それでも兵器の性能がほぼ同じかやや上回っていたことや、
守勢に回っていたことから45mm戦車砲や37mm戦車砲などを備えた防御陣地を最大限活用できたこともあって戦闘開始後しばらくは優位に戦うことができていた。

しかし、『フォッカーD.Ⅱ』を主力とすドイツ帝国軍戦闘機部隊が『SPADⅧ』や『RAF Fe26』からなる協商軍戦闘機部隊を数に任せて漸減し、
シャルルロワ付近の航空優勢をドイツ帝国軍航空部隊が確保すると協商軍の優位は覆され、さらにプラン17の失敗を知らされたこともあってフランス第5軍司令官チャールズ・ランレザックはシャルルロワからの撤退を決断。
その後も協商軍は『大撤退』と呼ばれる撤退戦を繰り広げるがドイツ帝国軍の進撃を止めることができず、西暦1914年8月18日にはル・カトーで護りを固めていたイギリス海外遠征軍を
退却に追い込んだドイツ帝国軍がフランス国境を突破することに成功、本格的にフランス本土侵攻を開始する。

時は少々遡る。
シュリーフェンプランに則りドイツ帝国軍主力がベルギーを蹂躙しながらフランス本土を目指して進撃している一方、協商軍の主力を担うフランス軍も対ドイツ戦争計画であるプラン17に従い
仏独国境に4個野戦軍45個師団を中核とした地上部隊と陸軍航空隊の大半を展開させ、1914年8月10日には航空部隊の支援を受けたフランス軍が国境を突破してドイツ領内への大規模侵攻を開始した。

このとき、ドイツ帝国は国境防衛の為に第6軍と第7軍、第1、第5航空艦隊が独仏国境地域に展開しており、上空では協商軍航空隊とドイツ帝国陸軍航空隊による一進一退の激しい航空戦が発生、
『SPADⅧ』や『フォッカーD.Ⅱ』などはもちろん、史実キ10-Ⅱ改をモデルに倉崎が設計した『SPADⅩ』や史実フィアット CR.42をモデルに三菱が設計した
『フォッカーD.Ⅲ』などの最新鋭機も入り交じる大空戦がアルザス・ロレーヌ上空で繰り広げられた。

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673 : ホワイトベアー sage 2023/01/27(金) 22:03:07
その一方、地上ではドイツ帝国軍は長距離砲撃での阻止攻撃こそ行うが、第6軍と第7軍はフランス軍と直接銃火を交えることなく後退しために
フランス軍は1914年8月14日にはアルザス=ロレーヌで二番目の都市であるミュルーズの占領に成功する。

順調に進む戦況とドイツ帝国軍の脆弱な抵抗にフランス軍は誰もが勝利を革新するが、
しかし、これはフランス軍による本土侵攻を受けたドイツ帝国軍がシェリーフェンプランに従ってフランス軍をキルゾーンに誘導するために行った謀略で、
1914年8月16日には国境を突破したフランス軍第1軍と第2軍は防御陣地の構築が完了する前にドイツ帝国軍による大規模反抗に襲われることになる。
そして、予期せぬドイツ帝国軍の大規模攻勢にフランス軍は混乱、まともな抵抗を行うことすらできずに無秩序な敗走を余儀なくされた。

この好機を逃すほどドイツ帝国軍は優しくも慎重でもなく、フランス軍の敗走が始めるや否や航空部隊と機械化部隊と騎兵部隊を中心とした高速機動部隊を先鋒にした地上部隊による追撃を実施、
フランス軍が国境を突破してから10日後の8月20日にはフランス軍をドイツ帝国領内から叩き出し、逆侵攻をかけることに成功する。

ドイツ帝国軍の中央部を突破するためにアルデンヌ地方で攻勢をかけたフランス軍第3軍、第4軍にいたっては慎重に動きすぎたせいでドイツ帝国軍第4軍と第5軍の先制攻撃を許してしまい、
攻勢をかけるはずが逆に攻勢を仕掛けてくるドイツ帝国軍を相手に防衛戦を強いられていた。


『国境での戦い』によって大きな被害を受けた協商軍は戦力の立て直しの必要に迫られ、攻勢を強めるドイツ帝国軍を相手に遅滞戦を行うことで再編が終わるまでの時間を稼ごうとした。
しかし、1914年8月26日、協商軍が反撃の準備を整える前にドイツ帝国軍はパリをその射程範囲に収めてしまう。

フランス軍総司令官ジョフルはパリよりもフランス軍の再編を重視しており、例えパリが陥落しても軍の立て直しが完了させ、ドイツ帝国軍野戦軍を撃破すれば戦争に勝利できると考えていた。
そのため、ジョフルの中では護り難いパリの陥落は確定事項で、その後どのように戦争を行っていくかが重要視されていた。
ジョフルの考えもあって、この時のパリには予備役で構成された後備師団5個を中心に編成された第7軍しか戦力が存在せず、控えめに言ってもパリ防衛は絶望的と言わざるを得ない状況に置かれていた。

そんな状況でありながらもフランス第7軍の士気は高く、武器を手に取ったパリジャン達を戦時徴用という形で正規軍に組み込み、
パリに攻撃を仕掛けてきたドイツ軍第1軍を相手に激しい防衛戦を展開する。
このフランス軍第7軍とドイツ帝国軍第1軍の衝突によってパリでは30年戦争以来欧州のトラウマであった市街地戦が発生することになり、
予想外の抵抗と戦況になったドイツ帝国軍はパリへの攻勢に力を入れ他を疎かにしてしまう。

パリにおけるフランス軍とパリジャン達の徹底抗戦を受けた協商軍は友軍の籠もる自国(同盟国)の首都を見捨てる政治的なリスクを許容できなかったことと、
パリと言う極上のエサにドイツ軍が食い付き、それに夢中になっていると判断したこともあって協商軍はパリを解放するために
動員できる限りの地上戦力と航空戦力を動員した一大反抗作戦を開始する。

文字通り協商軍の全力を絞り出した反抗作戦によって協商軍はパリを攻撃していたドイツ軍第1軍を突破し逆に半包囲下におくことに成功、
同時にフランス第5軍がドイツ帝国軍第2軍に攻勢をかけることで相互の連携を遮断させ、パリでは戦車部隊と航空戦がの支援を受けた協商軍10個歩兵師団がフランス軍第7軍救援のために突入、
半包囲下においた第1軍に対して市街地であろうと構わず徹底的な重砲と航空部隊による砲爆撃を行うことで甚大な損害をあたえることに成功する。

協商軍の反抗作戦によって第1軍、第2軍が危機的状況に陥りつつあることを認識したドイツ軍参謀本部はシュリーフェンプランの放棄を決定、
フランス領内に侵攻していたドイツ軍をエーヌ河のラインまで撤退させ、防衛陣地の構築を開始させる。

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674 : ホワイトベアー sage 2023/01/27(金) 22:03:40
ドイツ帝国軍が後退したことで協商軍はパリを護りきることには成功した。しかし、協商が受けた被害は極めて大きいものであった。

協商軍は文字通りパリで死闘を演じたフランス軍第7軍はその戦力の8割以上を喪失、他の軍も再編中に動かしたこともあって1から再編をし直す必要に迫られ、
協商軍はしばらくは大規模な攻勢作戦を実施するのは不可能となった。
戦場となったパリは首都としての機能はもちろん都市としての完全に打ち砕かれ、エッフェル塔やノートルダム大聖堂、エリゼ宮殿、凱旋門など多くの歴史的な意義を持つ建築物が倒壊もしくは半壊、
ルーブル美術館なども荒らされてしまい、フランス最大の中心としてして長らく栄華を誇っていたパリは血と硝煙と瓦礫が支配する廃都へとその姿を変えていた。

また、パリが陥落しかけたと言う事実はフランス国民に大きな心理的ショックを与えてしまう。
幸い陥落を免れた事から士気の向上と言う良い方向にフランス国民の世論は動いたが、最悪心が折れかねない事態にまでいく可能性も十分あっただろう。

都市機能や首都機能を1から整備しなおさなければならない上に、何とかドイツ帝国軍の撃退に成功したと言ってもセーヌ川の向こう側がドイツ帝国軍の占領下に置かれいる以上、
安全保証上のリスクが高いことを受けてフランス政府は正式に首都機能をボルドーに移転させる事を決定、戦火に焼かれたパリは協商軍の兵站拠点として再建が進められていく。

協商軍ほどではないがドイツ帝国軍もここまでで少なくない被害を出していたために攻勢には消極的となり、以後の西部戦線では海への競争と呼ばれる塹壕戦が繰り広げてられていくことになる。



西部戦線において協商軍とドイツ帝国軍の戦闘が行なわれ始めたのと同時期、フランスの同盟国であるロシア帝国はドイツ帝国の予想を上回る速度で軍の動員を終了させ、
西暦1914年8月17日には2個野戦軍で構成されるロシア帝国陸軍西北正面軍がドイツ帝国国境を突破してプロイセンへの侵攻を開始したことで東部戦線と呼ばれるもう一つの戦線が誕生した。

ロシア軍の動員の遅いと思っていたドイツ軍は心理的にも物理的にも奇襲を受けることになり、西部戦線でドイツ帝国軍第6軍と第7軍がフランス本国への逆侵攻に成功した8月20日には
グンビンネンの戦いで『T-26』中戦車と『T-6』軽戦車を装備した3個騎兵師団と6個歩兵師団からなるロシア帝国軍第20軍団の攻勢にさらされたドイツ第8軍が敗走、
一時的に東プロイセンの放棄すら検討されるほどの危機的状態に陥ってしまう。

事態を重く見たドイツ軍参謀本部は第8軍の司令官を交代させると同時に西部戦線から2個軍団を東部戦線に転進させることを決定、新司令官としてヒンデンブルク大将、
その参謀長としてルーデンドルフを任命する。

彼らは着任すると早々に〘ロシア第1軍、第2軍の不連携に乗じてロシア第1軍には最低限の戦力で防御に徹し、第8軍主力をもってタンネンベルク付近にいるロシア第2軍を撃破する〙といった
マックス・ホフマン中佐の提案を承認、ドイツ軍第8軍は鉄道を使ってロシア軍に気づかれる前に部隊の移動を完了させ、8月26日よりドイツ軍第8軍は
全力をもってロシア軍第2軍に対して攻勢を開始、タンネンベルク会戦の幕が上がった。

この戦いはドイツ軍の勝利で終わるが、満州戦争のトラウマからロシア軍が航空兵力と機械化部隊の整備に力を入れていたこともあって
史実では間に合わなかったロシア第1軍がロシア軍第2軍の救援に間に合ってしまい史実ほどの大勝利は納められなかった。
それでもロシア第2軍に極めて大きな被害を与えることには成功、戦力の再編のためにロシア帝国軍はドイツ帝国領土から撤退を余儀なくされる。

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675 : ホワイトベアー sage 2023/01/27(金) 22:04:49
最後に、大戦の元凶であるオーストリア・ハンガリー帝国であるが、彼らはドイツとの付き合いもあってロシアに戦線布告こそしたものの、
その後はロシアとの国境から30km離れた場所に強固な塹壕陣地を構築し、軍隊を駐留させて護りを固めはしたがそれ以上の行動は一切取らなかった。

これはロシア帝国川も同様で一応、オーストリア・ハンガリー帝国との国境から30km離れた場所に1個軍を派遣して護りを固めることはしたが、
オーストリア・ハンガリー帝国領土には一切侵攻しようとはせず早々に強固な塹壕陣地の構築を開始、その後の墺露国境では戦闘休止状態が終始続く事になる。

むろん、これは偶然おこったのではない。
日米が満州で大規模な軍を展開しているせいで極東軍を欧州戦線に動員できず、下手に敵を増やしたくないロシアとセルビアを殴りただけでドイツ帝国の戦争には巻き込まれたくないオーストリア、
両国の利害の一致を見たイギリスが開戦前より暗躍した結果、この時にはロシアとオーストリア間で非戦に関する密約が締結されていたのだ。

このこともあってオーストリアはバルカン戦線に全力を出すことができ、史実より国力の小さいセルビアが本気のオーストリア軍の攻勢に耐えるはずもなく
早々に全国土を占領され、バルカン戦線は極めて早く終結する事になった。
戦争目標を達成したオーストリア・ハンガリー帝国はセルビアでのパルチザン掃討や協商国と奇妙な戦争こそ行うものの、東部戦線での“直接的な行動”などを求める
ドイツ帝国からの要求に対してはあれやこれやと理由をつけて回答を先延ばしながら、日本から輸入した資源や物資をドイツ帝国に(高値で)売ることで
ドイツ帝国と協商国が苛烈な戦いを東西両戦線を繰り広げているなか、それを尻目に1人平和を取り戻すことになる。

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676 : ホワイトベアー sage 2023/01/27(金) 22:05:19
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最終更新:2023年07月09日 12:19