646: 透過の人 :2019/07/18(木) 18:33:36 HOST:softbank126077075064.bbtec.net
日墨ルート
大戦後の勢力圏再編は同盟国側に限った話ではなかった。
フランス、オーストリア、イギリスといった連合国側も勢力圏の再編を必要としていた。特に第一次世界大戦で本土が戦場となった、フランスとオーストリアは急務だった。
第一次世界大戦は総力戦であったこともあり植民地からも多くの兵士が動員された。そうした植民地の戦争協力への報奨として、フランスは各植民地にある政策を拡大、発展させる事にした。
ある政策とは、従来アルジェリアでしか行われていなかった自治政策だった。これは現地の法、慣習を認めるとともに現地住民を市民権のないフランス国民と定義し、申請、審査を経て認められればフランス市民権を得ることができる、としたものだった。
ナポレオン3世はこの政策をアルジェリア以外にも広めようとしたがそれを果たせぬまま病死し、ナポレオン4世も国内の強い反対を押し切ってまで実行に移す必要はないと考えていたため、アルジェリアのみの適応となっていた。
しかし、第一次世界大戦後、フランス政府は上記のとおり植民地の自治領化を推進し、フランス帝国連合として再編することになる。
オーストリアでも大戦中のフランツ・ヨーゼフ1世の死によって即位したフランツ・フェルディナンド大公が、帝国の再編に取り掛かっていた。
係争地であったボスニア・ヘルツェゴビナについては国際管理の名のもとでオスマン帝国との事実上の共同統治とすることで解決した。あとは国内の再編だけだった。
オーストリア帝国も国内の諸民族に自治を認めることでドナウ連邦として再編を果たした。
そして、フランス、ドナウの2国はさらに大きな計画に取り掛かる。両国を中心にイギリス、ポルトガルの他敗戦国のイタリア、ベルギーも加えた形で汎ヨーロッパ連合を形成しようとしたのだ。
結果的にこれはイギリスの不参加や関税その他に対する考え方の違い、そして中心となる汎ヨーロッパ会議の所在地などをめぐり空中分解した為創設されなかったが、
フランス、ドナウの両国による装備品共同開発協定(注)や、ベルギー、イタリア、オスマンを加えた合同訓練の実施など一定の成果をあげた。

647: 透過の人 :2019/07/18(木) 18:34:13 HOST:softbank126077075064.bbtec.net
イギリス領インドでは自治を求める運動が戦前から盛んだったが、
戦後連合国の一国であったフランスが各植民地の自治を認めたことから更に運動は拡大して行った。(注2)
この動きに対して、イギリスは当初弾圧を強めたが、やがて運動の中で過激な社会主義、無政府主義が、
対等し始めると方針を転換し、それらの排除と引き換えに自治を認める形となった。
しかし、マハラジャを始めとした前時代的とされた人々が残っていたことや、
カーストに基づく差別解消を放置したことからインド自治領内から批判があり、
また、インドに自治を認めたことはオーストラリア、南アフリカといった他の自治領からの不満も大きかった。
こうしたことから、大英帝国再編という難事業を成し遂げたにも関わらず、
自由党は二大政党の座から降りることになる。

注1 ただし生産の分担で大いに揉めた他、戦車の共同開発では電気駆動採用を主張する
ローナー社の天才ポルシェ博士とそれを否定するフランス側の攻防が長く続き生産の遅延を招いた。
注2 イギリスが汎ヨーロッパ会議に参加しなかったのは、戦後イギリスの世論の他こうしたインド情勢を招いた
元凶と言えなくもないフランスへの反発があるとも言われている。

648: 透過の人 :2019/07/18(木) 18:34:51 HOST:softbank126077075064.bbtec.net
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最終更新:2019年07月19日 22:06