739: 透過の人 :2019/07/23(火) 11:54:44 HOST:softbank126077075064.bbtec.net
日墨ルート
1925年、中華民国と中華連邦の中国を2分する争いは突如として終わりを告げた。
3月12日、中華民国総統孫文がガンのため死去、中華民国政府は後継者をめぐる争いで分裂したのである。
中華連邦軍は北上し、分裂状態にあった中華民国軍を次々と撃破し南京に迫った。4月14日、孫文の側近であった李烈鈞がクーデターで中華民国総統に就任、中華連邦に降伏した。
そうして中華民国は滅ぼされ、中華連邦軍は国旗である鉄血十八星旗を南京に掲げた。

しかし、統一に成功したといっても問題は山積みだった。
第一次世界大戦中の清国との戦いで荒廃した華北の復興、ドサクサ紛れに独立を宣言していたカンデンポタンとウンゲルン朝ジュンガル帝国への対処(注1)、そして清国との戦いから第2革命に至るまでに列強各国がバラまいた武器の代金の支払いと借款の返済などがあったが(注2)、
その中でも大きな問題となっていたのが、2度の革命に伴う中国大衆のナショナリズムの高まりと第2革命終結後の連省自治の名を借りた軍閥化の進行だった。
特に後者は連省自治を目的をしながらもあくまでも法の支配を望む宋教仁にとっては受け入れられるものでは無かった。
宋教仁は軍閥を打倒しようと外国勢力の利用すら考え始める。一方、宋教仁の排除を目論む軍閥勢力もまた同じような事を考えていた。

これらの思惑と中国大衆のナショナリズムが合わさった結果、列強各国は義和団事件以来再び中華の大地に兵を送る事になる。

注1 モンゴルが除かれているのはボグド・ハンと首相に就任したグンサンノルブの下で日本の支援を受けながら近代化を達成しており、制圧は不可能と考えられた為。
一方、チベットは未だに弱体であり、ウンゲルン朝ジュンガル帝国も圧政によって不満が高まっており、用容易に制圧できると考えられていた。
注2 一応、ワシントン講和会議でイタリアとベルギーの請求権は無効とされていたがもともと大した額でもなかった。
ちなみに両国とも第2革命中期より武器輸出を再開しており、その後の高性能な小火器で知られる武器輸出産業の復活のきっかけとなった。

740: 透過の人 :2019/07/23(火) 11:56:42 HOST:softbank126077075064.bbtec.net
投下終了です。
次回も中国回です。多分。

それにしても米戦艦どうしよう…

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最終更新:2019年07月29日 09:04