623 : ホワイトベアー 2023/03/20(月) 22:04:55
日米枢軸ルート 第28話

フランスもしくはロシア帝国と戦争になった場合、如何に露仏同盟による二正面作戦を避けるか。これはドイツ帝国の国防戦略上最大の命題であった。
この解答としてドイツ帝国軍が考えついたのが、長大な国土を有するがゆえのロシア帝国側の動員の遅さを利用し、フランス側の防御が固い独仏国境でなく中立国のベルギー領を侵犯・通過するルートで侵攻することで、ロシア帝国の動員が済む前にフランスを攻め落とすとした【シュリーフェン・プラン】である。


サラエボ事件によって露仏との戦争が避けられないと判断したドイツ帝国はこの【シュリーフェン・プラン】に基づいてベルギーおよびフランスに宣戦を布告。一時はパリをその射程範囲内に収めるなど、あと一歩でフランスを屈服させられるまで協商を追い込むことに成功した。

しかし、東部戦線において戦前の想定より遥かに早く動員を終えたロシア軍が侵攻を開始したことによって【シュリーフェン・プラン】に狂いが生じ、西暦1914年8月26日から9月12日まで続いた【パリの戦い】で協商軍に敗北を喫し、戦線をエーヌ川まで後退させることを余儀なくされたことで【シュリーフェン・プラン】は破綻を迎えてしまった。

ドイツ陸軍参謀総長ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケは、自分の軍人人生の集大成といっても過言ではない【シェリーフェン・プラン】が失敗に終わったという事実に大きな精神的ショックを受け、職務に支障をきたすと判断されたために更迭されてしまう。
彼の後任としてはプロイセン王国軍事大臣であったエーリッヒ・フォン・ファルケンハインが新たにドイツ帝国軍参謀本部総長に任命された。

ファルケンハインは参謀本部総長に就任してすぐに詳細な戦況報告に目を通し、いくら英仏軍に大きな損害を与えたと言っても【パリの戦い】において敗北し、【シュリーフェン・プラン】が失敗した以上は西部戦線において普仏戦争のような完全な勝利を掴むのは不可能と判断する。

その上で彼は持久戦に持ち込むことで英仏露に出血を強要し、協商陣営の厭戦気分を高めてドイツ帝国に有利な条件で講和に持ち込むことこそこの戦争で自分たちが勝利を掴める唯一の手段だと考えた。
ファルケンハインは自らの考えを【消耗戦略】と名付け、この考えに則りドイツ帝国軍の戦略を【シェリーフェン・プラン】のような野戦軍の撃破や敵国の重要地域の占領などを目指す能動的ものから、護りを固めて攻撃を仕掛けてきた敵軍に損害を与え続ける受動的なものに変更させていった。

本国での方針転換を受けて、エーヌ川まで撤退していた第1軍と第2軍、第7軍などを含めた西部戦線のドイツ帝国軍部隊には破壊されたベルギーの輸送インフラの再建を中心とした補給線の整備や塹壕陣地や野戦飛行場の設営などを実施し、持久戦に備えるよう参謀本部から命令が下される。
しかし、ファルケンハインによる戦略の転換とそれに伴って下された一連の命令は前線部隊の猛反発を招いてしまう。

というのも当時の西部戦線のドイツ帝国軍はパリの攻略こそ失敗したがその後に行われたフランス軍の反抗は撃退するなど、それ以外での戦闘では連戦連勝を飾っていた。
また東部戦線では侵攻してきたロシア軍に大損害を与えた上にドイツ帝国本土から撃退することに成功。
海では地中海艦隊が不可能と思われていたドーバー海峡の突破を成し遂げてウィルヘルムスファーフェンまで辿り着き、東洋艦隊もイギリスの内海であるインド洋で縦横無尽に暴れていることも新聞などを通して知らされていた。
そのため西部戦線のドイツ帝国軍部隊の士気は極めて高く、将兵問わず『英仏は土台の腐った納屋だ。扉を一蹴すれば倒壊する』と声を荒らげさらなる攻勢を主張していたのだ。
そうであるからこそ、ともそれば消極的に見えるファルケンハインの戦略に対する現場の不満が大きく噴出してしまう。

また、銃後からもファルケンハインの戦略に反対意見が多かった。
何しろファルケンハインの主張する消耗戦略は長期間戦争が続くことを前提としている。その負担が莫大なものになることは政治家や役人、財界、一般国民問わず理解できた。
そうであるからこそ【国境の戦い】や【東部戦線】、地中海やインド洋で〘精強なる帝国軍〙が上げた戦果に酔いしれていた政府や財界、国民、果には帝室までもがそんなまどろっこしい上に負担の大きな戦略を取るのではなく、正面から協商軍を叩きのめし普仏戦争の時のようにフランスに城下の盟を押し付ければいいと声高に叫んでいた。

どちらかだけなら話は違っただろう。
だが、現場と銃後の双方から猛烈な反対意見をぶつけられてしまった以上、参謀本部総長兼陸軍最高司令官であったファルケンハインであってもこれらの意見を完全に無視することができるはずがない。

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624 : ホワイトベアー 2023/03/20(月) 22:05:25
結局、ファルケンハインはこうした声に押し切られる形で、フランス軍側面を突破し協商軍の左翼側面を包囲することを目的とした戦線右翼での攻勢と、戦線右翼での攻勢の支援のため、戦線右翼で攻勢が開始された際に協商軍戦線右翼の部隊を拘束することを目的とした戦線左翼での限定的な攻勢を行うことを認めざるをえなかった。

ファルケンハインの苦悩を他所に、本国から攻勢の実施を認められた西部戦線のドイツ帝国軍は攻勢に向けて予備役を中心とした補充部隊による各軍の再編や戦力補充、ナンシー付近に展開していたドイツ帝国軍第6軍を戦線右翼に位置するリール付近に移動させるなどの部隊配置の転換など攻勢の準備のために動きを活発化させていく。

一方、ドイツ帝国軍と対峙していた協商軍では今後の西部戦線における方針を巡り英仏は意見を真っ向から対立させていたためにその足並みが大きく乱れていた。

イギリスは【国境の戦い】において史実同様にフランス軍の事情に振り回され、仏独国境方面で大敗したフランス軍ほどではないがイギリス遠征軍の地上戦力に決して少なくない被害をうけていた。
島国ということもあって陸軍力をそこまで重視してこなかったイギリスは、フランスやドイツのような莫大な予備役や徴兵システムを有していない。
世界中に有する植民地から植民地軍を動員すれば話は別であるが、予備戦力という面では独仏両国に大きく劣っていた。
これをカバーするために植民地軍を動員しようにも、植民地から欧州まで移動させるのにも一定の時間がかかる。
何より、同盟国側に戦艦や航空機、戦車などをバラまいた大日本帝国及びその同盟国であるアメリカへの備えも必要である以上、大規模な戦力を植民地から抽出するのは事実上不可能であった。
これらもあってイギリス軍は補充戦力を本国の志願兵に頼らざるを得ず、戦力の補充能力、補充スピードともにフランスやドイツのような陸軍国には大きく劣ってしまっていた。

そうであるからこそドイツ帝国が護りを固め始めた以上はこちらも補充戦力の到着と戦力の再編が済むまでは護りを固めるべきだとイギリスは主張していたのだ。

一方、自国を戦場とされているフランスや領土のほぼすべてをドイツ軍に占領されたベルギーとしては、イギリスの主張は極めて悠長かつ楽観的なものと言わざるをえなかった。
何しろ、当時のフランスはさらにパリを瓦礫の山に変えられ、未だに北フランスの一部をドイツ帝国軍に占領されているという屈辱的な状態である。
さらに、護りを固め終えた場所への攻勢が何をもたらすかをフランスはプラン17の失敗と言う形で身をもって学んでいたこともあって、フランスはドイツ帝国軍が護りを固め終わる前に反抗作戦を実施するべきだと攻勢を強固に主張していた。

お互いに一歩も引かずにイギリスとフランス、西部戦線において協商軍の中核を担う2カ国が今後の方針を巡って相争っていたのだ。

最終的に両者の対立は反抗作戦こそ行うものの、イギリス遠征軍は参加せずにフランス軍のみでこれを行うとした折衷案が成立したことで何とか纏まった。
そして【パリの戦い】から2日ほど経った9月15日、エーヌ川に沿うように防衛線を築いていたドイツ帝国軍を本土から叩き出すため、フランス軍は第5、第9、第6軍の3個野戦軍と2個航空軍団を投じた大規模な攻勢を開始、【第一次エーヌ会戦】と呼ばれることになる仏独軍の衝突が幕を上げる。

この時のフランス軍は【国境の戦い】と呼ばれる開戦直後に行われた一連の戦闘と【パリの戦い】にて莫大な損害を出していた。
だが、それでも【パリの戦い】において勝利を掴みんだこと、ドイツ帝国軍の大攻勢を撃退した上で戦線をエーヌ川まで押し上げた事実、さらに国土から侵略者たるドイツ軍を叩き出すという大義もあってその士気はまったく落ちてはいなかった。
さらに、第5軍は【国境の戦い】からドイツ帝国軍主力と殴り合ってきた精鋭部隊であり、その装備も大は『ルノーFT-10』中戦車から小は『MAS1910』自動小銃までフランス軍の最優秀装備で固めていたことから戦力としての優秀さは折り紙付きであった。
第6、第9軍は予備役を中心とした部隊で練度こそ正規兵より劣るものの、開戦初期の戦いにおいては編成途中であったことから野戦軍ほぼ無傷の戦力を有している。

航空戦力に関しても、『SPADⅧ』戦闘機はもちろん、中島が開発し、ブレゲー社が製造を担当する500kgの積載能力を持つ攻撃機である『ブレゲーⅢ』、同じく中島が開発し、ファルマ社が製造を担当する最大で1,800 kgの積載能力を持つ軽爆撃機である『ファルマン F.6』など合わせて800機の航空機をフランス軍はかき集めていた。

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625 : ホワイトベアー 2023/03/20(月) 22:05:56
対するドイツ帝国軍であったが、彼らはすでに断崖やエーヌ川など要害堅固な地形を利用し、塹壕と機関銃陣地や速射砲陣地、さらに後方に105mmクラスの重砲と76mmクラスの野戦砲を装備する砲兵部隊を配置した防衛陣地の構築を終えていた。

航空戦としては、これまで西部戦線北部方面で主力戦闘機として活躍してきた『フォッカーD.Ⅱ』戦闘機はもちろん、独仏国境方面でフランス軍航空部隊を圧倒した最新鋭戦闘機である『フォッカーD.Ⅲ』戦闘機すらも配備されていた第1航空艦隊と第3航空艦隊の2個航空艦隊が彼らの上空を護ることになっていた。もっとも、これらの部隊は今だにベルギーの輸送インフラの再建や野戦飛行場の設営が完了していなかったことから本国の野戦飛行場に展開していたが……。

ドイツ帝国軍の航空部隊が今だに後方のドイツ帝国本土に展開していることは協商軍も掴んでいた。
そうであるからこそ攻勢の立案時には航空攻撃は十分に機能すると考えれていた。しかし、ドイツ帝国軍はこの距離のギャップを埋めるために対空聴音機を用いることで不完全ながら早期警戒網と通信体制の整備を行っており、協商軍の想定よりはるかに早くフランス軍航空部隊の接近を探知されてしまう。
これにより航空機による奇襲を計画していた協商軍航空部隊は当初の想定に反したドイツ帝国軍航空部隊の激しい歓迎を受けることになった。

地上戦でもフランス軍の部隊はエーヌ川を渡河する際に機関銃を装備するドイツ帝国軍の機関銃陣地や105mmクラスの重砲と76mmクラスの野戦砲を装備する砲兵部隊の攻撃にさらされ、歩兵部隊の盾として期待されていた戦車部隊もドイツ帝国軍が装備していたしていた53.7口径47mm速射砲によって大きな被害を受けてしまう。
それでもフランス軍は攻勢を継続したが、ドイツ帝国軍の防衛線を突破することはできずにただただ被害を積み上げていくだけで何の成果も得られず、1914年9月28日にはこれ以上の攻勢は無意味だとしてフランス側も防衛陣地の構築に移行する。

このエーヌ会戦での戦訓から、両軍ともに正面から敵の防衛線を突破するのは困難と判断。
未だに戦力が整っていない相手の側面を突破し、敵軍の北側を包囲することで膠着した戦線を一気に動かすべきだと思考を転換することになる。

偶然にも一致したこの方針に従い、協商軍とドイツ帝国軍は9月17日から11月22日にかけて西に西にと部隊を動かし始めていく。
そして、両軍の部隊展開が大西洋を目指して競争を行っているように見えたことから【海への競争】と名付けられた一連の戦いが開始された。

この戦いは相手が護りを固める前に敵の側面を突破する・相手の部隊が攻撃を仕掛けてくる前に防衛線を構築することが求められた。そのため、両軍ともに戦車や自動車等によって機械化された快速部隊が再び大々的に投入されていく。

【海への競争】では装甲を妥協して高速性を実現していたホーネット中戦車を有するBEF機甲部隊が、低速な歩兵支援戦車であるPkw27を主力とするドイツ帝国軍機甲部隊を翻弄し、さらに協商陣営の勢力圏内での戦いであったことから万全の航空支援を受けれたこともあって、協商軍は主導権を得ることはできた。

しかし、【海への競争】の中期になるとベルギー各地にドイツ帝国軍が設営していた野戦飛行場が機能し始めたことでドイツ帝国軍側の航空戦力の戦闘可能時間が劇的に改善してしまう。

機動展開能力こそドイツ帝国軍に勝っていたが協商軍であったが、【国境の戦い】で負った損害を回復しきれておらず、機甲戦力自体はドイツ帝国軍の方が大きかった。
そこに不足する数を補う航空戦力面でのアドバンテージが大きく減少していったこともあって、協商軍はドイツ帝国軍を押し切ることはできなかった。

ベルギー内に野戦飛行を設けたことで空での戦いはイーブンにまで押し戻すことには成功したドイツ帝国軍も、自分らのテリトリー内で戦える協商軍の護りを突き崩せず、1914年10月19日に協商軍がディクスムイデから北海までの地域に部隊を展開させたことで【海への競争】は終了を迎えてしまう。

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626 : ホワイトベアー 2023/03/20(月) 22:06:28
しかし、【海への競争】が終了したあともドイツ帝国軍は依然として西部戦線の突破を諦めてはいなかった。
彼らは何とか協商軍の護りを突破できないかと戦況や両軍の部隊配置を徹底的に分析、この膠着した西部戦線を一気に打開できる協商側のアキレス腱を見つけ出す。

そこは北海に近いベルギーの町であるイーペルを中心とした地域であった。
当時のイーペルはイギリス遠征軍を主力とした協商軍の支配下にあったものの、その側面に展開していたベルギー軍とフランス第10軍がドイツ帝国軍の圧力によって後退してしまったため突出部のようにドイツ軍陣地内に張り出していた。
これを受けてドイツ帝国陸軍参謀本部は反包囲下にある同地を短期間のうちに突破することで西部戦線における協商軍の防衛線を突き崩そうと考えたのだ。

参謀本部の考えを受け、ドイツ帝国軍はアルブレヒト・フォン・ヴュルテンベルク率いるドイツ帝国軍第4軍とクロンプリンツ・ルプレヒト・フォン・バイエル将軍が率いるドイツ帝国軍第6軍を動員した大規模な攻勢を立案。
両軍は共に西部戦線初戦における主力部隊であったことから少なくない損害を負っていたが、この頃には予備役を中心とした部隊による穴埋めが完了していた。
そして、西暦1914年10月19日より38個師団という大軍がイーペルを中心とした突出部への攻勢を開始し、後に【第一次イーペル会戦】と呼ばれることになる大規模な戦いが幕を上げる。

ドイツ帝国軍は地上部隊による攻勢を前に少しでも協商軍の戦力を削ろうと、第1、第2航空艦隊から抽出した戦爆連合部隊を出撃させており、両軍の航空部隊がこの戦いの火蓋を落とした。

この時投じられたドイツ帝国軍戦闘機部隊にはこれまで西部戦線北部方面で主力戦闘機として活躍してきた『フォッカーD.Ⅱ』戦闘機はもちろん、独仏国境方面でフランス軍航空部隊を圧倒した最新鋭戦闘機である『フォッカーD.Ⅲ』すらも配備されていた。
それらを操るパイロットも開戦後から飛び続けているエースパイロット達で、彼ら当時のドイツ帝国航空部隊のなかでは間違いなく最強の戦闘機部隊であった。

対する協商軍であるが、前線部隊に配備されていた空中聴音機でドイツ帝国軍航空部隊の動きを察知すると
、迎撃のために『SPADⅧ』戦闘機を装備したフランス軍戦闘機部隊を野戦飛行場から出撃させた。

『SPADⅧ』戦闘機は史実九二式戦闘機を基に開発された優秀な戦闘機で、パイロットの腕もあって『フォッカーD.Ⅱ』とならば互角以上に戦うこともできた。
しかし、史実において最高の複葉戦闘機の1つとして評価されるCR.42を基に開発された『フォッカーD.Ⅲ』を操るドイツ帝国軍の精鋭パイロット達を前にしてはそうはいかなかった。
協商軍戦闘機部隊はドイツ帝国軍航空部隊の迎撃に失敗、イーペル突出部において守りを固めていた協商軍地上部隊は500 kgの積載能力を持つ『ファルツ D.LXVI』急降下爆撃機や680 kgの積載能力を持つ『ゴーダ G.LXXV』中型爆撃機などのドイツ帝国軍爆撃機による攻撃に晒されてしまう。

航空部隊による攻撃の混乱を最大限活かすため、ドイツ帝国軍戦爆連合の攻撃終了から時間をおかずに第1、第2、第3騎兵軍団に属する6個の騎兵師団(機械化師団)を先鋒としたドイツ帝国軍地上部隊が攻撃を開始、イープルの北東にあるランゲマルクにおいてイギリス遠征軍第4軍団と接敵したことで本格的な地上戦が幕を開けた。

『Pkw27』中戦車を先鋒とするドイツ帝国軍に対してイギリス遠征軍第4軍団は従来型の歩兵中心の部隊で、さらに彼らには当時の欧州において対戦車戦力の中核であった重砲や対戦車砲もイギリス本国の国内事情によって十分な数が配置されていなかった。
これで戦車を中核とした部隊にまともに対抗できるはずもなく、第4軍団は果敢な抵抗を見せるも短期間のうちに全面敗走の危機に陥ってしまう。

第4軍団がドイツ帝国軍の大軍と接敵した旨と彼らが危機的に陥っているとの情報は即座にイギリス遠征軍総司令部に届けられた。

幸いというべきか、当時のイギリス遠征軍はフランス軍と共同でイーペル突出部を橋頭堡とした攻勢を計画しており、
イギリス陸軍の虎の子である第1、第2、第3戦車師団を主力としたイギリス陸軍唯一の機械化軍団にして、本国での混乱によって戦車や火砲などの重装備や弾薬の不足にあえぐイギリス遠征軍にあって唯一十分な数の重装備と弾薬が与えられていたダグラス・ヘイグ将軍率いる第1軍団が第4軍団の付近を移動中であった。

第4軍団からの報告を受けたイギリス遠征軍総司令部は迷うことなく第1軍団を救援に向かわせることを決定。
同時に劣勢にある空での戦況を覆すため、王立空軍の虎の子である王立空軍第1航空旅団を中核としたイギリス航空遠征軍主力の投入も決断する。

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627 : ホワイトベアー 2023/03/20(月) 22:07:01
王立空軍第1航空旅団は史実フォッカーD.XXIを基に開発された単葉戦闘機である【RAF Fe37】など、強力かつ先進的な単葉機が集中的に配備されている王立空軍の最精鋭部隊であった。
彼らの登場によって、協商軍はドイツ帝国軍優勢であった空での戦いを互角の状態にまで持ち直す。

地上でもドイツ帝国軍の猛攻に対して絶望的な状況にあったイギリス遠征軍第4軍団がそれでもなお果敢な抵抗を見せ、ボルトアクション式小銃でありながら1分間に約15発の銃撃を可能とするほどの精兵達を多く失いながらも第1軍団が到着するまでの間防衛線を維持し続けた。

第1航空旅団を主力とした航空遠征軍主力や第1軍団が戦線に到着したことで、航空優勢の喪失や砲の数と砲弾量の問題によって消極的にしか動けなかったイギリス遠征軍砲兵部隊が全力を出せるようになり、協商軍は一時的にではあるがドイツ帝国軍を押し戻すことに成功する。

しかし、ドイツ帝国軍はイーペル突出部を中心とした西部方面への攻勢に師団だけでも36個もの大戦力を投入していた。
対する協商軍はイーペル突出部で護りを固めるイギリス海外遠征軍全軍で10個師団、イーペル突出部の付近にいるベルギー軍全軍、さらにフランス第8軍を合わせても師団規模戦力は28個師団しかおらず、両軍の戦力には大きな差が存在していた。
さらに戦場となっているイーペル突出部の協商軍防衛線は上記した通りドイツ帝国軍の防衛線に突き刺さるように形成されている。
すなわちドイツ帝国軍の反包囲にあることと同義で、防衛線を展開するには適しているとはとても言えない状況にあった。

いくら防衛側であるとは言え、数で劣る上に半包囲にある状況でドイツ帝国軍の大規模攻勢を防ぎ続けるのは負担も犠牲も大きいことなど誰の目にも明らかである。

当然、イギリス海外遠征軍もそのことは十二分に理解しており、戦闘開始初期から戦線の突起部であるイーペル突出部からの撤退と戦線の再編を検討していた。
しかし、イーペル突出部は今や協商軍が確保している数少ないベルギー領の一部であることからベルギー軍が撤退に難色を示した。
これだけならイギリスも黙らせて撤退することができたが、攻勢の起点として利用できるその立地は戦略的価値が高く、フランス側もベルギーの方を持つ形でイーペル突出部の放棄に反対してしまう。
流石のイギリスも西部戦線における協商陣営の主力たるフランスの意見を無視することはできなかった。
最終的にはフランス軍が増援の約束したこともあってイーペル突出部での防衛戦の継続をイギリス側は承諾。途中、ドイツ帝国軍の策源地の一つであるメニンとイーペルを結ぶメニン街道の要衝であるゲルベールが陥落するなど幾度かの危機的状況に陥ったが、それでもイギリス遠征軍は数でまさるドイツ帝国軍の猛攻を約一ヶ月間に渡って退け、予備戦力すら枯渇させながらもイーペル突出部を維持し続けた。

死守と表現するしかないイギリス遠征軍の強固かつ果敢な抵抗は攻勢によってドイツ帝国軍も大きな損害を受けていた。
ドイツ帝国軍参謀総長であるファルケンハインはその損害の大きさから攻勢の一時延期を命令、ここにドイツ帝国軍が構想していた電撃的な防衛線の突破による西部戦線の早期集結という目論みは完全な失敗に終わる。
一方の協商軍も【国境の戦い】から始まった一連の戦闘によってすでにほぼ全ての力を使い果たし、以後イーペルでの戦闘は退潮を向かった。

そして、【第一次イーペルの戦い】が終りを迎えた頃にはスイスから大西洋まで続く長大な戦線が西欧に出現し、大戦末期までの数年間の間苛烈な消耗戦が繰り広げられながら一進一退の膠着状態が続くことになる西部戦線がついに完成した。

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628 : ホワイトベアー sage 2023/03/20(月) 22:11:15
以上になります。

前回改訂版の第28話を登場した際は海への競争までで、イーペルの戦いは第29話にしようと思っていたのですが、
海への競争と纏めたほうが話の区切り的にきれいでしたので、イーペルの戦い関連のことを新たに追記した新たな第28話を投稿させていただきました。

wikiへの転載はOKです

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最終更新:2023年09月26日 22:47