848: 透過の人 :2019/07/27(土) 17:50:02 HOST:softbank126077075064.bbtec.net
日墨ルート
1925年10月2日、日本では後に支那出兵と呼ばれることになる軍事行動が始まった。
最初の一撃は満州と台湾から飛び立った日本空軍の爆撃機だった。
高度1万メートルを飛ぶ彼等に対し、大戦初期レベルの航空機しか持たない中華連邦空軍は、
なすすべもなく壊滅し、南京の司令部も大混乱に陥った。
それでもなお上海などの各都市に集結していた陸軍部隊は抵抗しようとしたのだが、
列強の戦艦や空母に支援された陸軍や海兵隊の攻撃により蹂躙された。
さらに北からはロシア軍とドイツ軍、南からは英仏軍が進撃し、各地の軍閥は独立宣言を出して中華連邦という泥舟から逃げ出そうとした。
攻撃開始から1月後の11月3日、宋教仁が隠れていた長砂郊外で自決、中華連邦は崩壊する事になる。

その後、列強各国軍占領下の上海にて中華連邦臨時代表が正式に降伏した。
結果、中華連邦は解体され、中国は以下のように分割された。
広西省、広東省はフランス保護国ベトナム帝国領に、青海省南部、雲南省北西部と四川省の東部はチベットに、
青海省北部、甘粛省西部はウンゲルン朝ジュンガルに、内モンゴルがモンゴル国、河北省北部が満州ウクライナ自治政府(注)にそれぞれ割譲された。
その他、河北省南部、天津、北平、山東省、江蘇省、上海、南京、福建省が国際管理地域となり、雲南の残部はインド自治領の一部となった。

漢民族の国家は残りの地域のみとなるが、そこすらも列強軍参加国で構成される国際連盟支那地域管理委員会の審査と同意を得た後は、
自由に駐屯、入植、交易が可能であり、実質ただの草刈り場として残されたに過ぎなかった。
こうして中華連邦の解体は終わったが、この共同出兵後、日墨を除く各国は歩調を合わせることになる。
この出兵で日本軍という異次元の軍隊が発揮する火力に粉砕される中華連邦軍に自分たちを重ね合わせたからだ。
何しろ、どこの国も高度1万メートルを飛べる爆撃機もそれを護衛できる戦闘機も、75mm砲を搭載した戦車も、保有していなかったからだ。
こうして、世界は徐々に軍縮へと傾き始め、それは1932年のジュネーブ軍縮会議という形で結実する事になる。

注 満州には日露戦争後もユダヤ人、ポーランド人、ウクライナ人などが残っていたが、
大戦後も祖国に帰れなかったウクライナ人は満州にて自治国家を作っていた。
ウクライナ人たちはその後モンゴル人やアイルランド人などとともに日墨勢力圏を代表する傭兵としてその名を轟かせる事になる。

849: 透過の人 :2019/07/27(土) 17:51:05 HOST:softbank126077075064.bbtec.net
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最終更新:2019年07月29日 09:10