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日墨ルート
1927年7月5日、世界では支那出兵以降対日墨を想定した国際協調路線に世界は向かっていると、
考えられていたが、早速それを揺るがしかねない事態が起こることになる。
きっかけはこちらも支那出兵にまでさかのぼる。当時、インド自治領議会では参戦をめぐる議論が続いていたが、
少なくない議員が「アジア人殺し」に対して異を唱えたのだ。
これに対して、南アフリカ、オーストラリアでは「インド人は白人文明を後ろから刺そうとする裏切り者」としてインド人への襲撃が相次いでいた。
これらの動きは自治領政府により容赦なく鎮圧されたが、南アフリカでは逆効果になってしまう。
逮捕者の多くがイギリス統治以前から住むオランダ系入植者アフリカーナーであったため、彼らの民族主義に火を付けたのだ。
それから、2年間地下に潜み、組織を拡大して機を待ち続けた彼らは1927年7月5日に蜂起したのだった。
この蜂起には、ドイツ領西南アフリカ併合後も現地に残り続けたドイツ人も少なからず参加していた。そして、それが問題だった。
すなわち、背後に南西アフリカ植民地再併合を狙うドイツ帝国がいるのではないか、とイギリスは疑問に思ったのだ。
一応、ドイツ帝国内部ではこの蜂起を支援しようとする動きもあったのだが、
そうした不用意な支援が大戦を招いた事を知っていた人々はその動きを必死に止めていた。

そうして、ドイツの不介入が決まった時点でアフリカーナーたちは敗北を悟った。
かつてのボーア戦争でイギリスの強制収容所と焦土戦術でどうなったか、知らない人間はいなかったからだ。

このまま戦い続ければアフリカーナーという民族の滅亡すらあり得る。そう思った彼らはイギリスと交渉を開始した。
イギリス政府としても、必要以上の疲弊は避けたかったため渋々ながら同意することになる。
結果、ドイツ人に関してはドイツに送還されることが決まったが、アフリカーナー達についてはドイツ政府の意向で受け入れを拒否された。
そのため、アフリカーナー達は彼らのルーツであるオランダを頼ろうとしたがイギリスとの関係重視のオランダ政府は拒否。
結局、アフリカーナー達はアメリカに移民することになり、彼らとその子孫たちはアフリカン・アメリカンと呼ばれ主に農業や鉱業に従事し、
アメリカ社会の中で一定の地位を築くまでになる。

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最終更新:2019年07月29日 09:11