895: ホワイトベアー :2019/07/30(火) 16:35:09 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
日米枢軸ルート 第31話

1918年3月3日、ドイツ軍参謀総長ヒンデンブルク元帥は西部戦線に展開するドイツ軍全軍に攻勢の開始を宣言。後に今大戦でのドイツ帝国最後の大攻勢と言われる事になるカイザーシュラハトがその幕を開いた。

この時のドイツ帝国は長引く戦争や、日米が行う戦略爆撃によって人的にも経済的にも破綻一方手前まで追い詰められており、これ以上の戦争継続は戦争の勝敗のみならず国家の崩壊にまで発展しかねないほど国情が悪化していた。

対する連合軍は無傷の列強である日米の参戦によって時間が経てば経つほどその息を吹き返すことは確実なことであり、息を吹き返した連合軍が攻勢に出てしまえば最早ドイツにそれを防ぐだけの力は残されてはいないことはドイツ陸軍参謀本部の人間なら誰もがわかっていた。

そんな状況であっても、参謀次席兼ドイツ陸軍西部方面軍司令官のルーデンドルフは勝利を諦めておらず、日米の大規模な増援が到着するまでに大陸の連合軍に大打撃を与え、自国に有利な条件で休戦に追い込もうと、大規模な攻勢に出ることを決意した。幸い、ロシア革命以降に東部戦線から大規模な戦力移動を行った事もあって現在は数的にドイツが連合軍を上回っていた事も彼の判断の背を押した。

この攻勢には192個師団とドイツが投入できる全ての戦力が動員され、さらに鹵獲した日本の八七式短機関銃をコピーしたMP18やオーストリアが独自に開発したLT-14を(無断で)完全にコピーし、独自の改良を施して誕生させたドイツ軍初の戦車であるA7Mなどの新兵器も惜しげもなく投入されることになる。

攻勢の開始を連合軍に知らせたのは、ドイツ軍が集めた各種砲あわせて7,000門による極めて苛烈な砲撃であった。

この砲撃は奇襲性を保つためにわずか五時間と言う極めて短い時間であったが、効率的に統制されていたことや砲兵達がしっかりと作戦目的や取るべき行動を把握していたもあって、連合軍防衛力は一時的にではあるが麻痺、そこにブルジネス攻勢でロシア軍とった戦法を基にドイツが研究していた新戦術、《浸透戦術》をドイツ軍が採用していた事もあって攻勢を受けたイギリス軍防衛線は瞬く間に突破されていく。その後、イギリス軍はなんとか防衛線の再構築に成功するものの、ドイツ軍の圧力に屈してソンム河のラインにまで撤退を開始した。

しかし、この時のイギリス軍は塹壕の防御力を過信しており、退却計画の類いを一切用意していなかった。そのため、撤退は大混乱を招き、防衛線に備蓄していた大量の物資が処分されずにドイツ軍に滷獲されてしまう。さらに部隊は統一されずに各自の判断の下に撤退を行っていき、状況の判断をより困難にしてしまう。

しこの頃になってようやく日米の航空隊による後退している前線部隊への近接航空支援が開始され始め、この様な混乱状況に陥ってなお、規律を持って行動していたイギリス軍と共にドイツ軍追撃部隊に損害を与えていった。

896: ホワイトベアー :2019/07/30(火) 16:39:42 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
余談であるが、このイギリス軍の撤退部隊のなかには元海軍大臣であったウィストン・チャーチル卿が指揮をとる王立スコット・フュージリアーズ連隊第6大隊も存在しており、この部隊は常に部隊の殿として戦っていっており、チャーチル卿はヴィクトイア十字勲章を格闘している。


攻勢開始と前後してドイツ軍は超長距離砲によるパリへの砲撃を開始。フランス人の戦意に揺さぶりをかけてくる。イギリス軍は残っている全ての予備戦力を第三軍に集中、ドイツ軍の北進を何とか凌いでいた。しかし、それがイギリス軍にできうる全てでありフランス軍との連絡線を守る第5軍への援軍を送るのは最早不可能であった。

これを受けたヘイグ将軍はフランスに援軍を要請するが、フランス軍はドイツ軍のパリへの砲撃から南進してパリを落とすことこそドイツ軍の目的と認識しており、フォッシュ将軍ら一部のフランス軍人は必死にイギリスに援軍を送るようフランス軍内で説得を続けるが、パリ防衛を優先、イギリス軍への援軍を拒否してしまう。しかし、このままドイツ軍がアミアンに迂回してしまうとフランス軍との連絡線が閉ざされる。つまりBEFはドイツ軍により包囲され、完全なる敗北を迎える事になる。さすがにこれを受け入れられないフランスは日米にイギリス軍への援軍を要請する。

幸いこの時、アメリカ陸軍第三軍団(※1)が即応体制に入っており、この部隊がアミアンへ援軍に向かう。もっとも、連合軍はこの一連の交渉で時間を浪費してしまい、アメリカ軍が到着する前にドイツ軍がアミアンに到着、すでに戦力の大半を失っていたイギリス第5軍にこれを防ぐことができるはずもなく、1918年3月10日にアミアンはドイツ軍の手に落ちてしまう。

しかし、ドイツ軍の進撃もそこまでだった。急速な進撃によって補給線の構築が追い付かず、さらに兵士達が現地に残された食料などに夢中
になってしまい進撃は停止。その後の1918年3月12日、アメリカ軍第3軍団と再編されたイギリス第5軍がアミアン奪還のために日米英航空隊と連動して動き出した。

アミアンに残ったドイツ軍は日米航空隊による空襲とアメリカ陸軍第三軍団の砲撃を耐えて市街地戦を展開するが、1,000両以上のM2中戦車(※2)とM1軽車(※3)、300両以上の装甲戦闘車、4,400両以上の装甲兵員輸送車という膨大な装甲戦力を惜しげもなく投入するアメリカ軍に対してA7M 64両しかなく、まともな対装甲戦力用の装備をもたないドイツ軍が耐えれるはずもなく、アミアンはわずか2日で連合軍が奪還。4万を越える損害がドイツ軍に発生すると言う大失敗に終わる。

897: ホワイトベアー :2019/07/30(火) 16:40:25 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
本来ならこれ以上の損害が出る前に攻勢を停止して態勢を建て直すべきであったが、日米の戦略爆撃や英仏の海上封鎖によって最早次の機会がないドイツ軍は攻勢を停める事ができず、動かせる全予備戦力である5個師団を使い連合軍の目を引き付ける目的でイープル南部に牽制の為に攻勢を開始する。

この陣地はつい先週までは士気の低いポルトガル軍の1個歩兵師団が防衛についており、それを知っていたからこそ、この陣地が攻撃目標に選ばれた。しかし、ポルトガル軍の士気の低さは連合軍内部でも問題となっており、イギリスANZAC軍団が防衛しており、この攻勢は失敗する。しかし、この戦闘はドイツ軍の戦力が最終的に13個師団にまで増え、途中、イープルでの市街地戦にまで発展したとから連合軍はドイツ軍の目的がイギリスBEFの包囲であると判断。もし仮にパリを目標としているとしても西部戦線南部はフランス軍が守りを固めているので、援軍到着までは守りきれると考えたイギリス・日本・アメリカの三カ国は戦線北部に戦力を集中させる。そんななかドイツ軍は今度は西部戦線南部で攻勢を開始。このときのドイツ軍の士気はまるで燃え尽きる蝋燭の火の如く激しく、数こそ多いものの士気の低下が激しかったフランス軍は日米の航空支援があったものの次々と防衛線を突破を許してしまい、攻勢開始から4日後にはマルヌ河が突破され、6日目にはランスが陥落、最早パリまでの道でドイツ軍に抵抗できる防衛陣地はおろか部隊も存在せずパリの陥落は目前であった。しかし、ドイツ軍は突如として進撃を停止させた。

なぜ、ドイツが突如として攻勢を中止し撤退したか。それを語るためには再び東部に目を向けなければならない。

1917年に事実上ドイツを裏切り単独で連合国と講和していたオーストリア・ハンガリー帝国は講和条約と同時にセルビアの併合とバルカン半島でのオーストリアの主導権を確固たるモノにする事、ドイツの海外利権(※4)を対価として連合国側に立って参戦すると言う密約が結んでいた。これは連合国にとっては事実上のロシアの脱落を埋めるためであり、オーストリア・ハンガリー帝国はドイツを裏切ったこともあってドイツに報復されないために半端な状態でドイツが連合国と講和をしてしまう事を嫌ったからであった。

そして1918年3月にドイツ軍が《皇帝の戦い》を始めて、戦況が連合国不利になると少しでも東部で圧力をかけて西部戦線でのドイツ軍を削りたいと考えたイギリスやフランスの悲鳴の様な参戦要請を受けたオーストリア・ハンガリー帝国は、1918年4月16日にオーストリア船籍の客船が大西洋で潜水艦に沈められるという事件(※5)への報復を大義名分にドイツ帝国に宣戦を布告、連合軍に参加した。そして、ほぼ無傷と言えるオーストリア軍200万が国境からドイツ領に侵攻を開始したのだ。

このときのドイツ東部には戦力と言えるものは54個の歩兵師団しか存在しておらず、これらの部隊は全て予備役をかき集めた後備師団であり、さらにそれらはロシアとの国境上に展開していた事もあって、事実上独墺国境は無防備であった。その事もあり、オーストリア軍は小規模な国境警備隊を蹴散らすとほぼ無抵抗でドイツ国内の深くまで侵攻に成功する。これを受けたドイツは急いで軍を呼び戻すが、ドイツ軍の機動力を支えていた鉄道は日米の爆撃でもはや機能不全をおこしており、ドイツ軍が西部戦線や東部から戦力を呼び戻すまでにはオーストリア軍はザクセン王国やバイエルン王国の大半を占領する事に成功しており、さらに防衛線の構築にすら成功した。これによって一度は終結した東部戦線が再び出来上がったのだ。

898: ホワイトベアー :2019/07/30(火) 16:40:56 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
東部戦線の再発はドイツ軍の西部戦線での数的有利を無くす事と同義であり、これ以上の攻勢は傷を深くするだけであるとしてルーデンドルフは攻勢の中止を提言。ドイツ軍の最後の賭けはここに失敗で終わった。

連合国の首脳陣は自らの策が上手くはまったことを悟り大戦の勝利を確信した。そして、今こそ反抗の時だとして連合軍総司令官に就任したフォッシュ将軍は連合軍の最高意思決定機関である連合軍最高軍事会議の承認のもと大規模反抗作戦である《オペレーション・レコンキスタ》を発動、温存されていた日本遣欧軍を主体としてドイツ軍防衛線に攻勢をかける。

この攻勢は豊富な航空戦力と日本軍の高い機動力を活かしてドイツ軍が防御を固める陣地を迂回しながらドイツ軍の重要拠点を攻撃、ドイツ軍を《ファルケンハイン・ライン》にまで撤退させる事に成功する。

そして1918年4月30日、連合国は《ファルケンハイン・ライン》に対して攻撃を開始。130万発と言う膨大な鉄量と、連合軍所属の3,000機を超える航空機の支援の下で同ラインの突破をはかる。これを受けたドイツ軍は強固に抵抗するが、5月12日にはついに《ファルケンハイン・ライン》が突破され、戦線が崩壊、ドイツ軍は30万近くの捕虜を出し、西部戦線でもドイツ本国への侵攻を許してしまう。

オーストリア・ハンガリー帝国の連合国側での参戦と西部戦線の崩壊はドイツの継戦意思を打ち砕いた。ドイツの実質的な独裁者であったルーデンドルフはいまだに戦うつもりであり、軍全体に箝口令を敷いたが、人の噂に戸を立てる事はできずついに一部の兵士達が反乱をおこし始める。幸いこの事件は拡大する前に押さえつける事に成功したが、もはや国民や兵士達が限界に達している事を理解させられた軍および政府首脳部はつい連合国との講和交渉を開始する。

1918年5月26日、ドイツではついに国民等が我慢の限界を超えて、各地で兵士や労働者等による平和と自由とパンを求めるデモが多発し、ドイツの主要都市ではレーテの支配下になるなど、ドイツ帝国の崩壊が始まった。

この事態にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は自らの責任を放棄、家族と一緒に財産を持ってオランダに亡命してしまう。これを知ったフィリップ・シャイデマンが、独断で帝政の終了と共和国発足を宣言、この発表はドイツ国内では何の抵抗もなく受け入れられたが、しかし、4つの帝国(ロシア帝国、大英帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、大日本帝国)が参加していた連合国、特に現在進行形で革命派と内戦状態のロシアや隣国であるオーストリア・ハンガリー帝国からは強い警戒を抱かれてしまい、早期に停戦条約を結びたいと考えていた宰相フリードリヒ・エーベルトはフィリップ・シャイデマンの宣言はドイツ政府の公的なものではなく、ドイツは帝政をやめる意思はないと連合国に発表。唯一国内に残っていたヴィルヘルム・フォン・プロイセン皇太子をヴィルヘルム三世として皇帝に戴冠させた。

多くの社会民主党議員はこれに賛成したが、独立社会民主党やスパルタカス団などの革命派にとっては帝政の継続は到底受け入れられない事であり、同じ左翼的正当でありながら両者の関係は悪化していった。

そうした国内のゴタゴタが残ってはいたものの、1918年6月1日、ザールブリュッケンにて連合国とドイツの間で正式に一ヶ月間の停戦条約が締結され、ドイツ軍は多くの軍需品を連合軍に引き渡して占領地および連合国占領下の地域の半径30km区域から撤退、ドイツ海軍も艦艇はスカパフローにて拘留された(海軍軍人はドイツに帰国した)。

899: ホワイトベアー :2019/07/30(火) 16:43:33 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
その後、ドイツ軍の停戦条約の履行を確認した連合国は1918年6月8日よりパリで講和会議を開催。およそ4年間という長い期間に渡った戦争は多くの犠牲を出しながらその幕を閉じようとしていた。

(※1)
アメリカ陸軍第三軍団 編成
第1機甲師団 第2機甲師団

第18歩兵師団 第24歩兵師団
(機械化歩兵部隊) (機械化歩兵部隊)
第26歩兵師団
(機械化歩兵部隊)

(※2)
十式中戦車のアメリカ生産タイプ。主砲は52口径76.2mm戦車砲。

(※3)
1910年に正式採用された史実M5A1相当の戦車。アメリカ陸軍に始めて正式採用された国産戦車である。ちなみに同世代の軽戦車としては1912年に正式採用された日本の十二式軽戦車(史実M24)や1914年に正式採用されたLT-14軽戦車(史実ブルシュタイン自走砲)などがある。

(※4)
ドイツのアフリカ植民地と中華民国でのドイツ利権の継承を認めると言うこと。ドイツ領南西アフリカに関しては南アフリカ共和国がごねたが、結局オーストリアに渡されることになった。

(※5)
オーストリア・ハンガリー帝国の海運会社がイギリスを経由してオーストリア-アメリカ間の間で運行していた輸送船アドリア号が大西洋上で潜水艦によって撃沈され、オーストリア人128名が死亡した事件。SOSを受けたアメリカ海軍のパトロール部隊(ハンター・キラー部隊)が即座に駆けつけたが、その頃には潜水艦は逃げており、撃沈には失敗した。

この事件を受けたドイツ政府および海軍は即座に、アドリア号を撃沈したのはドイツ軍ではなく、連合国の陰謀であり、オーストリアの冷静な判断を望むと言う公式発表を行うが、それまでのヤラカシの事実から信用されなかった。
オーストリア・ハンガリー帝国の世論は同盟国であるはずのドイツ軍による攻撃に大きなショックを受け、マスメディアは軍事的報復を声高に叫んだ。オーストリア政府はドイツ政府に事件発生からわずか4日で最後通告を叩きつけた。

900: ホワイトベアー :2019/07/30(火) 16:44:09 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
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最終更新:2019年08月03日 09:31