959: 透過の人 :2019/08/01(木) 17:48:17 HOST:softbank126077075064.bbtec.net
1931年1月10日ブラジル サンパウロ市沖 リアシュエロ
「おーい、何か見えたか」
「いや、特には…まて、接近する機体がいる、数は10機以上」
「この付近にに味方はいない、対空戦闘用意…だが、航空機で一体何ができるというのだ。」

「よし、隊長機より各機、諸君進路そのまま落ち着いていけ。」
やはり、無線はドイツ製に限る。ウーデットとゲーリングから託された機体を操りながらミッチェルはそう考えた。
と、考えている内にリアシュエロの艦影が大きくなる。今だ。
僚機が魚雷を次々に投弾する。リアシュエロに弾頭重量226kgの魚雷が向かう、
放たれた14本の魚雷の内命中したのは9本、だが何発か不発もあったらしく未だにブラジルの誇る黒鉄の城はその巨体を浮かべている。
「止めをさすとするか」
AEG社製試作爆撃機は爆弾槽を開き、そこから454kg爆弾を投弾する。従来の水平爆撃ではなく反跳爆撃と呼ばれる新しい爆撃法だった。
ミッチェルは左遷されていた間、ただ何もせずにいたわけでは無かった。今回の義勇軍のように海軍の力を借りられない状況下でも敵艦を撃沈するために、
様々な方法を考え、たどり着いたのが、反跳爆撃だった。
投弾された4発全てがリアシュエロの艦艇に潜り込み水中爆発を引き起こした。ブラジルの象徴は大きく傾斜を始めた。
ここにミッチェルたちは夢を現実に変える第一歩を踏み出したのだった。(注)

それから1週間後ルイス大統領の亡命により、ブラジル内戦は終わったがもはや世界にとってはそんなことはどうでも良かった。
戦艦以外の攻撃では、基本的に絶対に沈むはずのない戦艦が航空機によって沈んだ。そちらの方が衝撃だった。(注2
こうして1932年のジュネーブ軍縮会議は波乱の幕開けを迎えるのだった。

注 その後ミッチェルは帰国し空軍独立を再び、推し進めるがその強引な手法ゆえに敵も多く、
特に海軍航空隊さえも空軍の管轄下におさめようとしたことは政治的な問題すら引き起こした。
一方、ゲーリングとウーデットは機体の無断供与が問題となりドイツ陸軍航空隊には戻れず、
二人でゲーリングの妻のコネでスウェーデンの空軍や航空会社に勤務した。その後ゲーリングは、
ABアエロトランスポートやSAAB社の社長や顧問を歴任した。
ウーデットも暫くはスウェーデン空軍や航空会社で働いていたが、やがてゲーリングの義理の甥であるローゼン伯爵とともに、
世界を飛び回ったり、ミッチェルの依頼でアメリカ勢力圏のベネズエラで教官として働くなど気ままな生活を送った。
二人の親交は生涯変わることはなかった。

注2 以前より空母の整備を進めていた日本に対し注目が集まったが、実のところ一番混乱したのは日本の某秘密結社だった。

960: 透過の人 :2019/08/01(木) 17:54:46 HOST:softbank126077075064.bbtec.net
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最終更新:2019年08月03日 09:37