7: ホワイトベアー :2019/08/03(土) 16:43:11 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
日米枢軸ルート 第33話

世界大戦の終結と国際連盟の創設でようやく平和になると思われた世界情勢であったが、そうはならなかった。

1917年から始まったロシア内戦はいまだに収まるところを知らず、それどころか欧州方面ではボルシェビキ政権恐れる欧州列強が反革命勢力への本格的な支援を開始し、より一層酷くなっていった。

極東地域でも、1918年からボルシェビキ勢力の影響力拡大阻止と更なる権益拡大を目指す日米が朝鮮連邦や満州連邦を巻き込んで、ニコライ2世からの要請のもとシベリア出兵を実行。ロシア帝国陸軍と共同で少数ながら遊撃戦を実行していたパルチザン討伐を実施。その後も1922年にソビエト政府と帝政政府の間で休戦協定が結ばれるまで規模は削減しつつであるが極東ロシアに駐留を続けた。

日米の武力や援助などの支援を受けていた帝政政府は大した混乱もなく、また、住民に不当な苦労をかけることもなく極東ロシアを統治する事に成功しており、ソビエトはその影響力を拡大させる事に困難していた。そして、ポーランド・ソビエト戦争でまだ出来て10年も経っていない新興国に敗北したソ連は、国内の建て直しの為に、極東での負担を軽くさせるのを目的として帝政政府に休戦を打診する。これにいくら日米の支援があると言っても極東地域のみで100万近くの大軍をいつまでも維持し続けるのは負担が大きすぎると考えた帝政政府も受け入れ、1922年8月にレーニンの死後、彼の後継者となったスターリン率いるボルシェビキ政権と帝政政府は休戦協定を締結、ロシアの分断がここに固定化されることになる。

その後、ボルシェビキ政権は同月にソビエト社会主義共和国連邦の樹立を宣言、連合国との関係改善に努めていった。しかし、連合国内の共産主義国への不信感は極めて高く、なかなか成果がでないこともあって、彼らはドイツ帝国との接近を開始する。ソ連から見たらドイツ帝国も撃ち破るべき忌まわしきブルジョワジー達が支配する帝国主義国家であったが、背に腹を変えることができなかったのである。ドイツもこの時の一番の仮想敵国がポーランドであった事からこの打診を前向きに考え、賠償の相互放棄や軍事に関する極秘裏交流など定めたラッパオ条約を同年に締結し、相互の軍事交流を開始していった。

欧州でドイツとソ連が接近していく一方、アジア太平洋地域ではロシア革命によって蔓延した《民族自決》と言う考えが各国の植民地に浸透、独立運動が劇的に増えていっていた。特に激しい運動がおきたのが、インド、インドネシア、インドシナ、フィリピン、そしてハワイであった。

さらにインドこそ非暴力運動であったが、その他の地域では過激な暴力的独立運動が発生、最も大きい暴動がおきたハワイでは、ホノルルが一時的に暴徒に占領され、ハワイ防衛の任をおっていた第24歩兵師団が暴徒鎮圧の為に投入されるほどにまでなった。また、その他の地域でも、こうした暴動は宗主国のなりふりかまわない鎮圧によって次第に沈静化していった。

しかし、こういった植民地での暴動によって植民地を持つ国は足場を固める必要に迫られ、その目は国内、勢力圏内に集中してしまう。唯一幻夢会の知識がある大日本帝国はラッパオ条約の軍事密約に気づくことができたが、世論の関係やパリ講話会議からのイギリスやフランスと微妙な関係もあってソ連とドイツの接近に何ら有効な手を打てなかった。

8: ホワイトベアー :2019/08/03(土) 16:45:41 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
時は少し遡り、1919年、日本で電波法、放送法、電波監理委員会設置法の電波3法が施行され、世界初のテレビ放送に関わる電波オークションが開催された。この電波オークションでは日本テレビを始めとした6社がオークションで電波を利用する権利を落札、同年11月には三菱電気製作から初の民生用テレビが販売開始、大戦による好景気やテレビの値段の安さもあって日本国内で跳ぶように売れていき、販売開始からわずか3年で一般大衆に普及し始める

そして、テレビは満州連邦や朝鮮連邦、アメリカ合衆国等にも輸出が開始され、次々とテレビ放送が開始されていった。当然、テレビ放送を行うためには受信機のみならず発信器が必要であるのは自明の理であり、これ等の機材も日本が輸出しているものが使われる。そして、輸出の承認には日本政府の承認が必要であったため、自ずとこれ等の国のテレビ局には大なり小なり日本の影響力が浸透したため、電波インフラに大きく影響力を残すことに成功、日本はテレビと言う新たなる宣伝方法で太平洋地域のみであるが主導権を握っていった。

無論、こういった状況に危機感を抱き、独自の電波インフラを整えるべきだと唱える政治家もいるにはいたが、独自にインフラを1から築く予算に尻込みをする政治家も多くおり、結果として日本の電波インフラに乗っかる事となった。

電波以外にはこの頃から第一次世界大戦で日米軍が運用していた輸送機が民間に払い下げられ、太平洋、大西洋を問わずに航空旅客輸送が一気に増大していく。特に倉崎が世に送り出したKSC-17(世界初の与圧構造搭載4発長距離旅客機)は与圧システムなど日本の最新技術を導入した事もあって、日本や同盟国であるアメリカの企業のみだったが販売され、日米の市場で大きなシェアを握るロシア帝国やオスマン帝国などの同盟国や友好国向けに1世代前の機体であったが、飛行性能と輸送力・経済性を高い水準でバランスさせたKSC-12(2発旅客機)の販売も開始されており、世界市場で大きなシェアを握った。

無論、アメリカ企業も負けてはいない。国内、南米向けの旅客機として三菱と技術提携をしているボーイング社が与圧構造を搭載した2発の中型旅客機であるボーイング240の販売を開始する。この機体は国内線をメインとしており、KSCシリーズ程の足は必要ないのだが、与圧構造搭載の機体が欲しいと考えていた企業の要求とマッチしていた事もあって、日本やアメリカの企業からの発注が相次ぎ、それまで日本で開発された機体のライセンス生産しかおこなって来なかったアメリカの技術力の高さを改めて証明する。

こうした航空旅客輸送の発展や、戦前のタイタニック号沈没と言う大事件もあって1920年代には豪華客船が大きなシェアを占めていた大西洋横断航路や、同じく客船が大きなシェアを占めていた太平洋横断航路は衰退に追い込まれていき、こうした面でも新しい時代に移っていった。

9: ホワイトベアー :2019/08/03(土) 16:46:14 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
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最終更新:2019年08月08日 09:54